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 翌日の朝早くに目が覚めたアマーリエは、しんしんと冷える曇り空の下、厚く着込んだ身体を震わせながら、軍医を訪ねた。昨日、眠りに落ちる直前、確かめておかなくてはならないと思ったからだ。
 この場所に滞在している医師は交代で休みを取っているため、アマーリエを応対したのは昨晩の当直だった。薬を持って来てくれた医師だ。野営地を出ることはないので護衛は必要ない、と天幕の見張りに立っていた兵士に断ったものの、明け方のこんな時間に真夫人がやってくるのだから滅多なことではないと、軍医は考えたらしい。どこか張り詰めた表情になった。
「おはようございます。いかがなさいましたか、真様」
「おはようございます。朝早くに申し訳ありません。お願いがあって参りました」
「お願い?」
 アマーリエは唇を引き結び、決意を込めて頷いた。
「……私たちを襲った人たちの遺体を、改めさせてください」
 その懇願は医師の度肝を抜いたらしい。目を見開いて、二の句が継げないでいる。
 集められた遺体は別のところに安置してあり、ある程度検死した後、葬られると聞いていた。だから、その人たちがアマーリエの知人か関係者なのかどうか、顔を改めるならいましかないのだ。
「それは、その、このことを天様はご存知なのですか?」
 困惑したように絞り出された問いは、予想済みのものだ。アマーリエは落ち着いて首を振った。
「いいえ。お知らせする前に、確かめておきたいことがあるんです。遺体を損傷するようなことや、手を加えることはしません。立ち会っていただいても結構です。天様には後でご報告しますから、どうか、お願いします」
 不審な点は見当たらないが、許可を出すべきか判断しかねる、といった様子で医師は考え込み、しばらくして、言った。
「ううん……せめて、姫将軍閣下には話を通して構いませんか」
 キヨツグにはまだ伏せておきたい、と思っていることを察してくれたらしい。リオンなら、アマーリエのやろうとしていることをとりあえずは静観してくれるに違いない。そう思って、頷いた。
 リオンの元へ向かった医師は、しばらくして本人を伴って戻ってきた。すでに起床していたらしい彼女は、アマーリエを見るなりため息をついた。
「また何ぞ、面倒ごとを持ち込んできたとか」
「『また』って……」
 そう頻繁に迷惑をかけているわけではないと思うのだが、気付かないだけで、自分の言動は常に周りを引っ掻き回しているのかもしれない。そう思うと、力なく笑うしかないアマーリエだ。
 リオンは近くにあった椅子を引き寄せ、どかりと腰を下ろした。
「それで? 何をするつもりか」
 アマーリエが医師に告げたことをもう一度説明すると、リオンは不審そうな顔を隠そうともしなかった。
「何のためにそんなことを?」
「……何かわかるかもしれないと思って」
 慎重に言葉を選んだが、リオンはすぐ顔を歪めて笑った。「わかるかもしれない」と言いはしたものの、本当は知らない人であることを明らかにしたい、と思っていることを見抜かれたのだ。
 浅はかさを見透かされたけれど、目を逸らさずにいると、リオンは笑みを引っ込め、呆れたように肩を落とし、立ち上がった。
「わかりました。あれが勘付いてやって来る前に、手早く頼みます」
 リオンなら、と考えたことは正しかったようだ。アマーリエは頷き、医師とリオンに案内されて、遺体が安置されている場所へ向かった。
 陣幕で覆われたそこに、死者が並んでいた。この気温では劣化しにくいようだが、薬を使用したらしく、薬液の匂いが充満している。数えてみると、十三人。衣服は剥ぎ取られ、布で覆われていた。
 アマーリエは白く震える息を吐きながら、一人一人の布を取って、その顔を確認していった。亡くなった人を見るのは、父方の祖母をはじめとした数回だけだったけれど、不思議と心は静かだった。死者に対する恐れよりも、知っている顔だったらという恐怖の方が優っていたようだ。
 十三人目の顔を見たアマーリエは、ぎくりとした。
(……エリーナ先輩……に、似てる)
 第二都市大学の先輩だったエリーナ。退学して、後方支援部隊に行くのだと話していた彼女だ、と反射的に思ったけれど、よくよく見てみると、少し、違う。
 角度を変えて、何度も確かめた。顔立ち、何より、髪の色が異なっている。それを見てもなおまだ心臓がばくばくと早鐘を打っていたが、強張った手つきでそっと布を元の位置に戻す。
(――全員、知らない人だ)
 顔を覆って泣きそうになってしまうが、ぐっと堪えた。心の底から安心できなかったからだ。もし彼ら彼女らが、出自を誤魔化すために顔を変えていたとしたら、アマーリエには見抜くことができない。対面して、話をしているときの表情の変化でなんとなく感じ取れるかもしれないが、専門医でない、ただの学生のアマーリエに、この人たちが整形しているかどうかなんてわからないのだ。
 偶然なのかエリーナに似ている女性がいた。声を聞いて、話せていたなら明らかにできたかもしれないけれど、もうどうにもできない。
 立ち尽くしているアマーリエをリオンが呼ぶ。
「何かわかりましたか?」
 首を振る。欲しかった答えは得られなかった。でも。
「少なくとも、疑いは晴れていないということだけ、わかりました」
「なら戻るとしましょう。道道、キヨツグへの上手い言い訳を考えておいてください」
 リオンは詳細を求めてこなかった。何も期待していなかったからだろう。けれどきっと彼女は、アマーリエが一瞬硬直した後、執拗に確認していた女性のことを覚えていて、精査するよう専門家に命じるに違いない。その報告を待つくらいの時間はあるはずだ。
「……知り合いに似ている人がいて。でも、よく見ると違っていたから、似ているだけでした。顔を変えていない限り、別人です」
 リオンは一瞬真顔になった。アマーリエはそれに笑みを返すことしかできず、前を向いて歩き出す。
 失われた命。傷付いた人たち。最も大事な人を失ってしまうかもしれない恐怖。明らかにならない敵意あるいは殺意。それらが胸を押し潰してきて、笑っていなければ、泣いてしまいそうだった。

 戻ってきたところを迎えたのはユメだった。兵士から、アマーリエが出歩いていることを聞いたらしい。リオンを伴っているとわかっていたからか、追いかけてくるようなことはしなかったものの、顔色がひどいと言って、そのまま天幕に押し込めようとする。
「ちょ、ちょっと、お願い、待って。キヨツグ様に報告しなくちゃならないことがあって」
「では天様をお呼びいたしますゆえ、真様はどうぞ中へ」
 族長を呼びつけるのは、と反論しても無駄だと悟って、アマーリエは大人しく自身の天幕に戻った。大丈夫だと思っていたけれど、炭火の燃える鉢の近くに座るとその暖かさにほっと息が漏れる。かじかんでいた手が、痺れるようにして温まっていく。
 そうしているうちに、キヨツグが姿を見せた。立ち上がろうとするとそのままでいいと手を振られる。
「……報告があると聞いたが、どうした?」
 まだ朝の早い時間だ。それよりも前にアマーリエが動き出していたことを聞いているだろうに、キヨツグはそれを問い詰めることなく、何があったのかと尋ねてくれる。それにまたほんの少し泣きそうになりながら、何をしてきたのか、リオンに言ったことと同じ所感を説明した。
「……わかった。心に留めておく」
「お願いします」
 そう言った途端、身体から力が抜けた。どうやらずいぶん気を張っていたらしい。目眩がするからまた貧血だろう。
「……もう少し横になっておけ。このままではお前が倒れる」
「はい……」
 ずっと不調でいるようで、自分の弱さに心がずしんと重くなる。こんなところで世話をかけるようなら、来るべきではない、とリオンに言われそうだ。
「……一眠りして、具合が良ければ、医師の元へ行け。手伝いがあるならありがたいと言っていた」
 そんな心理を見透かしたキヨツグの提案に、アマーリエは頷いた。ここでもできることがあるなら、そのために調子を万全にしなければならないと思った。お荷物になるのは絶対に避けなければならない。
「わかりました。お昼には伺うようにします」
 そう言ったのに、キヨツグは頷いたきり動こうとしない。アマーリエが横になるまで出て行くつもりはないようだ。仕方なく、彼を待たせた状態で着替えをし、慣れないベッドに横になる。
 途端に、意識が遠のくのを感じた。どうやらかなり疲弊していたらしい。あっという間に眠りの波に飲み込まれていく。キヨツグが慰めるように頬を撫でたのを感じたのが最後だった。

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