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 アマーリエは白い息を吐きながら、リオンとキヨツグを見た。キヨツグは少しだけ瞳を暗く陰らせて、これから起きるかもしれない痛みを伴った未来を告げるべきか、迷っているようだった。リオンは素知らぬ顔をしているが、アマーリエがどのように受け止めるかを見定めようと、神経を研ぎ澄ませている。
 しかし二人が共通して抱く、罪悪感と秘密の匂いを嗅ぎ取って、アマーリエは強く胸元を握りしめた。そのとき世界が暗くなったのは、雪雲が空を覆い隠し始めたからだ。
「ヒト族は……」
 喉が渇いて上手く声を発することができず、一度口を閉ざした。頼りない声で思いを言葉にすることは絶対に避けたかった。
 心を強く持つことを意識して、再び口を開く。
「ヒト族にも、人の心があります。家族や友人や、恋人を慈しむ気持ちを持っています。利益や欲望だけを追い求めるだけじゃないんです」
「ゆえに人道に悖ることはしない、と、確かにそういう人々の方が多かろう。だが、戦線でのヒト族の言動には目に余るものがあった」
「リオン」
 キヨツグが諌めるように呼んだが、リオンは意に介さない。事実を事実として淡々と語っていく。
「私は他のヒト族を知らない。それがヒト族の一面に過ぎないこともわかっている。しかし、ここしばらく、モルグ族と戦っているヒト族は積極的に攻撃を仕掛けていた。まるで奪うためのようでしたよ」
 アマーリエは戦場にいる人たちを知らない。そしてここでリオンが嘘を言うとは思えない。だから、ヒト族が好戦的だったということは事実なのだ。
 何も言えなくなっていると、リオンは最後に鋭い一撃を発した。
「ヒト族に人の心があるなどと……生贄にされたあなたが言えるのか?」
「リオン!」
 キヨツグの一喝に全員が硬直した。誰も族長のそんな声を聞いたことがなかったからだ。怒るべきアマーリエすら驚いて、言葉を失くしてしまった。
「……申し訳ありません。口が過ぎた、すまない、アマーリエ」
 リオンが詫びる。怒りを押し殺すキヨツグから目を離せなくなっていたアマーリエは、遅れて急ぎ首を振った。
 彼女が言ったそれは否定できない真実だった。同時に、都市に抱く恐怖の理由が一つ明らかになった。アマーリエが都市を恐れるのは、きっと非情さや非人道的な振る舞いを肯定するところがあるからなのだ。
「……戻るぞ」
 強張った空気を振り払うように、キヨツグが号令をかける。少し早足になった一団の中央で守られながら、アマーリエはそっと思案する。
(……みんな、何も言わないけど。やっぱり都市が私を政治の駒にして政略結婚させたことは、人の心が感じられないような振る舞いだったんだ)
 思い浮かぶのは、父。そして母。鳴り響く電話の音。
 暗い廊下と、扉の向こうに灯る眩い照明の光。反響する二人の声はやがて激しさを増し、怒りと憎しみが形作られて、夜更けの静かな家にこだまする。
 場面が切り替わり、今度は二人が真剣な顔つきでこちらを見下ろしている。これは、父母に離婚を告げられ、どちらについていくかを尋ねられたときだ。嫌だ、と言うことができなかったあのとき。
 離れ離れは嫌、一緒にいて、なんて駄々をこねると困らせることがわかっていたし、どちらの負担にもなりたくなかったから、アマーリエは二人が望むように、父に付いていくと言ったのだ。
 誰かを傷付けるくらいなら、言葉にする必要はない。心に封じて蓋をすれば、誰も傷付かない。自分自身でもすらも。
 だからアマーリエは、都市に抱く恐れを口にできない。――信じられなくなった瞬間、壊れてしまうものがあるから。
 ずっと、そう思っていたのに――。
「――――!!」
 誰かの叫ぶ声が聞こえた気がして顔を上げた瞬間、先頭集団の目前で火柱が立った。
 遅れて、耳が壊れるような爆発音が響き渡り、小隊の陣形が崩れる。後続が慌てて手綱を引いた途端、白い地面が泡立つように動き出し、そこから伸びた手が次々に馬上の者たちを引きずり下ろし始めた。
 馬の悲鳴、リリスたちの怒号が飛び交う。
「敵襲――!」
 かろうじて届いたその声に、ぞっと背筋が泡立った。
 雪原に潜んでいた何者かが、奇襲を仕掛けてきたのだった。
「真様! こちらへ!」
 心臓が掴まれたように視界が揺れ、無意識に、手を震わせながら腰に帯びた剣に手を伸ばそうとしたとき、近くにいたユメが叫ぶようにしてアマーリエを誘導した。はっと息を飲んだアマーリエは、探るように空を掻いていた手を手綱に戻し、ユメの言葉に従う。
「天様と真様をお守りせよ――!」
 リオンが命じ、自らが打って出るために別進路を取ったところで、獣の吠声が轟いた。
 警察犬のような大きな生き物の声は警笛に似ていた。
 どうして獣の声が、と誰もが思ったらしい、アマーリエにはわからなかったが、何人かが北の方角、煙の立つ森の方を見たのがわかった。
(モルグ族の声?)
 次の瞬間、音もなく世界が白く染まった。
 閃光。目を潰された馬と人が為す術もなく倒れる。アマーリエもまた、平衡感覚を失って、自分がどうなっているのかわからなくなった。ただ、落ちる、という確信があって、したたかに地面に身体を打ち付けることを覚悟した。
「エリカ!」
 キヨツグの声が近くに聞こえた。案の定落馬して、彼に受け止められたのだ。
 目眩を覚えながらも、何度か瞬きをして視界を取り戻そうとしていて、視覚以外の感覚が鋭くなっていたのだろうか。アマーリエは、恐らくキヨツグと同時に、横から飛び出してくる何かを察知していた。
 振り向いた瞬間、鈍く光るものを捉える。白い衣服と覆面で擬態した何者かが、ナイフを手に迫り来る。
 けれど何故か相手は怯んだ。鋭く息を飲み、動きが一瞬、鈍くなる。
「――っ!」
 剣が振り下ろされた。一本は掲げた腕に斬りつけ、もう一本は肩から胸に一閃。
 狭まっていた視界が戻ってくる。アマーリエの目に映るのは、雪原に倒れ伏す襲撃者と、赤く染まった雪。聞こえてくるのは、ぼとぼとという雫の音。鉄の臭気が鼻をつく。
 掲げられたキヨツグの、真っ赤に染まった腕から、雨だれのように血が流れ、落ちていく。
「き、………………キヨツグ様っ!!」
 弾かれたように縋り付いた。
 キヨツグが傷付いた左腕を下ろす。痛みを感じていないはずはないのに、右手には剣を持ち、その目は未だ、自らが斬り捨てた襲撃者を睨みつけている。
(傷が深い……! 止血、止血しなくちゃ……)
 アマーリエは上着を脱ぐと、自らの衣服の袖を破き、適当な長さに再び裂いて、キヨツグの上腕部をきつく結んだ。
「大丈夫ですか。気分は……」
「……大事ない。お前に怪我がなくてよかった」
 青ざめるアマーリエとは裏腹に、キヨツグの口元には微笑があった。本当に心からそう思っているのだと思うと、涙が出そうになる。
 そうしているうちに医術に長けたリリスが駆けつけて、携帯していた血止め薬や包帯を使ってくれる。
 アマーリエは動かない襲撃者を見た。生きているのだろうか。息があるなら、手当てをした方がいい。それとももう。
 近付こうとした瞬間、肩を強く掴まれた。じわりと熱く湿ったそれは、キヨツグの血に濡れた手だ。振り向くと、首を振られ、どっと力が抜けた。
 命が奪われてしまった。一つ二つではない。血の跡がついた雪原の上に、ごうごうと風が鳴り響いている。襲撃者たちをすべて倒したリリスたちによって、安全が確保されたことがわかった。
「二人とも、無事か!」
 リオンが険しい顔で雪を蹴立てて来た。手当てを終えたキヨツグは、負傷などしなかったかのようにユメや他の護衛官を呼び寄せ、指示を与えていた。その顔のまま、リオンに尋ねる。
「何者か」
 リオンは頭を振った。
「リリスでないことは確か。――モルグ族とヒト族は服装以外では区別がつきませぬゆえ」
 彼女は凍りついたアマーリエを見て、肩を竦め、わざとらしい明るい声で言った。
「まあ、ヒト族が攻撃を仕掛けてくる理由がない。モルグ族が伏兵を動かした可能性が高いでしょう。とすると、あの煙は狼煙だったのか」
 でもそれは、ヒト族の無実が証明されたわけでないと、アマーリエにもわかっている。
 斬られた傷、血の色が、ずっと頭の中で点滅している。襲われる瞬間から、紙芝居のように繰り返し。
(……気持ち、悪い……)
 何かおかしい。気付かなければならない、という思いが消えない。でもそれが何かわからなくて、何度も恐ろしい紙芝居を見せられている。頭の奥がざわざわして、鼓動が逸る。だが、吐き気が増すにつれて、断片的だったものがあるものを形作った。
 ――目だ。
 目が合ったのだ。アマーリエが振り向いた瞬間、襲撃者もまた、こちらを見た。そして一瞬、動きを強張らせた。それが隙となってキヨツグに斬られたのだ。アマーリエを見て、何故か、驚いた。どんな表情をしていたのかは覆面でわからなかったけれど、目はアマーリエに訴えていた。
(助けて、って、言っていた……ような……)
 そう、あれは助けを乞う目だった。考えれば考えるほど、確信が強まっていく。
(あの人は私を傷付けようとした。そして、キヨツグ様を傷付けた。でもどうして躊躇ったの? 助けを求めたのは何故? ……あの人は、私を知っている……?)
 確かめるには、いましかない。うつ伏せている身体を返して、覆面を剥いで顔を見れば、その謎が解けるかもしれない。
 けれど、アマーリエがのろのろしている間に、その遺体はリリスたちによって回収されてしまう。どうやら生存者は一人もいないようだった。集められた遺体は、後ほど野営地に運んで検分され、手厚く葬られるという。
 知っている誰かであるはずがない。リリスの地にいるほとんどは、アマーリエの見知らぬ人なのだ。リオンも、ヒト族に襲われる理由がないと言った。だから。
(信じなければ……そうでないと……)
 壊れてしまう。信じなければ。壊れて。
 吹きすさぶ風の中、座り込むアマーリエの手の中で、握りしめた雪がじわじわと溶ける。信じるものの儚さは雪以上に、脆く壊れやすいものであることを、幼い頃からアマーリエは知っていた。

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