―― 願 い 事 は 宙 に
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 リリス族長の妻、真夫人たるアマーリエが帰還して数日が経った。主人がいる日常、けれどあの頃の平穏には程遠い慌ただしい毎日に、アイたち側付きも、追われるように立ち働いていた。
 痩せてしまわれた、と主人の着替えを手伝いながら、アイはそれと知られぬよう目を細める。
 ヒト族の都市は豊かで便利な生活が約束されているというけれど、戻ってきたアマーリエは不健康に痩せてしまっていた。肌は青白く、艶がない。それでも再会したときのような不穏な悲しみの影が日に日に薄くなっているから、いずれは元に戻るはずだ。
 綻ぶ前の可憐な花を思わせるあの佇まいを、きっと取り戻してみせる。
 そう考えているのはアイだけではなかった。筆頭補佐のセリも、後輩女官のココたちも、アマーリエを癒そうと奮闘していた。それはあたかも、萎れかけた花に一生懸命水をやるようなものだったと思う。
 キヨツグもまた度々彼女の機嫌を窺いに訪れ、うら若き少年少女にも見られないような初々しさを見せつけては周囲に笑顔を提供した。そのときばかりは、アマーリエも少女のような物慣れなさと恥じらいを見せてくれ、アイを安心させた。
 それに、いまのアマーリエには息子がいる。コウセツと名付けられた御子と向き合うとき、彼女はこれまでにない凛とした顔つきになるので、驚いた。待望の御子とあって周囲が相好を崩しているから、余計にそう感じるのかもしれない。
 すべてが元通りとはいかないけれど、その日、アイは筆頭補佐のセリに仕事を預け、休暇を貰っていた。
 大方の女官は仕事に慣れ、こうしてアイが職場を離れても問題ないくらいに成長している。久しぶりの街歩きは、楽しい。何か買ったり食べたりするのではなく、住人が生き生きと暮らしている様を眺めるだけで、心がほっとする。
(ずいぶん、月日が経ったものだわ……)
 筆頭の地位を貰ってから、ではない。いま振り返ったそこにある、朱塗りの王宮に上がったときから、あっという間に時間が流れてしまった。
 堂々たる宮殿を見つめていたとき、ふと、線香の匂いを嗅いだ。
 そちらに足を向けると、シャドで最も大きな廟に、少なくない人が詣でていて、線香の煙の中、跪いたり語りかけたりしていた。
 その光景にふと、若い頃の自分が紛れ込んだのを幻視する。
『あのとき』のことは、誰にも話していない。当事者がいなくなったいま、アイだけの記憶だ。それに不意に感慨を覚えたのは、かの人がいなくなって、キヨツグが族長となり、伴侶を迎え、御子が生まれたせいだろう。きっといま、その記憶を取り出して懐かしむときがきたのだ。


       *


 アイの実家であるマァ家は、代々文官を輩出する、言うなれば貴族の家系だった。親族は草原で放牧を営んでいるが、主家はシャドにあり、アイはその長女だった。
 最も力を持っていたのは、母だった。彼女は非常に信心深い人で、遅くにできた子どもが生まれた日に占術師に視てもらった結果で、名前を決め、将来を決めた。その結果、アイは名を得て、将来王宮に上がることを生後間もなくして決められた。
 一方で出世欲のない父は、娘が「後に王宮にて大事を担う」という占いの結果で英才教育されるところを、少し困ったように見ていた。ただ優しい人ではあって、アイを何かにつけて褒めつつ、よくないところは厳しく叱った。特に言葉の強さを注意されたのが印象深い。言葉の使い方をよく考えなさい、というのは、いかにも文官、それも王宮文庫に携わる人らしい叱責だった。
 家族より家庭教師たちから教わったことの方が多かった幼少期だが、一つ、母から直々に聞かされたことがある。
 リリスとしての心構えである。
 宙に拝し、長を絶対とし、命山の方々を敬い、そして祖霊を大事にすること。
 毎朝廟に拝することは、忘れることが恐ろしいくらいの習慣になった。放り出したことが知られた幼い頃、母に殺されるのではないかというくらい叱られたこともあった。
 しかしそうした毎日であっても、アイは別段、強い信仰心を持たなかった。
 高熱が出て命が危ぶまれたときも、幼馴染みの生まれたばかりの弟が亡くなっても、天にまします方々は決して助けてくれない。だから敬うべきは敬い従うべきは従うが、神か人の命かという二者択一なら神は選ばない、と考えていた。だが家と親に庇護されている手前、従うべきだと判断して、特に理由なく逆らったことはなかった。
 王宮に上がったのは十二歳のとき。見習いから女官に上がり、族長付きになったのは十八歳のときだ。
 当時の族長はセツエイ・シェン。キヨツグは十八歳、次期族長候補として公子を名乗っていた。
 王宮に花形である武士には劣るが、女官もまた、華やかな職業のひとつである。仕える主人によって優遇の具合が異なり、誰もがいまをときめく方々の側付きになろうとして、年齢や役職関係なく蹴落とし合うこともしばしばだった。一方で、不和を起こさず、気持ちよく仕事ができればいいと考える少数派もあって、アイはこれに属していた。後に筆頭女官補佐になるセリとはここで知り合って以来の仲だ。
 王宮に上がっても、アイが習慣である参拝を止めることはなかった。王宮内部には歴代族長や始祖をはじめとした神々を祀っている神殿と、誰でも立ち寄っていい始祖と女神の廟がある。もちろんアイは後者の廟に詣でていた。
 古臭いと笑う者はともかく、止めどきがわからなかったせいもあるし年配者に評判がよかったこともあるが、詣でる、拝する、祈るという一連のそれは、アイにとって自分を損なわないようにするための儀式のようなものだったのだ。
 親兄弟の目がないことで開放的になり、悪辣に振る舞う者。
 敵と見なした同僚に惨い仕打ちをする者。
 身を落とすような恋をし、処罰される者。
 女子どもと見て、付け入る者。
 そういう、家にいては決して見えなかった人間の汚い部分があちこちにあって、疲れることがしばしばあった。参拝を行うことが自分のすべてを支えているとは思わなかったが、自身の運命を決めた、祖霊と占いを信じればいつか道は拓けるのではないか、とは、都合よく思っていた。
 清掃の者がいるので、御影石の床は鏡のように磨き上げられている。線香に火をつけ、膝をつき、祈りの言葉を唱えた。
 朝の廟は静かで、周囲の庭木のさやさやという葉擦れの音が聞こえてくる。光は柔らかく、空気は澄んで、細くたなびく香の煙は絹糸のように解けていく。
「熱心だな」
 低い呟きと笑う気配がして、アイは跪いたまま振り向いた。
「いつもはもう少し遅いのだがね。その時間に来ると、花や香があるから、誰がそんなに熱心なのかと思っていた」
 悠然と仕草でやってきた背の高い人物が誰なのかを悟って、アイは咄嗟に手をついた。
「天様……!」
 現族長セツエイ・シェン。緩く波打つ髪を柔らかく結ったところも、衣服をゆったりと着こなす様も、いつも遠目に見る主人の姿に相違ない。
「叩頭しなくとも良い。この場所ではこちらに座す方々こそ、そうされるべきなのだから」
 優美で儚げな微笑みは、寂しいというよりほのかな温もりを伴っている。言われるがまま、アイは頭を起こしたものの、どうしていいかわからなくなってしまった。
(元の位置に向き直った方がいい? それとも……ああしまった、御前を失礼するのが最適解だったわね)
 面の皮が厚いと評判のアイでも、やはり族長の登場には動揺させられてしまったようだ。だがここでいつまでもじっとしているわけにはいかないので、すぐさま立ち去るべく口を開こうとしたところで。
「願い事が、あるのかい?」
「……はい?」
 思いがけない言葉をかけられて、反射的に返していた。
 困ったようにセツエイは眉尻を下げている。
「いや、君くらいの若い娘が、こうして……恐らくは君にはあまり縁のないであろう祖霊に拝するのは、何か理由があってのことなのかと思ったんだ」
 アイは恥ずかしくなった。信心深くないがためにただ習慣と化している参拝が、何かを必死に願っているように見えたのだ。
 いたたまれないでいると、セツエイはさらに言葉をかけた。
「だがね。願い事は、遠い存在に祈るのではなく、誰か身近な人に口にするのが最も叶えられやすいものだと私は思う。秘めているだけでは何も動かせない。口にして初めて、願いという形になるのだ、と」
(この方は……)
 願ったことがあるのだ、と思った。
 だが不思議だった。彼は、ほとんどの願いを叶えられる高みに近い、アイたちとは立場を異にする人なのだ。そんな人が、いったい何を願い、誰にそれを口にしたのだろう、とアイはぼんやり想像し、辞する機会を失ってしまったことを考えていた。
 梢の鳴らすさらさらという音、木漏れ日の明滅、小鳥の鳴き声。心地よいほどの沈黙に浸っていたアイは、やがてはっと我に返った。
(こ、答えを待たれている! ええと、ええと……!)
 突然息を飲んだかと思うと、焦った様子で視線をさまよわせ、手を口元に寄せたり握り締めたりする小娘を見て、どう思ったのかはわからない。ただその人は、穏やかに笑ったのだ。くすくすと、軽やかな、少年のようなあどけなさで。
 ぎゅうっと、アイの胸は引き絞られた。頬が染まっていくのがわかる。
(だめよ)
 心の奥にいる冷静な自分が、アイの感情の暴走を諌める。
(この人が誰なのかわかっているの)
 絶対とすべき長。天様と呼んで仰がなければならない、アイの身分ではこんなところで直答するのも恐れ多い人。
(冷静になりなさい。その考えを捨てなさい。あまりにも不敬、願ってはならないこと――)
 この人が笑うと嬉しい。
 この人に、ずっと笑いかけてもらいたい。
 相反する二つの心で、アイはその願いを知った。見つけてしまった。
「願い事は。わたくしが、願うのは……」
 しかしそれは抱くことの許されないもの。
 生まれたときの占いで「後に王宮にて大事を担う」と告げられたアイは、家族や親族によって、真夫人になってもらいたいという期待を背負って教育され、そのための努力が求められた。
 だからその願いは、周囲から寄せられる期待に添えば、キヨツグ相手に抱くのが正しい。
 血の繋がらない、しかし正当な血統を持つ公子キヨツグ・シェン。王宮に勤める多くの女性がそうであるように、アイは花嫁候補の一人であると、セツエイもまた考えないはずがなかっただろう。
「願い事は……――ただ、天様の御代が長く続きますように、と……」
 占いによる祖霊の言葉を裏切り、セツエイの信頼も失ってしまうとわかっていて、アイに何も言えるわけがなかった。

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