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 キヨツグの前を先導する神殿の巫女は、ほとんど足音も立てなければ、気配も薄かった。常に息を潜めているような様は、まるでこの場所に住まう主人をはばかるかのようでもあり、高みから降るという啓示を聞き逃すまいとするようにも感じられる。
 部屋にたどり着くと、ライカが寝台から身を起こして何かを書き付けていた。
 彼女が書き記すものは、否応なしに夢見させられるこの世界の過去、現在、未来だ。その中身を見たことはない。これまで覗き見たいと思ったこともなかったが、いまはその未来を知りたいと思う。
 切りよく筆を置いたライカはキヨツグに微笑みかけた。それを機に案内役は退室し、キヨツグは彼女の近くに腰を下ろした。
「お加減はいかがですか」
「眠りが長くなり、覚醒時間も短くなってきました。だいぶへたってきたようですよ。いくら血が濃いとはいえ、あなたは直系、わたくしはその直系の連なりの先にいる者ですから、どれだけ生きようともあなたには及びません」
 相変わらず薄墨のようなたおやかな佳人だが、陰りが見えたのは、そのように歳をとったことをにこやかに口にするようになったせいかもしれない。
 命山の宣言の後、目覚めたライカはキヨツグを呼び、まるで台詞を読むかのように自らの素性を明かした。
『わたくしはあなたの兄姉に連なる血を継いでいます。あなたにとって歳の離れた姪のようなものです』
 己は女神の第一子か第二子どちらかの子孫である、と告げたライカは、それゆえに幼くして命山に預けられ、巫女として修行し成長したことや、やがて命山を訪れた前族長セツエイ・シェンに見初められて、それに応える形で命山を降りたことを話し、この命山との繋がりゆえに、リリスの第三子として生まれたキヨツグを知っていて息子として引き取ることにしたのだ、と説明した。
 穏やかに微笑むライカは、キヨツグとは似ていない。顔も知らぬ兄姉のどちらかが温厚な人物だったのかもしれない。幼い頃抱き上げてもらったことはいまでも覚えているが、未来を知るがゆえの義務以上に、キヨツグを真の息子として扱ってくれた情の深い女性だ。しかし遥か年上の姪なのだと言われると、どうにも違和感が拭えない。
 そんな微妙な沈黙の理由を、ライカはすべて知っていて、笑っている。
「夢を見ましたよ。あなたは都市にいて、お忍びらしくヒト族の装いをしていました。みんながちらちらとあなたを見ていたけれど、あなたの目はひとつに向けられていた。花を見つけたのね、あなただけの花を」
 笑みとともに彼女は夢見を語る。
「あるときでは、あなたはセツエイ様の墓前に立っていた。本当に誰かを愛せるかわからないと零していたわ。大地には種が蒔かれているというのに、雪に覆い隠されたことでそれを知ることができなくて、不安がっていた。子どもを授かることができず思い悩んでいるいまのように」
 何もかもお見通しか、とキヨツグは瞑目した。
「……子ができませぬ」
 苦しい声音で零してしまうのは、健気に笑う妻の顔が浮かぶからだ。
 意に染まぬ婚姻で苦しめた。種族の違いを思い悩ませ、やがて寿命という時の流れで悲しませようとしている。ゆえにせめて残せるものを、強い絆の証が欲しかった。
「どこにでも芽吹きはあるわ」
 ライカの囁きに、キヨツグは顔を上げた。
「時が来れば、御子は生まれます。ただ、そのとき何を幸福とするかはあなたたちが選ぶこと」
 御子は生まれる、という予言は、思ったよりも大きな安堵をキヨツグにもたらした。
 他者の断定は不安を拭う。相手を重んじるあまり自責の念を強めるアマーリエを知っているキヨツグは、自らも己を原因と考えていることに気付かされて、息を吐き出した。
「……ありがとうございます」
「礼には及びません。ただ、よく覚えておきなさい。あなたたち(・・)の幸福は、一人で決めるものではないの。けれど、この世には、当たり前の幸福をそうと感じることができず、選べない子がいるのよ」
 人が感じて然るべき幸福を選べぬ子と言われ、このときもキヨツグの脳裏にはアマーリエの微笑みが浮かんでいた。キヨツグが頷くと、ライカは安堵したように目元を和ませる。
 小首を傾げたライカの髪がさらりとこぼれた。
「マサキ殿への手紙は、早めに出すのが良いでしょう」
 それも知っているのかと、キヨツグは頷いた。
 マサキの現在の動向を知っているのはごく一部の者だけだ。やはりこの人は夢見の巫女なのだった。
「失礼いたします。巫女様、真様がお見舞いにお越しくださいました」
 そのとき巫女が現れて、アマーリエの訪問を告げた。ライカが応じると、アマーリエは両腕に、どこからか調達した花束を抱えて現れた。キヨツグがいることは事前に聞いていたらしく、ライカの代わりに受け取るとその花の由縁を告げた。
「施設の子どもたちが贈ってくれた造花なんです。よろしければここでも飾っていただければと思って」
「まあ、ありがとう。その花、一本くださるかしら? 後はそこの者に預けてちょうだい」
 アマーリエは花を一本抜き取ると、残りを控えていた巫女に託した。薄桃色の小ぶりの造花を捧げられたライカは上機嫌で、手元に置いていた銀灰色の冊子に、栞のようにして花を挟み込む。
「これは、定められたときに、あなたたちにあげましょうね」
 その中身はある種の物語。恐ろしく正確な、出会いと別れの記録であることだろう。それを知ってか、アマーリエは頷くだけにとどめている。
 和やかに世間話をしている様を眺めていると、どちらかというとアマーリエの方から積極的に話しかけるので、少々驚く。それを楽しそうに聞くライカも、以前の眠りが深くない頃を思い出させる。
 そろそろ退出を、と巫女に促されるまで話し込んでいたが、さすがにライカが眠たげに目を細め始めたので腰を上げた。
「ライカ様にご用事だったんですね」
「……ああ。聞きたいことがあったのでな」
 神殿を出たアマーリエにそう言われたが、どのような用事かは伏せた。
 互いに残っている政務を片付けるべくその場で別れたキヨツグだったが、戻ってすぐに秘書官がやってきた。待ち構えていたのは、秘密裏にやり取りしている文書の返信が来たためだったようだ。
 人払いをして、それに目を通す。
『無事、種は運ばれました。天の命令によって芽吹くときを待っています』
 書き手を知られぬようにしてか不自然な言葉並びで綴られた文面は、ひとまず無事で、息災であること、万事が滞りなく進んでいることを告げていた。突発的事項や事件は起こっていないようだ。
 そのようにして意図的に省略されていた文面は、最後の一文だけはっきりと意志を書き記していた。
『アマーリエには言わないでください』
「…………」
 差出人もまた、アマーリエが苦悩することを予測しているのだろう。いまどこで何をしているか、己の居場所を知られたくないと考える気持ちはよくわかった。
 ゆえにその言葉通り、キヨツグは告げないまま、都市を訪う準備を始め、その日を迎えた。

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