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 涙とともに思いが溢れて、寝台に顔を伏せてどのくらい経っただろうか。もしかしたら少し眠ったのかもしれない。何故なら、キヨツグの様子を確かめようと少し顔を上げようとしたそこに、何者かの姿が見えたからだ。
 アマーリエが訪れているとき、リュウやシキ、事情を知っている護衛官たちは決して近付かないし、誰も近付けさせない。だからこの部屋に第三者がいるのは夢だと思うのが自然だ。
 それに、とアマーリエはその人をじっと見つめる。
(だっているはずない、こんなに、キヨツグ様に……)
 肩までの長さに切り揃えた白銀の髪。白く光る銀の瞳。
 キヨツグの持つ色彩を反転させたかのようなその人は、顔貌までも彼に瓜二つだったのだ。
 しかしよく見てみると、わずかに険がある、というべきか、研ぎ澄まされたような冷たさと落ち着きがある。キヨツグが澄んだ剣なら、この人は白刃そのものだ。ひと凪ですべてを両断する力がありながら、それを奥深くに秘めた底知れなさがある。
 彼は寝台に伏せるアマーリエの傍らに立ち、眠るキヨツグを見下ろしている。アマーリエの顔がもし枕側を向いていなければ気付けなかっただろう。そう思ったとき、そうやって常に気配を消している者が彼の近くにいることに思い至った。
 オウギ。キヨツグの護衛官。気配を殺す達人で、何故かいつも顔をはっきり思い出せない不思議な男性。
 そのとき、見えない何者かに導かれるようにして、その名が浮かび上がってきた。
「――セン様」
 白いその人ははっとして、身を起こすアマーリエの方を向いた。アマーリエは、彼の顔、これほどはっきりとした白色の印象が薄れないことを確認して、紡いだ名前が間違っていないことを知った。
 リリス族の聖地であり最高機関である命山に住まう彼の(ひと)が教えてくれた名だ。
 そうして、彼はアマーリエがそれを知っている理由を察したらしい。ひどく苦々しい顔になり、それをぶつけることを堪えるように長い息を吐いた。
「……よくわかったな。探っている様子はないと思っていたのに」
「私も、驚いています。ただ、なんとなく思っただけで」
「『なんとなく』……」
 恐ろしいな、と感じ入ったように彼は呟いた。似たような事例を知っているような口ぶりに思えるが、女神の夫というなら相当な長生きだろうから、そういうこともあったのかもしれない。
 だがそれきり黙ってしまったので、何らかの才能の持ち主だと思われては困ると、慌てて付け加える。
「なんとなくって言っても、根拠となるものはあるんです。それが全部繋がっただけで……」
 女神は、夫がキヨツグやアマーリエの近くにいることや、本当の名前を教えてくれた。それはつまり、名前を変えているか隠しているということだ。キヨツグの近くにいる不思議な人物の最たる者といえば、護衛官のオウギ。実際、アマーリエは今日までキヨツグに似た彼の顔や、こんなに目立つ髪色すら思い出せなかった。それは多分、命山や女神が持っている空気に通じる、古い力によるものなのだ。
 何の力も持たないただの小娘なのだと、わかってもらえただろうか。どのように言葉を継げばいいかわからないでいるアマーリエに、彼はため息を落とした。
「……そういう顔で見るのは止めてくれ。悪いことをしているような気になる」
 アマーリエは頬を押さえた。どうやら彼を困らせるような表情を浮かべていたようだ。
「申し訳ありません……」
「……そういうところがな……」
 何かを言いかけて、首を振っている。それを見て、この人もまた困っているのかもしれないと思った。きっと、自分の正体を明かす気などこれっぽっちもなかったのだ。
 けれど、そんな不可思議な力で身を隠している護衛官のことを、キヨツグが気付かないわけがない。そういえば、オウギのことを調べようとして途中で投げたらしいと、リオンが言っていたような。
「どうして、キヨツグ様はあなたのことを知らないままなんですか?」
 センはちらりとキヨツグを見遣った。眠っている彼にこの声は届いていないだろうし、アマーリエもこの部屋の会話を内密にするつもりでいる。頷いて見せると、センは口を開いた。
「赤子のときにセツエイとライカに預けた。父親はセツエイだ。私ではない」
「キヨツグ様の近くにいるなら、あなたの素性を調べようとしていたことはご存知なんでしょう?」
「ああ。だが私は何もしていない。知ったなら姿を消せばいいだけだからな。しかしそうはならなかった。キヨツグは何かを察して追求を止めた。勘のいいやつだ」
 そこで彼は笑みを吐いた。
「勘がよく、抱えた問題を誰にも知られずに処理できる能力を持ったがゆえに、この状態だ。馬鹿としか言いようがない。馬鹿は間違いなく私の血だがな」
 嘲笑う言葉の中には、呆れと一抹の寂しさ、そして悲しみが宿っていた。こんな状態になったキヨツグのことを怒っているようにも思える。だがアマーリエは肩を落とした。見過ごしたのは自分も同じだと思ったのだ。
「……セン様は、名乗り出るつもりはないんですか?」
「何度も言わせるな。それとも、助からんと思っていて同じことを聞くのか」
 アマーリエは鋭く息を飲み、センを睨みつけた。それを見た彼は面白がるような、侮るような笑みを浮かべる。実父だからといって、言っていいことと悪いことがある。だが、名乗らないのか、真実を告げた方がいいのではないかという意味合いを感じたなら、もしこれが今生の別れだとしたら、と思っているように取られても仕方のないことだった。
 けれど、彼がそのように言うのならば。アマーリエは目を閉じて怒りを飲み込むと、ぎゅっと両手を握りしめ、今度は強くセンを見据えた。
「なら、あなたは助かると思っている――キヨツグ様を助ける方法に心当たりがあるということですね」
「ヒト族の医師から得た治療薬を摂取したんだろう?」
「それ以外に、です。何かもっと、私が想像もつかないような治療法を、あなたはきっと知っている」
 センは首を振った。
「私は神ではなく、万能でもない」
「でもあなたは――」
 問いを重ねようとして、アマーリエは自分が間違っていることに気が付いた。彼は、多分知らない。命山や女神が何も発言しないように、彼にとってもフラウは未知の感染症なのだ。むしろ、ここで情報を集めて命山に知らせ、警告しているのだろう。彼が危険を承知でここに留まっているのはリリス女神のためであり、キヨツグのためでもある。
 でも何か、引っかかる。この人がキヨツグに似ているせいか、大事なことを聞かなければならないと思うのに、その質問が言葉として出てこないのだ。彼が知っていて、アマーリエが知らないことがあるのは確かなのに。
 しかし、助かると思っているのは間違いない。そう思ったとき、水晶のように白く光る瞳に射抜かれた。
「その胸にある疑惑はいつ解くつもりだ?」
 アマーリエの心の奥で、封じ込めている箱が脆くひび割れる。
 取り乱しそうになる自分を必死で取り繕ったアマーリエにできたのは、微笑みを浮かべることだった。けれどそれはひどく未熟で、いまにも泣きそうに歪んでいた。
 女神が愛と慈しみなら、その伴侶たる始祖は力と強さをもって人を導く存在なのだろう。どちらも目前に立つ者の心を正しく映し出して行く先を示すのに、始祖の導きは容赦がないほど、真っ直ぐで、痛い。
 キヨツグを見る。近くでこんなに長く話していても、彼が目覚める気配はない。彼は一人で病と闘っている。なら、アマーリエが戦わないでいいわけがない。
 そして目を戻したとき、センの姿はすでになかった。空気に溶けるようにどこかへ消え失せてはいたが、遠くはないところでこちらを見守っているのは間違いない。
(……選ばなくては)
 自分にとって優先すべきは何なのか。
 どちらも欲しいなんて強欲は許されない。
 いつかの別れに繋がるものとわかっているから、覚悟なんてしたくないと思っていた自分がいたことをアマーリエは認めざるを得なかった。
 この世界では、すべての人に救いの手が差し伸べられるわけではない。どんなに恵まれていても、誰も助けてくれないときはある。だからいまは、一人で戦わなくてはならない。
 私は、アマーリエ・エリカ・コレット・シェン。リリス族長の妻、真夫人。リリス族を守ると同時に、伴侶たるキヨツグを守り支えることもまた、己の義務なのだから。

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