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さむい、なあ。
呟きは音にならずため息になって消える。全身が熱くてだるく、声も息も、ろくに紡ぐことができない。路地の冷えた陰の中で小さく縮こまったイオはぎゅっと自身を抱きかかえた。
さむい、なあ……さむいなあ……。
以前はこうではなかった。ぬくぬくと温かいものに守られて、空腹を感じれば必死に満たし、思い切り遊んでは襲い来る睡魔に身体を投げ出して眠った。けれどいつの間にかイオはひとりぼっちで震えている。お腹が空いているはずなのに、眠いのに、それらを感じるよりもただただ寒い。
さむい……さむいよぅ……。
そのとき、しゃらり、と音がした。
一度きりではない。そう遠くないところで、しゃらんしゃらん、ひっきりなしに鈴が降っているような音がする。鋭敏になった聴覚がその騒がしさと澄んだ色に苛立ちと情けなさを呼び起こした。その音はとても綺麗で優しくて、はやく消えろ、と思うのに、はやくきて、と涙がこぼれた。
さむいよう……。
傷だらけの腕をさする。あんなに優しい音を聞かせないでほしい。
抱き上げてほしいと、思ってしまうから。
音の在り処を探してイオはのろのろと顔を上げ、暗い影の向こうを見ようと目を凝らす。
すると本当に影がやってきた。何かを探すようにゆっくりと動き、やがて――ゆっくりと意識を失うイオが最後に見たのは、すぐ近くで、しゃら……と優しい音をさせてその影がこちらにやってきたところだった。
次の目が覚めたとき、イオは雲にくるまっていた。
のどの渇きと皮膚が汗に濡れた感触を不快に思う。灼熱感でうなされていた覚えもあったからきっと高熱が出ていたのだろう。いまも少し発熱しているようだが、身体を包み込むふかふかの寝床のおかげで辛くも苦しくもない。
ここはどこだろう?
疑問に思っていたら、視界に一気に光が溢れて優しい声がした。
「……起きた?」
イオは目をしばたたいた。
雲の向こうには板張りの部屋が広がっていた。遠くの床に庭の緑と光が鏡のように映っている。
こんなところは知らない。とても広くて綺麗で、もっと素敵なものがあちこちにある予感と好奇心に突き動かされて身を起こすと「だめよ」とまた声がした。
振り仰いで、イオは目を丸くする。
宝石玉のような瞳。花びらみたいな目の色。あまい、花とお菓子のささやかなにおい。
「あなたは病気なの。この薬を飲んで、もっと眠るのよ」
そう言って無理矢理口に押し込まれたものは、イオがにおいを感じる前に舌を刺すえぐみとなった。
イオがげえげえと咳き込むと、その人は「ごめんね」と何度も謝りながら背中をさする。あまりの味にじたばたしたとき、手足に包帯が巻かれていることに気付いた。
見上げた人は、困ったような、心配そうな顔でこちらを見ている。
イオはしかし、身体を治すためとはいえその仕打ちが許せなかったので、雲のような大きくて柔らかな毛布を引きずり、それにくるまって顔を背けて目を閉じた。
「まあ、ふてぶてしい」と別の女の声がしたが、イオの側にいた人はくすくすと笑うだけだった。
イオは薄目を開けて包帯を見つめ、ちょっと考えてそれを舐めてみた。
甘い味がする。手当をしてくれたのがあの人だと、すぐにわかった。
その日は雨だった。雨は、やがて雪になった。
微睡んでいて一瞬だけ目が覚めたとき、しんしんと降り積もる雪と同じように白い、けれど花びらみたいに柔らかい手が、厚く布を巻いた温石を置いて、イオを撫でていったのを覚えている。
庭はいまは色を奪われたような白と黒の世界に変わっていた。雪のにおいに鼻をひくつかせると、ただ冷たかったので、窓に寄ることはせず毛布にくるまってその光景を見ていた。
さむい、な。
そう思って首を傾げた。以前のように、どこもかしこもぎゅっと縮こまってしまうような、ひりひりと痛い「さむい」ではないなと思ったのだ。
ゆっくりと瞬きをしていると、足音がした。
イオはぎゅっと構える、と、音が急に小さくなった。忍んでいるのだがイオにはよく聞こえる。だから目を閉じて眠ったふりをした。
そっと覗き込む気配と「寝てる?」と声を感じて、イオは自分がぴくりと動いてしまうのを抑えきれなかった。向こうにもわかったのだろう、くすりと笑われてしまった。
なんだよう、笑うなよぅ。
むうっとしながら薄目を開けると「起こした?」と首を傾げられたので、イオも首を傾げるとまた笑われた。
「寒くない?」
「さむくない」
そう、それはよかった、とその人が笑って手を伸ばしてくる。イオは一瞬、自分を殴った人たちのことを思い出したけれど、ぎゅっと勇気を振り絞って逃げずにその手を受けた。
指先からは青い草と花のにおいがした。おっかなびっくりなのは相手も変わらないらしい。少し弱い加減で触られて、どうにもくすぐったい。イオが目を閉じると、柔らかな手つきのまま、長く、ゆっくりと撫でられた。
「いい子ね」
その声に、イオは、ずっと昔に別れたおかあさんを思い出した。
ああそうだ、『おかあさん』。イオを包んで守ってくれた温かさの名前。いつの間にかいなくなって、もう多分二度と会えないぬくもりのこと。
「あなた、どこから来たの?」
「ずっと、むこう」
「ひとり?」
「うん」
「……さびしいよね」
「……うん」
ずいぶん寂しそうな声で言われたものだから、イオもしょんぼりと答えた。
ひとりだった。いつの間にか母親と別れ、流れ着いて。お腹も空いて、ずっと何も食べてこられなくて、病気になった。そのまま死んでいく者たちのことをイオは知っていたから、悲しくて、辛くて、苦しくて、本当にこわかったのだ。
「そんなに悲しい顔をしなくても、追い出したりしないよ。大丈夫」
うん、とイオは顔を歪めた。
指先は、やさしい。
「……ずっといっしょに、いたいな」
呟くと、彼女は目を細めた。イオは彼女の側に寄り添って、こちらが眠るまで好きなだけ撫でさせてやった。
今度は夜に目が覚めた。雪雲は晴れて月が輝いていた。月光が雪に反射して青い景色が広がっている。
側らには再び熱が宿った温石があったので、イオはそれを持ってきたであろう彼女を探して、そっと部屋を抜け出し、首を伸ばすようにして外を覗き見た。
思った通り、彼女は庭にいた。月を見上げるように佇んでいる。いつもまとめている髪を背中に流していて、風に、細い銀の糸のようになびいていた。
その姿が、あまりにも、しずかで。あんまりにもさびしくて。
「さむいの……?」
イオが小さく尋ねたとき、知らない誰かがやってくる足音を聞いた。
向こうから、何か大きなものがやってくる。
イオはかっと目を見開き、身体をぞっと硬直させた。それは何か、とても強い『もの』だった。大人たちよりも、街の人々よりも、イオを殴った人たちなんて簡単に首を押さえつけられてしまう、圧倒的な存在。
イオははっとした。彼女がいる。彼女は、何の気配も感じずに立っている。
このままでは、彼女が脅かされてしまう!
なのに彼女は歩き出す。雪を踏む、ぎゅっという音が響いた。梢から積もった白雪が落ちて、さらさら、きらきら、と輝く。
やってくる影は濃く、強い。
行ってはだめ。だめ!
イオは叫んだ。
しかし、影は不思議と静かに彼女の前で立ち止まった。
黒い手が伸ばされると、彼女はゆっくりと目を閉じ、小さな吐息をこぼす。水に浸るときのイオのように、睫毛をふるりと震わせてやがて開かれた花色の瞳は、星を集めて輝く湖のよう。それがゆっくりと心地良さげに細まる。
唇から、あまい息がこぼれた。
「キヨツグ様」
次の瞬間、イオは牙を剥いた。
が、すべて知っていたかのようにあっさりと捕らえられてしまった。
『首根っこを掴まれた』イオは、ぶらぶらとさせられながらも必死に歯を剥き出しにして彼女を守ろうとした。相対するのは漆黒の目、それも恐ろしいほど強者のそれだ。爪なり牙なりで攻撃されればイオなどひとたまりもないが、それでもなお顔を歪めて『威嚇』を続ける。
「え、いつの間にここに!? うわ、すごく怒ってる。どうして……?」
彼女が戸惑ったように宙に浮くイオを見ているが、答えたのは低い唸り声だ。
「……『これ』は、どうした?」
「イオだよ!」
「先日街に下りたときに子どもたちが騒いでいて見つけたんです。怪我を負っていたので、保護したんですけど……」
たくさんの人の手をすり抜けて路地裏の暗がりに隠れたイオの前に、彼女が現れたのだ。薬を飲ませ、包帯を巻き、美味しいご飯をたくさん食べさせてたっぷり眠らせてくれた。側にいて、温めてくれた。
その彼女を奪われるわけにはいかない。
「だからおまえは敵!」
しゃーしゃー唸っていると、相手はゆったりと首を傾げた。
びくっとした。瞳の底まで射抜くような、強い意志の光がイオを打つ。
ゆっくりと目を細めたり、開いたりして、イオを威圧する気配を放つ。耳がへたるのを止めきれず、かろうじて一度だけ牙を剥いたが、それもやがて、むっつりと不機嫌に黙るしかなくなった。
爪も届かない、牙も届かない。どう考えても、格が違った。大人たちが使う言葉を、イオはようやく身に沁みて理解した。
「……もう、いいのか?」
「…………」
「……エリカに、爪は立てるな。いいな?」
そう厳命され、落とされる。
草のにおいがして、彼女の手のなかだと分かった。「……こわかったよう」と鳴いて抱っこを求めると、苦笑とともに胸元に包み込まれる。
「リリスは動物に強いんですね……?」
「……例外もある。逃げ出して触らせぬものもあれば、敵対心を剥き出して襲いかかってくるものもある。特に馬は、亜種でなければ怯えて使い物にならぬ」
「でも触れ合うことには慣れてますよね。まあ、すっかり大人しくなって」
いい子ね、と頭から背中にかけて撫でられると、やっぱり気持ちよくて目を閉じてしまった。
けれど彼女の手は、いつもと少し違っていた。優しく、しっかりして、あたたかいのは変わらない。でもいまは力強さがあった。まるで「守る」と言ってもらえているみたいでイオは安心して身を委ねることができた。
「……それは、どうするつもりだ?」
「欲しいという方が何人かいらっしゃるので、家族構成や家の環境の調査をしてから、お譲りする人を決めたいと思ってます」
「……その分だと、離れたくないと思っているようだが?」
彼女は目を瞬かせ、ふっと笑みをこぼした。
「私が? それとも、この子が?」
「……双方ともに」
包み込む腕が悲しげに震えた気がしてイオは顔をあげ、彼女の切なそうな笑みを見た。
「拾った責任は取るべきなんですが……あまり構ってやれないのが目に見えていますから。女官たちに任せればいいのかもしれませんが、それは私の責任で飼っていることにはなりませんし、それよりも、ちゃんとこの子を温かく包み込んであげられる人の方がいいでしょう?」
撫でる手つきが弱々しくなっていくので、イオは身体をこすりつける。
大丈夫だよ。大丈夫。あなたはとっても優しいもの。
「……お前が引き取ってもいいように思えるが」
「いなくなってしまうのが、怖いです」
雨が降ったような気がした。
「さむいの?」
はっと身体を起こしてイオが尋ねるが、彼女は黙って撫でてくれているだけだ。そこに、そうか、と答える声は狼の鳴き声のように聞こえた。
「ねえ、さむいの?」
「そんなに泣かなくても大丈夫。私よりもずっと優しくて温かい人のところに連れて行ってあげるからね」
「さむいんでしょう。そんなかお、しないで」
手から逃れて飛び降りたイオが甲高く抗議すると、彼女は困惑した顔で見つめ返してくる。
イオはただ、ただただ、悲しかった。
「やだ! そんなかおしないで! なきそうなかお、しないでよ!」
彼女が男を振り返る。男は、そんな彼女よりも興味深そうにイオを見ている。
「そばにいてって、いえばいいじゃない! さむいのっていえばいいでしょう! そうすればあたためてくれるんだよ! イオだって、そいつだって!」
イオにあなたが現れたように――あなたの心を凍えさせない誰かが、すぐに手を差し伸べてくれるというのに。
「どうしてそんなに鳴くの? 行くのが、いや?」
男が進み出て、イオに手を伸ばす。イオはその手を取って一気に肩へと登り詰める。
大きく広くしっかりとした肩は、若くて軽いイオなんて簡単に支えることができた。
彼女くらいの人なんて、簡単に抱きとめることができるんだ。
憤然と見下ろすイオが落ち着いたように見えたのか、安堵の息を吐いた彼女が彼に、その肩にいるイオに手を伸ばす。そしてイオに触れるか降れないかの寸前、突然足場が激しく動いたので、イオは反射的に飛び降りた。
「キ、……」
「……静かに」と彼女を抱き寄せた彼が囁く。
「こんなに身体が冷えて……」
髪に顔を埋めて彼は吐息する。彼女は身を竦めていたけれど、抵抗したり逃れようとはしなかった。時々堪えきれなかったように息を解いて、気付けば目を閉じていた。それはあたかもイオが彼女の気配やにおいを感じながら微睡むようだった。
「ねえ、さむくない?」
彼女の足下でイオは尋ねた。
「イオはもう、さむくないの」
イオが擦り寄っても、ゆったりうろついても二人は答えなかったので、寒いし眠いし待つのに飽きたイオは部屋に戻り、ちょっと緩くなった温石の近くに丸まった。
鏡の床に映る白い光と二つの影は、イオが夢の中の入り口に立ってもまだ離れる様子がなかった。
ねこのひ小話
初出:120222
加筆修正:120314
改訂版:220222
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