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 道すがら、どのように来たのかを訪ねると、何故かはっきり答えない。馬でもなく徒歩でもないのなら、モルグ族の能力か。どちらにしろ、このまま同行する意味はないと判断して、シャドから出たところで別れを告げる。
「寄り道せず真っ直ぐ帰れよ」
「送っていってくれるのではないのか?」
「だからここまで来ただろう」と言い返すと、アシュはつかの間考え、ぱっとリオンの手を取った。
「せっかく来たのだから、もう少しともに過ごしたい」
 アシュの手から伝わる熱が、痺れのようなものをもたらして、リオンは刹那、息を継いだ。節くれだった指、荒れてざらついた指先、硬い爪。それらは剣を手放したことのない者の手であり、リオンとよく似ていながらもまったく違う、男の手だった。そして何故だろう、衝動のように思った。思ってしまったのだ。
(この手に触れられたらどのように感じるのだろう?)
 リオンは目を伏せ、言った。
「そのような口説き文句も言えるのだな」
「本気で欲しいと思うからこそだ。俺たちは他者の目があるとどうにも素直になれん気質のようだし」
 すり、と鼻先を擦り付けられそうになり、振り払う。
 先を行きながら、言った。
「わかった。送ってやる。だからいつまでも立ち止まっているな」
「うん。そうだな。離れたところでいちゃいちゃしよう」
 リオンの冷たい目に、アシュは呵呵と笑う。そのような展開に持っていく自信があるらしい。場合によっては取っ組み合いも辞さないと決めて、リオンはアシュとともにリリスの秋の草原を歩いた。
 リオンの移動手段は常に馬だ。街に行くのにも、本来なら貴人として馬車を使うのだろうが、ただ運ばれていくのが性に会わず、いつかなるときも馬を使う。しかし、改めて風の渡る大地を歩くと、その豊かさにずいぶん驚かされた。風に倒れた草を踏むと、枯れ草の柔らかさ、土のふくよかさを足裏に感じる。常ならば疾走して駆け抜ける空の下で、このときばかりは己がいかにちっぽけなのか思い知らされるようだった。
「広いな、リリスは。駆けがいがありそうだ」
 連れであるアシュは、広々とした大地を見渡している。彼の言うように、駆けていくのはとても快いことだろう。これからこの男とともに生きることになるのかと思うと、不思議な心持ちがした。雪の原で、紅に染まりながら対峙するだろうと思っていたのに、いまはこうして、豊かな秋の大地を見渡している。
「リリスの地で、このように心が凪ぐとは思いもしなかった」
 アシュの感慨に、リオンも頷いた。
 すると彼はついと手を伸ばし、吹きさらすリオンの黒髪に触れ、そこに口付けた。
「それでも、俺はお前と、いずれこうなるだろうと思っていたがな」
 こうなる――互いを求め合うこと。
 手に入れるために戦い、それが叶わぬならば、命を奪る。
 誰にも告げたことのない、秘密の誓いを、それぞれに抱いていたことを知って、やはりそうか、と思う。アシュもまた、互いに見えぬ頃から、リオンを最も近しく感じていたのだ。魂の片割れ、翼の一方、宙の一族が地上の者に焦がれたように。敵であったというのに、誰よりもその感覚、力と強さ、心意気は信じるに足るものだった。ともすれば、キヨツグや部下たち以上に。
 ゆえに、相対した瞬間、恋情を抱くのは必定だったのだ。
「――……大嘘つきめ」
 絡み合う視線を引き寄せるように、囁いた唇は、乾いた男のそれと重ねた。
 たとえ、アシュの言うように、そしてリオンの思う通りになるのが運命であったとしても、それは必ず戦場での命の奪い合いだったはず。だからいまこのとき、こうしていることは、ある種の奇跡が起こった結果なのだとリオンは思っている。そしてそれを引き寄せたのはアマーリエとキヨツグの選択だったのだとも。
 口付けの合間に息を継ぐ、草原に射す陽の光が陰りそして再び輝き始めたとき、アシュは片頬で笑って言った。
「嘘なものか。俺はお前を、お前は俺を手に入れる。俺は、絶対、お前に花嫁衣装を着てもらうぞ」
 思いがけず強く言い聞かせるようにして言葉の後半で願望を告げられ、リオンは、つい鼻で笑ってしまった。
「なんだ。意外と即物的なんだな。いや、夢見がちの方が正しいか?」
「言ってろ」
 多少なりとも自覚はあるらしく、幾分か照れくさそうだ。不思議なことに、それを可愛げと感じるのだから、あのときの秘密は絶対にアシュには言うまいと、心に決める。
 あのとき。獣どもに襲われ、心身ともに消耗したところに、この男が現れたとき。
 一目に恋に落ちた、その衝撃もまた、気を失った理由だったなどとは、絶対に、一生、教えてやるものか。
「まあ、いい。私も……(ゆめ)にはさせんさ」
 リオンは笑って、噛みつくような口付けをした。二人の姿は、どこかしら獰猛で、しかし確かな愛情と繋がりがある、あたかも大型の獣の番いがじゃれあっているかのようだった。


 嵐のような訪問者がリオンに連れられて去ると、女官たちが手付かずのお茶とお菓子を片付け、そこに残っていたアマーリエとキヨツグには新しく淹れたお茶を注いでいってくれた。わずかに冷たくなっていた指を器越しに温められつつ、「実は」と、切り出す。
「アシュ殿とお話しているとき、頼まれごとというか、お願いをされたんです」
「……何を」
 ただでさえ、アマーリエの元に忍んできたモルグ族がいたということで、気が立っているらしいキヨツグが低く尋ねる。しかしアマーリエは、アシュが語ったときのことを思い出し笑いながら、彼の怒りを宥めるように語った。
『族長夫人はリオンの花嫁衣装のことをご存じか?』
『あなたの立場なら口出しできると思って、ひとつ、頼みがある』
『支度をする者に希望を出してもらいたい――花嫁衣装は、白がいい。それから紅。雪に映えるような真紅を、と』
 くすくすくす、とアマーリエは笑う。
「真剣に言われてしまって、驚いたんですけれど。アシュ殿は、ずいぶんリオン殿に思い入れがあるようでした」
 招かれざる客、招くしかなかったモルグ族の若長と対峙することになって、凄まじく身構えた。ユメたちはいまにも剣を抜きそうだったし、アイたち女官の多くのは怯えて、アマーリエはキヨツグの助けなく、族長の妻として応じなければならなかったからだ。だというのに、切り出された頼みというのが、政略結婚相手であるリオンの、それも花嫁衣装のことだったのだから、いまこうして話していても微笑ましく感じられる。
「……あの者のことを、ずいぶん気に入ったようだな」
「少なくとも、モルグ族に対する恐怖感は薄れました。花嫁衣装を気にかけるような方に、人の心がないわけがありませんから」
 戦っていた相手、敵だったという先入観に目を曇らされていたと気付いて、アマーリエは密かに恥じ、申し訳なく思った。アシュは戦う人として眼光鋭く、油断ならない人物だと感じさせたものの、恐らく向こうも同じだっただろう。アマーリエはリリス族に属するヒト族だが、アシュにとっては敵だった種族だ。彼もまた、こちらに警戒心を抱いて当然だったので、アマーリエに彼を責める謂れはない。 
「それに、私も見てみたくなったんです。清らかな白と真紅の衣装をまとったリオン殿は、素晴らしくお綺麗でしょうから」
 そう、きっと、そのときのリオンは、この世の誰よりも美しい花嫁であるに違いない。
 リオンの政略結婚のことをキヨツグから聞いたとき、アマーリエはどのように反応していいものかわからなかった。怒るべきか、それとも諦めて黙っているべきか。これからのリリス、人々を守るために結婚という政略が適しているのは、わかっているつもりだ。それでもアマーリエは自らに降りかかったそのために振り回され、心を痛めた過去や、見切らざるを得なかったもののことを、未だすべて許せてはいない。
「……アシュ殿は、良い方です。リオン殿に似合うものを選べるんですから、お二人はきっと、幸せな夫婦になります」
 そうであってほしい、という願いを聞き取って、キヨツグがアマーリエの手を包み込むようにして触れてくる。
 心配は、杞憂だという気もしている。リオンはアマーリエと違って、自らの居場所を勝ち取るために戦い、望むもののために意志を貫き通す強さを持った人だ。だから自分の幸福や、正しいあり方のために、何が起ころうとも誠実に立ち向かい、受け止められるだけの覚悟がある。
 羨ましい。でも彼女のようであったなら、アマーリエはいま指を絡めるこの手を得ることはなかったかもしれない。
 キヨツグは、ふと、ため息をついた。それがなんだか悩ましげで、首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「……お前への独占欲が強まってきている。悋気を起こしそうだったので、己を戒めているところだ」
 アマーリエがアシュのことを好ましく語ったのが原因らしい。
 息を飲み、あわあわと手を振った。
「いえ、あれは、人として良い方だと思っただけで!」
「……わかっている」
 そう言いながらも、キヨツグはアマーリエににじり寄り、背後から抱えるようにして身の裡に閉じ込める。重みと体温と、耳を掠める呼吸に頬を染めていると、各々の仕事をしていた女官や護衛官たちが物音を立てずに離れていく気配を感じた。護衛官は適度な距離を取っているので、完全に二人きりというわけではないけれど、ここでの暮らしと立場から言えば自分たちだけと思って相違ない。
 どきどきと忙しない鼓動を感じながら、アマーリエは言う。
「り、リオン殿はまだ戻っていないんでしょうか? 送っていっただけにしては遅い、ですよね?」
 あっという間にやってくる夜を思いながら、金色の空を見上げて心配するが、キヨツグは聞いていない。そろそろ仕事に戻った方がいいはずなのだけれど、言ったところで聞き流すか、別の言葉で誤魔化すに違いない。
 アマーリエがこちらに戻ってから、キヨツグはよくくっつくなどするようになった。最初こそ戸惑ったが、少しずつ慣れてきている。あんなことがあったのだから、存在を確かめたがるのは当然だ。
「……リオンのことは、心配せずとも良い」
 ほどよく満足したのか、遅れてキヨツグが返事をする。
「……婚約者同士、二人の時間を過ごしたかろう」
 ぱちっと瞬きしたアマーリエは、次の瞬間「ふ」と噴き出しかけたのを堪えて微笑みを浮かべると、再び空を仰いだ。未だときめきと動揺を誘うキヨツグの腕と温もりを抱えながら、この美しい秋の空を、どこかで見ているであろう二人が、幸せな結びつきを得るようにと、祈った。

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