幕間 Growth
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 ライカは「夢を見たわ」とアマーリエに告げた。
 ライカにとって夢とは、現実と変わらないゆえに、何冊も連なる叢書から一冊を適当に抜き出してその場面だけを拾い読みするような、突飛なところも不可思議さも怪しさもない、事実だけの風景だ。
「その夢で、わたくしはセツエイ様に求婚されるの」
 はたと目を瞬かせるアマーリエに、ライカはふふふと笑った。彼女が可愛いと思うのは、こうやって不意に何かを言い出しても、それを理解しようと懸命に考えて、微笑みを浮かべようと努力するところだった。
 神殿の奥深く、眠っているライカを彼女が何度も見舞ってくれていることは知っている。現実のライカは深く眠っているが、夢の中で、アマーリエがここにやってきては「お加減はいかがですか?」とか「木蓮が綺麗に咲きました」などと話しかけてくれているのを『見』ていた。
 このときも、彼女はライカが夢見たままに問う。
「いつも夢をご覧になっているんですね。その夢は、何度も見るんですか?」
「もちろん。この夢のおかげで、わたくしは自分が誰なのかを忘れられないでいられるの」
 自分がいったい誰なのか、どの時代にいて、何を感じているのかが曖昧になりそうな中で、己を保つことができているのは、何度もこの夢を見ては『幸せだ』と感じることができるからだった。

 ライカは、物心ついたときには命山で暮らしていた。赤子の頃、命山の宮に至る門に捨てられていたからだ。不可侵の聖域で育てられることになったのは、その手に女神に連なる者の証が握られていたからだ。
 成長して見せられたそれは、文字のようなものが彫られた耳飾りだったが、もう手元にない。いまは女神の耳元で輝いている。
 そのようにして血筋が明らかであったので、ライカは巫女姫様と呼ばれて傅かれ、特別に大切に養育された。成長するにつれて夢見の力を持つことが明らかになると、時折麓の街に降りて祭祀を務めるようなことがあれば、まるで女神の化身のように崇められた。
 夢見の力で我が身に起きることは大抵知っていたので、ライカは周囲の者たちのように感情が豊かではなく、永遠に咲き続ける花園のような穏やかさを持った人間になった。
 楽しみといえば、これまで見たことのない夢を見ること。そしてそれを書き残して、時系列順にまとめること。それらは一冊の歴史書として、いまも命山に保管している。山を降りて王宮にやってきてからは弱る一方なので、現在はそれを専業にする官ができて、まとめたものを命山に運んでいた。それらがいずれ後の世で、大きな意味を持つものとなることを知っているから、ライカはその、過去の記録で、予言書でもあり、夢の産物でしかないそれを連ねるという仕事を続けている。
 一方で、自分という個人の一生についても、ライカは夢ですべて見ていた。いつどのようにして生まれ、育ち、伴侶となる人と出会い、命山を去り、子を成すことができず養子を迎えることになって、その子がどのような大人となってどんな妻を迎え、家族を作り、リリスというものを変えていくか。ライカが存在する時間から遠くなればなるほど、夢は断片性を増して繋ぎづらくなるが、それでも、いつか息子と呼ぶことになるキヨツグの改革のことを、ライカは幼くして知っていたのだ。
 そうして毎夜、ときには真昼に訪れる夢見を繰り返す中で、何故か頻繁に見る夢があった。

「その夢は、命山の花園にセツエイ様が現れて、わたくしに結婚を申し込む――わたくしにとっては初めての、彼にとっては二度目の出会いのときのことなのです」
 白菊の咲く花園には優しい風が吹いていて、ライカの白い衣の裾を柔らかにさらっていた。髪をなびかせて、もうすぐ、きっとすぐ、とライカは考えている。そうして、いまだと思って振り返ったときに、淡く微笑むセツエイと目が合うのだ。
「セツエイ様は、幼い頃にコウエイ様と共に命山にいらっしゃったことがあって、そのときにわたくしを見かけているの。言葉は交わしてはいないけれど、彼にはとても印象深い出来事だったのでしょうね。わたくしに会いたいと、ずっと思っていたようでした」
 そうしてその思いを抱えたまま、成人を迎えたセツエイは、多くの花嫁候補たちを拒否し、痺れを切らしたコウエイに誰ならいいのかと尋ねられ、ライカの名を答えた。
「もちろん、わたくしたちの結婚は容易に許されることではなかった。わたくしは、そのときまだ生まれていないキヨツグに及ばずとも、女神に連なる血筋の持ち主だったので、命山を降りることそのものが問題視されてしまった。それが最終的に許されたのは、女神がお認めになったから。あの方はわたくしの後見人でもあって、夢見で未来を知っているわたくしが静かにそのときを待っているので、この結婚が定められたことであると理解されたようでした」
 結婚のために命山を降りるライカの別れの言葉は、「お世話になりました。今度お会いするのはお祝いのときですわね」だった。女神が身籠もることを知るゆえの台詞だ。
「けれど、夢に見るのはいいことばかりではありません。多くの人が生きると同時に、死んでいくところも見るのだから」
 ライカは微笑む。そのことを思う度に、心が擦り切れ、癒えて、やがて何も感じなくなった。すべてはあるがままに。ライカは、ただこの世と時の流れを夢に見ているにすぎない。
 だから、セツエイの死は、出会った瞬間に避けられないものとなった。
 彼の死因は、衰弱死。元々身体の弱い人だったが、毒を受けて倒れてしまった。命を落とすことにはならなかったけれど、毒のせいで弱った身体は、次第に起き上がることが難しくなっていき、花が枯れるように、静かに逝ってしまったのだった。
「ですから、わたくしはあの方の求婚を受けたときに尋ねたのです。わたくしがそう問うことも、彼がどのように答えるかもわかっていたけれど、訊かずにはいられなかった」
 ――わたくしと結婚すると、あなたの命は長くありませんが、それでもよろしいですか?
「……それを聞いて、セツエイ様は……?」
 ライカが好き勝手に語るのを、ひたすらじっと聞いていたアマーリエは、たまらずといった様子で口を開いた。自分がもし問われたら、と思っているのかもしれない。あらゆる出来事を見るライカではあるけれど、その場にいる者たちが何を思っているのかは、口にするなり何か行動しなければ夢に見ることはないので、推し量るしかない。
 セツエイはなんと答えたか。
 たったいま起きた出来事のように感じられるのは、やはり何度も見聞きしている場面だからだった。
「わたくしの言葉を聞いて、セツエイ様は……」
 ――長く生きるよりも、あなたと共にありたい。
 この長くはないという命に、あなたの人生を少しだけ捧げてくれませんか、と彼は言ったのだ。
 アマーリエは目を瞬かせ、不安げに眉を寄せた。
「怖くは、なかったんでしょうか」
「ええ」
 ライカは断言した。
「自分が長くないことも、わたくしが彼の命がいつ尽きるのか知っていることも、まったく恐ろしくなかったのです。セツエイ様にとって最も大事なのは、誰もが例外なく終わる人生の中で、どのように豊かに生きるか、ということだったのだから」
 そして面映ゆいことに、その豊かな人生を作る上で必要不可欠だったのがライカとの結婚だったようだ。物柔らかな人柄が評判だった彼は、こればかりは譲れないと父親に似た頑固さを押し通し、その果てにライカを真夫人として迎えたのだった。
 その後、命山で生まれたキヨツグを引き取って養育し、数年後生まれたリオンを可愛がり、ささやかな家族のときを過ごした後、セツエイは逝った。キヨツグを狙った毒を、彼を守るようにして代わりに引き受け、その後身体を弱らせて、儚くなった。
 けれどライカにとって、セツエイの姿は病み衰えたものではなく、いまも、花園に訪れたあの微笑みを浮かべた若々しい彼のままだ。
「幸せでいらしたんですね、お二人とも」
 アマーリエは、遠いものに思いを馳せるようにして目を細めた。
「お寂しくは、ありませんか。……会いたいと思いませんか?」
 真剣な問いだった。彼女が確かめたがっているのは、残された者の気持ちだ。アマーリエはライカとセツエイのような別れが、いつか自らにも訪れるのではないかと考えている。
 残念だけれど、ライカとアマーリエは違う。慰めてあげられるような答えは言ってあげられない。代わりにできるのは、正直な気持ちを話すことくらいだ。
「寂しいわ。けれどわたくしは夢を見るから」
 繰り返し、何度も、同じ光景を。望むように見ることは叶わずとも、その世界でわたくしたちは幾たびと巡り会える。
「だから、その夢はすごく大事なものなの。いつでもそこでセツエイ様にお会いできるのだから」
 あの花園で、セツエイはライカに出会えた喜びを伝えてくれる。表情で、言葉で、声で、仕草で。夢見の力は、その幸福を永遠のものにする。ゆえに決して、この力が重いばかりのものではないのだ。
 ライカの曇りない笑顔を見て、アマーリエは切なく微笑む。彼女がいま、キヨツグの伴侶として、種族や寿命差、立場などを異なることに思い悩んでいるのはわかっている。
 この世には様々な夫婦の形がある。だからあなたたちの夫婦の形を作ればいいだけのこと。歪でも、美しくなくとも、尊いものであることに変わりはない。
「あなたたちが心配することは何もありません。大丈夫、あなたにとっての永遠はすぐ近くにある。必ず見つけられるわ」
 ライカの言葉は予言。未来を夢見てから発せられるもの。だからその不安はいつか拭われる。
 数多の悲しみと苦しみを乗り越えた先に、あなたの望む世界がある。
 アマーリエは不意をつかれたように息を飲み、そうして、泣きそうな顔で「はい」と笑った。

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