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 ルーイは区会議員の父を持つ上流階級だ。医学生をやっているのは、稼業は兄が後を継ぐことになっているからで、次男がなるとすれば弁護士か医者だと、母親に子どもの頃から言い聞かされてきた。
 医者を選んだのは将来を見据えてのことだ。これからヒト族は更なる発展を遂げ、研究者こそが高い地位を得ることになるだろう。適当に医者をやった後は、バイオテクノロジーの研究者に天下りすればいい。そう考えられる家に生まれたのがルーイだった。
 だからこそ、ひとつのスキャンダルは身を滅ぼしかねないとわかっていたはずだったのに。
 初夏に入ったばかりのある日のことだった。
「子どもができたかもしれない」
 彼氏彼女という間柄になった彼女が一人暮らししているマンションにいつものようにやって来た。適当に食事をして、一段落した頃、上目遣いに話を切り出され、ルーイは愕然とした。
「子ども……」
 うん、と気恥ずかしげに両手を握りしめながら、彼女は言う。
「たまたま、会社の健康診断で分かって」
 それは『かもしれない』とは言わない。『できた』というのだ。
 沸き起こったのは、喜びではなく、怒りを含んだ当惑だった。大学生なのに。両親は何と言うか。
「でも僕たち、避妊してたよね」
「しなかった時もあったじゃない」
 そんなことはないはずだ。そんな危険を冒すはずがない。なのにはっきりと言い切れない。目の前の彼女が、幸せそうな顔で腹部を撫でている。言葉よりも圧倒的に責任を追及してくる。
「結婚してくれる?」
 急に吐き気を覚えた。目眩がして、視界が揺れる。
「ちょっと……ごめん。驚きすぎて、気分が」
「大丈夫?」
 それには答えず、洗面台へ向かった。よろめいた拍子に、うがい薬が落ちてきて手にぶつかる。悪態をつき、痛みをこらえながら、洗面台にもたれかかった。
「ルーイさん、何か飲み物買ってくるね」
 向こうから彼女が言い、部屋を出て行く音がした。
 吐きたいのに吐けず、代わりに顔を洗った。鏡を見上げて、たった数分の間にげっそりした自分の顔に、暗い笑いが込み上げた。
 子ども。結婚もしていないのに子ども。大学生のくせに子どもを作った。
 失敗したのだ、という思いが強かった。
 リビングに戻って、ソファに横になる。投げ出した手が、かさついた紙に触れた。今日の新聞だ。重ねて置いた朝刊と夕刊の一面記事は、どちらも同じ人物、同じ場所を、違うアングルで撮った写真で、内容も似たり寄ったりだ。
 君は忘れた頃に現れる。
「アマーリエ」
 第二都市市長の娘。異種族リリスと政略結婚した、都市の少女。
 かつてルーイが告白し、答えずに去った、同じ大学の学生。
 写真の中の彼女は髪が伸びて、ファンタジー風味の衣装のせいか華奢さや可憐さが一層際立って見えた。映画や物語のお姫様のようだ。髪を明るい色に染めくっきりとしたアイメイクの女子学生たちの中で、ありふれたファッションをして地味の類に入っていた頃とはまったく違う。お姫様のようだ。繰り返し思う。お姫様のようだ、幸福に、選ばれた。
 あのまま何も起こらなければ、ルーイは彼女と付き合っていただろう。恐らくは、長く。大切にしてやれたと思う。ともに医者を目指し、志を同じくする者として信頼関係も築けたはずだ。結婚もしただろう。子どももいつか生まれたにちがいない。
 けれどアマーリエなら、学生のうちに子どもを作ろうともしなかっただろう。
 失敗したのだ、自分は。
「どうして君はそんなに幸せそうなんだ」
 甘やかだったはずの思いが、怒りに変わった瞬間だった。
 感情に任せて新聞を握りしめ、ずたずたに引き裂いた。それでも、ルーイの周囲にはごみの残骸がふわふわと揺れるだけで、夫となった美しい男に抱かれている写真の少女は、揺らぐことはなかった。


 具合が悪い、うつすといけないからと彼女を追い返して、数日。
 電話が鳴って、覚醒する。振動のせいで、テーブルの上から携帯電話が落ちてがっと固い音がした。そのディスプレイの光に目を射られ、顔をしかめた。
 明かりもつけず、外にも出なくなってもう何日も経っている。なだめすかしたり、脅したりするメールの山や電話攻撃はもうこりごりだった。
 しかし着信音はしつこい。軋むような身体を起こすと、画面表示は通話となっており、表示されているのは知らない番号だ。
 のろのろと取ろうとする。手にする前に切れたらそれで終わり。そのつもりだったが、着信は、通話ボタンを押すまで続いていた。
「……もしもし」
『突然お電話差し上げて申し訳ありません。こちら、ルーイ・フォークナーさんのお電話でよろしいでしょうか?』
 苦々しく不機嫌に応答すると、想像していた女性ではなく、堅苦しい生真面目そうな初めて聞く男性の声が聞こえてきた。
 だが心当たりがない。実家か、それとも。
「……そうですが」
『わたくし、第二都市市長ジョージ・フィル・コレットの代理を務めております――と申します。コレット市長が是非ともあなたにお会いしたいということで、お電話差し上げました』
「っ!」
 コレット市長。躍進中の人気政治家。他都市市長に比べて若い方だが、第二都市を第一都市に劣らないほど大きくし維持しているのは、都市営で固められていた数々の事業を見直し、起業を支援し経済活動を活発化させた彼の手腕だと言われている。そして彼は、アマーリエの父親だ。
 断る理由は、どこにもない。
 こちらが何を言うかわかったのだろう、電話の男は「よろしければ本日夕食をご一緒に」と今日中の約束を提示し、ルーイは了承した。
 面会は、準備段階として身綺麗にすることから始まった。引きこもりすぎて新聞もダイレクトメールもポストにぎゅうぎゅうに詰まっていた。鏡の向こうの自分は無精髭をはやし、ろくに食事もとっていなかったために頬が痩けていた。
 スーツを引っ張り出しながら、ルーイは考える。
 一体、市長が、一大学生に何の用なのだろうか。代理を名乗る男は、あくまでルーイ個人と話がしたいと言った。区会議員のフォークナーとは関係のないところで、という含みがあった。
 見られる程度になったところで、マンションを出ると、黒塗りの車が一台停まっていた。車中から現れた男がルーイであることを確認した。
「ご案内いたします。どうぞ」
 あまりに出来すぎた面会に、これが何らかの罠でないだろうかと疑ってしまう。てっきり自分が赴くものだと思っていたのに、迎えの車とは。
 着いたところは高級レストランだった。名前を言えば、そこがどんなに高価な料理を出すか、芸能人や企業家が訪れるかが口に上るくらいの店だ。
 夢見心地で案内に付いていくと、奥の個室には、ルーイが度々マスメディアで目にしていた、コレット市長その人が座っていた。
「やあ、フォークナーくん。わざわざご足労いただいてすまないね。会えて嬉しいよ」
「いえ、こちらこそ、お会いできて光栄です」
 どんな話を切り出されるだろうと考えていることを悟られないよう、あくまで堂々と笑って握手を交わし、会食が始まった。
 内心、何か裏があるに違いないと警戒していたが、市長の巧みな話術に、酒の力もあって、いつしか緊張も和らいでいた。食事はとろけるように美味、酒は高級酒で、出会い目的のコンパなどでは絶対口に出来ないような代物だ。気分が高揚し、楽しかった。たくさん笑った。目の前にいる市長が、これほど気さくだとは思いもしなかった。まるで遠い親類のおじさんというような気がする。
「だから、ノルドって男は、人生でどれだけの女性と付き合えるかっていうのを試しているんですよ」
「人類の男の永遠のテーマだね。若いなあ。ノルド君に言っておいてくれたまえ、男は、四十を過ぎてからが勝負だとね」
 お互いにワインを含んだ後、ところで、と市長は言い出した。
「君は誰かいい人はいないのかい? フォークナー議員の息子さんなら引く手数多かな?」
「……いえ」
 途端に口が重くなったルーイに「どうしたね」という市長の言葉はいたわりに満ちていて、それが、と思わず話し出していた。
「いま付き合っている彼女が……」
 市長は眉をひそめたが、それはルーイに対してではないようだった。
「何かの間違いじゃないのかい。君はそんな軽卒な男じゃないだろう?」
「でも、実際に……」
「その女の子が怪しいね。調べてみようか。なに、遠慮することはないよ。市長というだけで遠ざけるのは止めてほしいな。市長でも、親しい友人には力を貸せるのだからね」
 実際は、市長は多忙の身だった。リリス族長とその妻はマスコミを騒がせ、政略結婚そのものが人権問題に発展しかけていて、その対応に追われていたはずだ。しかしこのとき、美食と空気に酔っていたルーイは、思ったのだ。
 ああ、これでやっと、助かるかもしれない。

 一週間経って、一通の封書が届けられた。そこには、妊娠を告げた彼女が、ルーイ以外に長く付き合っている男がいること、その男は売れない劇団員であること、故に子どもの父親がルーイと言い切れる確率は限りなく低いこと、が書かれてあった。最後にワープロ打ちでルーイへの手紙があり、この一連の資料をフォークナー家に送り、彼女がルーイを騙そうとしていたと報告した、と書いてあった。
 その日のうちに実家から電話があり、父親は、彼女に対処したことをルーイに告げ、最後に「市長がまた会おうと仰っていらしたそうだ」と言った。



 それからルーイはコレット市長と数回の食事を重ねた。最初は感謝を示すために応じて、次はないだろうと思ったのに、また誘いがあったのだ。だが支払いは受け取ってもらえなかった。若い人と話が出来るだけで楽しいと言われ、僕もお話しできて光栄ですと言った。
 本当に、なんて幸運なのだろうと思っていた。彼と一緒にいるだけで、挨拶にやってきた会社役員や議員に紹介され、その人たちのパーティに呼ばれたり、わりのいいバイト先を斡旋してもらったりした。
「僕は、アマーリエが好きでした」
 ある日、ついにルーイは告白した。
「彼女はとても素敵な女の子でした。綺麗で、純真で。汚れないっていうのは彼女のことを言うのかなとさえ思いました。彼女と一緒に幸せになれていたら、といまでも思います」
 個室では、音はないに等しい。だから、大学で会うだけだった彼女がどんな声をしているか思い出そうとすれば、すぐ側で囁かれているように思い出すことが出来た。
 軽やかだった、静かだった、優しかった……記憶に浸るように目を閉じていると、市長は身じろぎし、重く言った。
「過去形で言うには早いよ」
 感情を落としたような、真剣な声に驚いた。
 市長の目は、ルーイをじっと見つめ、噛み締めるように告げる。
「アマーリエは、君とならきっと幸せになれるだろう。君だってそう思うだろう?」
「ですが、彼女はリリス族長の妻ですよ」
「あの子がここに戻ってきた時、どれだけ心細い思いをすると思う? 私は、あの子を幸せにしてやりたい。君ならそれが出来ると思っている」
「あの、……光栄です。ですが、そこまで言われるまでのことは」
「以前から君のことを知っていたよ。アマーリエにとても親切にしてくれていた心優しい若者と、いつか話をしたいと思っていた。その機会を得て、私は確信したよ。君は、私の信頼に取るに足る男だ」
 あまりの賛辞に身を縮める。だが、都市のトップ、権力の最大の高みにいる市長からの信頼は、ルーイの胸を熱くした。
「謙遜することはない。君はまだ若いし、過ちがあって当然だ。そして君は間違えなかっただろう? それこそ懸命さの証ではないかな」
 市長の言葉が脳裏を巡る。
 そうなのだろうか? そう、なのかもしれない。
「そして君は私と出会った」
 視線が絡む。
 目元が似ている、と思った。
「だから運命は、君とアマーリエを繋いでいると信じてもいいのではないかね」
 市長の助けがなければ、ルーイは全く別の男の子どもを、自分の子どもとして養うところだった。彼女と弁護士との話し合いの録音をルーイは聞かせてもらっていた。あの女は、心と身体は愛する男に、その他の金銭的なことはルーイに満たしてもらうことにしたのだ、と話していた。ルーイの『区会議員の息子』というブランドが欲しかっただけ。そう震える声で、泣きながら、台詞でも読む(・・・・・・)ように、あいつは。
「これから話すことは、荒唐無稽かもしれない。だが、君の知識、君の発想力なら可能なはずだ。その準備もしてきた。手を貸してほしい」
 市長は苦笑に近い顔をする。
「私の片腕となってくれるね?」
 照れ笑いに見えて、別のものだと、そのときは気付かなかった。

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