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「痛っ!」
 ピンセットに摘まれた脱脂綿が傷を撫でる。それはまるで槍のように、アマーリエの腕の傷に薬をねじ込んで、思わず声にならない悲鳴をあげた。
「あ、アイ……私が悪かったから、そんなに怒らないで……」
「……怒る?」
 ぴくりと彼女のこめかみが引きつった。直感的に背筋を伸ばすが、遅い。余計なことを言ってしまった。
「怒らないでと、この状況で怒らないのが普通だと仰いますか。……これが怒らずに入られますか!」
 間近で叫ばれ、きーんと耳鳴りがした。
「真夫人ともあろう御方が自ら傷だらけになるなんて! 真様にそのような趣味がおありとは存じませんでしたわ!」
「いや、あの、マゾじゃないよ、マゾじゃ……」
 ぼそっと反論してみるも、アイはぎらぎらした目で新しい脱脂綿に消毒薬を染み込ませている。勢いよく滴り落ちた液体が床を汚すが、すぐさま別の女官に拭われる。みんな目を合わせてくれない。リオンに怒ってはいるが、一番怒りたい相手はアマーリエであるということらしい。
「だいたい、リオン様もリオン様です。将軍であるリオン様と真様では、勝負になるわけがありませんのに!」
 びしゃり。薬で湿った脱脂綿を別の傷口に浴びせられ、激痛が走る。アマーリエが悲鳴を押し殺したのを見て、アイはいささか溜飲を下げたらしく、今度は優しく傷を手当てしてくれた。
 本当なら傷の手当てはハナたち医官の仕事だが、アイは自分がすると言って押し通してしまったのだ。現場を見ていたハナも思うところがあったらしく、大きく反論せずそれを認めた。やっぱり無茶をしたのは悪かったな、と反省することしきりだった。
「しかし真様は教えたことをよく覚えていらっしゃいました。当てることこそできなかったものの、二度ほど攻撃をかわしておられた」
「ユメ御前、真様を褒めないでくださいませ。またリオン様に挑まれるのは困ります」
 ぷりぷりと言ったアイは、手当てを終え、手際よく薬箱に道具を仕舞っていく。
 アマーリエはユメと顔を見合わせ、密かに肩を竦めた。この様子だと、リオンが王宮を去ってしまう前にもう一戦挑むつもりでいて、ユメに作戦を練ってもらっていたのだとはとても言えなさそうだった。そうして身を竦めるとあちこちが軋むように痛んで、やはりとんでもない人に喧嘩を売ってしまったのかもしれない、とため息が出た。
 リオンは満身創痍になったアマーリエを見かねて、強制的に試合を切り上げたのだった。真夫人が義妹に喧嘩を吹っかけ、一方的に打ちのめされたという評判が立つのは、どちらにもよろしくない。そのことに気付いて、肩で息をしながらリオンに謝罪を告げたが、彼女は何も言わず立ち去ってしまった。
 何も得られなかった。考えなしだったことを恥じ入るばかりだったが、虚しいような、でもまだ始まったばかりのような、不思議な高揚感が胸の奥に残っている。
『本当に立ち向かうべきもののことを考えられよ』
 去り際にリオンが放った言葉。アマーリエが認められようとしているのはリオンではないと、小さな呟きで知らせていった。それはアマーリエに胸にさざ波を起こした。
 奥底にあるものが身動ぎをしている――本当に向かい合うべきものは。
「失礼いたします。真様、神殿より使者が参っております」
 額ずいた女官が来訪者を知らせる。
「神殿?」
 ということは、ライカだろうか。急いで身支度をして向かうと、神殿に仕える巫女がアマーリエを待っていた。
「お目覚めになられた巫女様より、真様をお連れするよう申しつかりました。ご同行をお願い申し上げます」
「ライカ様が? ……わかりました。すぐに参ります」
 こんな傷だらけの姿でライカに会わせたくないという渋い顔のアイを連れて、アマーリエは神殿に足を踏み入れた。結婚して以来ライカはいつも眠りについている。たとえ自分が面会するに適さない姿でも、いつ会えるかわからない人に会うチャンスを逃したくなかった。
 ライカほど、キヨツグ出征の秘密に関わっている重要な人物はいない。知りたいことを知れるときがやってきたのだ。
 香が薫きしめられた神殿は、淡い煙と灯火の少なさでいつも薄暗い。贅沢を廃するように飾りも絨毯もない、板敷きの廊下をひたすら進む。奥に進むにつれて窓がなくなるため、時間の感覚が曖昧になり、いまは夜更けなのではないかと錯覚してしまう。前を行く巫女はこの場所の暗さが当然なのだろうから、さぞ外の光は眩しいことだろう。
 そんな風に色々と考えてしまうのは緊張しているせいだ。
 これまで何度訪れても、会うことの叶わなかった人。その人とこれから話をしようというのだから。
 付き添いのアイや案内の巫女はその部屋の扉の前で別れなければならず、アマーリエは一人で、その先に足を踏み入れた。
 扉の向こうは静かだったが、どこか空気がざわめいていた。絶対に聞き取れない、微粒子や細胞の声のようなものが、無数に囁いている。何かが息づいている、という感覚だ。
 それらは、するりと巫女が姿を消す気配に、さっと掻き消えた。
 はっとしたときには、寝台に腰掛ける少女のような微笑みの義母がこちらを見ている。慌てて膝をつき、礼をした。
「ご無沙汰して、」
「私に聞きたいことがあるのね」
 ふふっとライカは笑った。遮られたアマーリエは顔を上げて目を瞬かせる。失礼だと思いつつも話が見えなくて、まじまじと彼女を見つめた。
「キヨツグのことを聞きたいと思っている」
「……誰かから……シキから、聞いたのですか?」
 どきっとした。その話をした相手は限られているから、その名前を出した。
 ライカは柔らかな眼差しで答える。
「シキ・リュウ。宮医のリュウ夫妻の息子で、医官の若者ね。いいえ、違いますよ。あなたと彼が話したことは知っているけれど、私は彼と話してはいません。私があなたを呼んだのは、あなたが知りたがっていることの答えを得る手助けになると考えたからですよ」
 アマーリエはライカの瞳の、底知れない輝きを秘めた漆黒をつぶさに観察した。
 けれど、その色はアマーリエの知る色と違って、わずかに淡い。
 無礼なほど見つめるこちらに悠然と微笑んでいるライカは、すでにアマーリエの問いも、答えも、すべて知って、決めているように感じられた。あとはアマーリエが口を開くだけだ。少しだけ、拳を握りしめた。
「……キヨツグ様は、ライカ様と前族長である義父上様の御子ではなく、養子である、と聞きました。ではいったい、あの方はどなたなんですか?」
 ライカはにっこりとした。面食らうような嬉しそうな笑顔だった。
「確かに、あの子は私の産んだ子ではありません」
 アマーリエは震えたが、ライカはなおも晴れやかだった。
「初めてあの子を抱いたとき、とても小さな子だと思いました。そして少し哀しく、愛おしかったわ。いまではあんなに大きくなってしまったけれど、私のこの腕に抱くことのできる存在が、リリスの誰よりも濃い血を受け継ぎ、だというのに母親に抱かれることがないなんて、と」
「……濃い血」
 引っ掛かりを覚えた言葉に縋るようにして、アマーリエは問いを浴びせかけた。
「リリスの誰よりも濃い血ってなんですか? ライカ様は、キヨツグ様の本当のご両親についてご存知なのですか? どうやってライカ様はあの方を養子に……どんな理由があったんですか?」
「少し、お話をしましょう」
 そう言ってライカはアマーリエに、部屋の隅にある書き物机から薄紅の表紙の冊子を取るように指示した。人の手で一つ一つ紙を綴じたものが積み上がっているそこから、言われた通りのものを持っていく。まるで手に取られることがわかっていたかのように、一番上に置かれてあった。
「リリスの最初のお話をしておきましょう。さあ、読んでごらんなさい」
 言われた通りにアマーリエは表紙を開いた。そこに記された文字は美しく、言葉の組み合わせは古いものだったけれど、少し時間をかければ読むことができそうだった。アマーリエは丁寧に文字を拾う。

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