―― こ の 道 の 行 く さ き
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 草原と街の空気は違う。密度と匂いと、自由さ。草原の空気は何もかも濃いのに対して、街のそれはどこか軽く、息苦しいほどに弱い。人の生活臭がそうさせるのだろうか。
 三十歳を前にして、ユメは自らを鍛えるために家を出た。
 リリスのすべてを見て回り、各地に散らばる戦士たちと相対して己が心身を鍛えるためだ。大小の街、それから季節ごとに移動する様々な氏族のもとに身を寄せ、日雇いや護衛の仕事で路銀を稼ぎ、また移動する。それを繰り返して、二年。
 久しぶりにシャドの街中にいて、油と埃、甘いような人の体臭を感じていた。ここまで鋭敏なのはずっと草原にいたからだろう。それを表すがごとく、ユメは己と家畜の臭いが染み付いた衣服と汚れた外套を身にまとい、使い古した丈夫な布や革袋という荷物を背負っていた。全身日に焼け、髪は伸びっぱなし、立っているだけですれ違う人が遠巻きにしていく。旅で溜めた汚れと臭いは、街の住人には迷惑でしかないだろう。これでも、最後は遊牧を生業とする氏族の元に身を寄せたので、多少身綺麗にしたのだけれど。
 貴人の邸宅が立ち並ぶ地区に足を向けると、ひどく懐かしく感じられた。屋根はこういう色だった、こういう形だったと、何気なく見ていたものが急に腑に落ちるというか。不思議なものだ。
「…………」
 ふー、と長い息を吐く。動悸がするのは、緊張しているせいだ。
 自宅ではない邸宅の門扉を叩き、声をかけると、門番が現れた。
「ご子息はご在宅ですか?」
 訝しげな顔をした老人は、まじまじとこちらを見て、途端に飛び上がって名を呼ぶと、家中に来客を告げることなく急いだ様子で門を開けてくれた。
「なんてこった、お嬢様じゃないですか! ほんにお久しぶりでございます。長旅から帰っていらしたところですか?」
「壮健で何よりです。……そんなにひどい格好ですか?」
 帰ってきたばかりだとわかったのは見た目のせいだろう。はいそりゃもう、と門番は笑った。
「だとしても若様は別に構いやしませんでしょう。どうぞ、中に。いつもの書き物部屋にいらっしゃるはずですよ」
 そう言われて通されたものの、まさか建物に入るわけにもいかず、庭から回ることにした。幼少時代の遊び場の一つだったから勝手はわかる。
 庭は、木蓮が花の盛りを迎えていた。小道には山茶花の赤と白の花びらが散っている。冬の葉は濃く分厚い。吐き出す息は白くなった。様々な植物の葉で舟を作って用水路に流した、あの頃が懐かしい。
(この臆病者。思い出してばかりではないか)
 リリス族の見た目は二十歳前後の姿で止まる。ユメは多少汚れたが、ここにいる彼は別れたときとさほど変わっていないはずだった。だが、変わらないものなどないから、不安だった。変わっていたら。忘れられていたら、どうしよう。
 そう不安に思ったところで、彼はそれを、何が悪い、と鼻で笑う人間なのだけれど。
 臆病風に吹かれている己を叱咤して、足を進める。
 母屋の屋根を遠く見るところに、離れがある。それがユメの幼馴染であるカリヤ・フェオが一日の大半を過ごす書き物部屋だった。
 庭に面した障子は開け放たれていた。廊下にまで書物が積み上げられ、風にさらわれた紙が散らばっている。暗い室内に座る男は、明かりをつければいいものを、眼鏡の奥の目を鋭く細め、ひとつひとつ突き刺すような視線で文字を追っていた。
 寒そうに身じろぎをして、羽織ものを掻き合わせるもの、集中しているせいでこちらには気付かない。
「カリヤ」
 カリヤ。旅の途中、何度か思い出した彼の名前だった。
「カリヤ」
「……何度言ったら」と彼はふいに書物を閉じてため息をついた。
「あなたは覚えるんですか、ユーアン。私がこの部屋にいるときは声をかけるなと…………」
 目が合った。
 稀なる驚愕の表情を浮かべ、カリヤが呼ぶ。
「ユメ……ユメ・イン……?」
「そうです、カリヤ・フェオ。婚約者殿でなくて申し訳ない」
 ユメはにっこりして、踵を返した。
「変わりないようで何よりです。帰還の挨拶に来ただけですので、これで失礼します」
 来た道を戻るが、カリヤは追ってこなかった。寒いから足の具合が悪いのだろう、それを知りながら早足になったのだから、これはきっと逃亡なのだ。
 幼馴染みが婚約者と幼馴染みである自分を取り違えたのを聞いて、狼狽えたのがひどく口惜しく、ユメは唇を噛んだ。

 愛娘の帰還を、家族は大袈裟なくらい喜んでくれた。父は感涙にむせび、ユメを抱き締めるどころか縋り付くようにしたので、大人げないと母にたしなめられていた。そう言う母も、抱擁の後は目を潤ませていた。
「すっかり痩せてしまって。いえ、引き締まったというべきね、お前の努力が目に見えますよ」
 元々中性的な顔立ちだった。だが体重を落としながら必要な筋肉をつけると、無頼者めいた武骨な見た目になっていた。母の言葉を嬉しくも、多少複雑に感じたことを思い返しながら、風呂で旅の汚れを丁寧に落とす。全身の、切り傷、獣に襲われた際に負ったものや、人助けをしたときの火傷などをなぞり、流れた月日を思う。伸びた髪を洗いながら、短く切らなければ、と思った。
 だが着替えをしてすぐに行動に移したのは、髪を整えることではなく、馴染みの武具屋に行って太刀を注文することだった。数日後に出仕することになるだろうから、それに間に合うよう、用立てておかなければならないと思ったのだ。
 街に出ると、娘たちの華やかな装いが目につく。大ぶりの花を模した髪飾りは、きっと流行なのだろう。ひとつに結んだ髪を今日にでも切ってしまおうと思っているユメには縁のないものだが、可愛らしくてよいものだと思う。
 武具屋では、旅で使用していた太刀や小刀らを研ぎに出す。次いで、新しいものを見立てた。代金を払ってイン家に届けてくれるよう頼むと、用事は終わりだ。
 辺りを散策してどのくらい街が変わったのか見てみようか、などと考えていると、傍らを通り過ぎた馬車が少し先で停まった。窓が開き、後方に身を乗り出した女性がふぁさりと花飾りを揺らしてユメを呼び止める。
「やっぱり! ユメ・イン様ではありませんか」
 黒髪をたっぷり結った明るい笑顔の女性は、目を丸くするユメに「覚えていらっしゃらない?」と可愛らしく小首を傾げた。そんなことはないとユメは首を振る。記憶にあるよりも美しさに磨きがかかったように思えて、驚いただけだ。
「シン家のユーアン様。ご無沙汰しております」
 嬉しいわ、と純粋に喜ばれて、心のどこかがひきつる。
 代々文官を輩出する家の娘で、立場も年齢も似ているカリヤを交えて交流があった。カリヤの花嫁候補として目されていると聞いたが、カリヤがそれらしい素振りを見せないために、いままでそれについて考えるのを止めて、つい先ほど思い出させられたばかりだったせいだ。
「お会いできて本当に嬉しいわ! いつお戻りになったのですか? ずいぶん長くお見かけいたしませんでしたわね」
「今日戻ったばかりです。久しぶりに街を歩こうと思ったのですが、懐かしい方にお目にかかれて嬉しゅうございます」
「巡り合わせに感謝いたします。今日戻られたばかりなら、お食事にお誘いするのはご迷惑ですわよね、また家を訪ねてきてくださいますか?」
「もちろんです。ご両親にもご挨拶差し上げたいですから」
 きっとよ、と念を押したユーアンを見送り、ユメはふうっとため息をついた。
 いかにも都会の娘といった華やかな女性と話すと、己の武骨さが際立ってどうにも無粋だ。歳も歳だし、彼女のように着飾ることを日常的にやらなければ、気を逃してしまいそうな気がする。娘時代のように「美しさよりも強さがほしいのです」などと言ってはいられなさそうだ。
 旅に出るより前の自分を半分微笑ましく、もう半分は苦く思いながら帰宅すると、来客を告げられた。
 応接間に行くと、先ほど見たばかりの顔がある。
「お邪魔していますよ。先立ってはひどい帰宅の挨拶をありがとうございました」
「こちらこそ、私とユーアン様を間違えるという歓迎をしてくださいましたね」
 皮肉に、皮肉で返す。
 だがカリヤは動じるどころか、呆れたように言うのだった。
「一年以上も会っていない人間と、頻繁に顔を合わせる人間と、どちらが家にやってくるかといえば後者でしょう」
 ユメが唇を引き結ぶと、カリヤは苛立ったように唸りながらがしがしと頭を掻いた。
「別に開き直ったわけじゃありません、あなたが受け取ったような意味ではなく事実として言いました。だから傷付くのは止めてください」
「な……っ、誰が傷付いたと、」
「おかえりなさい」
 文句の言葉がすっ飛んでいった。
「色々と無茶をしたようですね。ずいぶんと武人らしくなった」
 カリヤは片頬を上げて笑っている。無事を喜ばれた、そのことがわかり、悔しくも胸が急に熱くなった。
「そ、そのための旅です」
「武者修行なんて無謀な真似をしても、それを使う主が無能なら意味がありませんがね」
 鼻であしらったカリヤに、ユメは顔をしかめた。
「天様に何かあったのですか?」
「あなたが言っているのがシェン家のキヨツグのことなら、彼はまだ公子なのでその敬称は間違っています」
「私が旅に出るときには内定していたはずです」
「就任が遅れています。まあ族長代理として動いているので、実態は族長ですが」
 ユメは表情を引き締め、詳しい説明を求めた。

 族長就任に当たって、キヨツグが命山の後ろ楯を持っているからといって族長に据えていいものかという異議が唱えられたという。
 さらに、次期族長を選ぶ原因となった毒殺未遂事件の犯人に重い罰を与えたキヨツグの人間性を疑う声が上がったのだそうだ。何せその犯人は、彼が当時関係を持っていた女性とその両親だったのだ。

 キヨツグは族長夫妻の子ではないが、それよりももっと濃い、生きる伝説たる始祖と女神の血を引いている。彼は生まれながらにして長になるすべてを備えていた。ユメから見ても、思慮深く、冷静で、完璧だといっても過言ではない能力を持つ、指導者にふさわしい人物だった。
 だから毒殺を企んだ者たちに相応の処分を下すのは当たり前だ。
「何が問題なのかわかりませぬ。族長代理として裁きを下しただけではありませぬか」
 憤慨したが、カリヤは皮肉げに笑った。
「共感できるか否かです。少なくとも犯人側の娘の抗弁には説得力がありました」

 あなたは一度もわたくしを愛してくださらなかった。
 愛の言葉どころか笑顔すらくださらなかった。
 わたくしは駒のひとつにすぎなかった。
 いまこうしてわたくしを見下ろしていて、何の情も覚えてくださらないあなたは、人として欠けている。
 そんな人間が治めるリリスなど、見たくない。

 恋人の娘はそう告げ、はらはらと涙をこぼした。だがキヨツグは恩情をかけることもなく、迷いもなく処分を下した。その話を聞いた民草は娘を哀れみ、キヨツグを非難するようになったという。ひどすぎる、娘の苦悩を理解しなかったのか、などと言って、完全無欠であるからこそ人の心がないのだと詰った。
「……すべて上手くやってしまう方だからこそ、理解できない、ということですか」
「しかしその考えには一理ある。非難する者たちに能力がないというだけの話です。族長に人の心がないのなら、上手く使えば、リリスを守ることができるのだから」
 ユメはきっと睨んだ。
「不敬ぞ」
「承知の上です。キヨツグ公子不支持派をまとめているのは私ですから」
 ユメは愕然とした。楽しげに笑うカリヤが、何を考えているかわからない。
「しばらくしたら出仕するのでしょう。そのときに内部事情を聞いておくことです」
 それでは、と言いたいことを言うと、カリヤは去っていった。
 ユメは額を押さえた。戻ってきたばかりだが、安らいだ時間はそう長くは保たなかったことに、軽い目眩を覚えた。

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