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 やがて侍従がやってきて、ハナとカリヤから部屋を出る許可を得たことをアマーリエに知らせた。ただし、表に出てはならず、外が伺える小部屋で処置を待つように、という指示だった。
 武官による厳重な警戒の中、表庭には、薬入りのコンテナが並べられていた。運び込んできた市職員たちは、全員同じところに集められ、会報を告げられるのを待っている。ワクチンが本物かどうか確かめなければ、彼らを帰すことができないからだ。
 薬の真偽は、リュウとハナ、アンナと、拘束中の医療スタッフを一名選んで確認する手はずだ。その後、アマーリエが摂取し、異変がないことを確認してキヨツグたち患者に処置を行う。だが、致死性の高い感染症であるため、一刻も早く対処せねばならない。一秒でも惜しい状況なのだ。
 じりじりとした時間が過ぎ、やがてそのときが来た。ハナとアンナがやってきた。手には、処置道具と薬を持っている。
「確認が取れました。特効薬です」
 ハナの言葉を聞いた途端、全身の力が抜けた。床についた、血の気のない自分の手がかたかたと震えているので、苦笑いしてしまう。ああでもこれでやっと、と思うと、何一つおかしくはないのに笑みがこぼれた。
 医官たちが手早く準備をし、アマーリエの左袖をめくり、腕に消毒液を塗る。その間にハナが注射器に薬液を入れている。
「キヨツグ様の容体は? 重篤な状態にはなってない?」
「はい、いまは落ち着いておられます。薬を打てば、きっとすぐ快くなられます」
「ご指示通り、効果のほどを確認した後、天様に投与していただきますので、ご安心くださいませ」
 アマーリエを落ち着かせるための言葉を口にする医官たちは、けれどみんな安堵の笑みを浮かべていた。冷静に処置しなければならない彼らにとっても、薬を手に入れられたことは何にも勝る喜びだったのだろう。どれだけの心労を強いていたかわかるというものだ。
「うん……うん、ありがとう、本当に、あり、…………あ、れ?」
 次の瞬間、世界が真っ暗に閉ざされる。
 遠くで悲鳴が聞こえる。聞こえていたはずの音が、電波障害を起こしたかのように途切れ途切れに、不明瞭になっている。何が起こったのかわからない。ただ、意識と身体が切り離されてしまったことだけが感じられる。
「真様!」
「如何なさいました、真様!?」
 少しずつ感覚が戻ってきたけれど、アマーリエの身体は動かないままだった。声も出ない。指一本動かせない。燃えるように暑いのに、氷の中に閉じ込められたかのように寒くて、何もできない。
 はっと息を飲む音がした。
「真様、ご無礼を!」
 叫んだハナが、アマーリエの襟元を大きくはだけさせる。途端、悲鳴と、それを押し殺す声。刹那の絶句の後、怒声混じりの叱責が轟いた。
「こうなるまでどうして誰も……!」
「どうして黙っていたの、アマーリエ!?」
 知らない、と言おうとしたけれど、舌が回らない。アンナが胸に当てた聴診器が、まるで氷のように感じられる。高熱を発しているのだ。
「おかしい……ほんの数秒前まで普通の様子だったのに。まるで一瞬で発病したかのようだわ。毎日の健康診断は欠かしていなかったんでしょう? 兆候もなかったわよね?」
「ええ。……ええ、はい」
 言い淀んだ瞬間を、アンナは見逃さなかった。
「何かあるの?」
 ハナは注射器に薬を入れながら、唇を引き結び、頷いた。
「……体調が万全でないことは、把握しています。ご気分を悪くされて吐き戻していらっしゃったことがあったのですが、精神的なものが大きかったと判断しました。もともと、環境の変化に戸惑われる性質をお持ちだったようなので」
 発病者の血液を輸血したと聞いているアンナだが、担当医でもあるハナには、アマーリエが行なった儀式のことは知らせてある。身体の不調が出る可能性は、命山の使者からも伝えられているはずだ。しかしそれは絶対口外してはならないのだと、苦しみながら判断したようだった。
「ええ、あなたの見立ては正しいと思います。……薬を投与しましょう」
 取り乱しかけた自分を落ち着かせようと集中していたアンナは、飲み込まれた真実に気付かなかったようだ。ハナから薬を受け取り、むき出しにしたままのアマーリエの腕を取る。そこに散らばり始めた赤い発疹を見て、眉をひそめた。
 だがその直後、アマーリエの全身に引き裂かれるような痛みが襲った。
「あ……あ、あぁああああぁっ!!」
「アマーリエ!?」
 手を振り払い、我が身を抱えようとして、あまりの激痛に身悶えする。どこが痛いのかわからない。細胞という細胞が悲鳴を上げているかのようだ。
「いっ、あああああああぁ!!」
 息を求めて喘ぐのは、絶えず悲鳴が迸るからだった。絶叫し、身悶えても、決して和らぐことのない痛みに、アマーリエは。
「身体を抑えて! 薬を、」
「気道を確保、」
 ――ああ、これが罰なのか。
 すべて心得たような、自らの囁き声を聞いていた。
「この症状は何。これはフラウ病、それとも合併症を引き起こしている……?」
「真様、聞こえますか、真様!?」
 ハナの呼びかけに答えることができず、彼女が伸ばした手を強く握ることしかできない。けれど上手く力が入っていなかったのだろう、ハナは医師として、厳しい顔つきになる。
「……天様のお近くへお運びしましょう。意識のあるうちに……」
「何を言っているの? それじゃまるで」
 アンナは凄まじい顔になって言葉を飲み込み、鋭くハナを睨みつけた。
「――嫌よ。認められないわ。医師として、できることがまだあるのに、患者を見殺しにはできない」
「助かる方法があるならそうしています! ですが」
「いいえ。まだ手はある。――都市へ運びましょう」
 リリスたちは、絶句した。
 彼女たちを見回して、アンナは言い聞かせるように告げる。
「リリス族の医療技術を馬鹿にしているわけじゃない。これは多分ただの感染症じゃないでしょう。でもここではそれを明らかにするために時間がかかりすぎる。都市の方が効率的、つまりこの子が助かる確率が上がるのよ」
 誰もが口をつぐみ、どの選択が最良かを考えている。否応無しに高まる緊張に、アマーリエは朦朧としながら声を上げた。
「……や……」
「真様……!」
 女官が飛ぶようにして近くに来る。いまにも泣き出しそうな声で、アマーリエに呼びかける。
「私たちはここにおります。何か欲しいものがおありですか?」
 じっとしていられないほどの痛みの中で、アマーリエは言葉を紡ぐ。
「い、や……都市は…………い、嫌……!」
「馬鹿を言わないで!」
 意識がはっきりしないせいか、アンナの声が歪んでいた。まるで泣いているみたいな声だった。けれどアマーリエは、火のような息を吐きながら、切れ切れに駄々をこねた。
 嫌だ。行かない。行かない。ここで。
(だって、私は――)
 歳を取って死にたくない。あの人に置いて逝かれる方がずっといい。
 でも、一人は嫌だ。
 ならば、いまこの姿で消えた方がきっと記憶に留めてもらえる。きっと、忘れられないはずだから。傷となっていつまでも残るに違いないから。
 呪詛のように巡る言葉を、本当に口にしたのかは、わからない。心の闇から溢れ出した言葉は渦を巻き、アマーリエの意識を飲み込んでいく。
 だがそれを引き止めるものがあった。
 呼び声が聞こえた気がして、目を動かす。霞む視界に、光を帯びた人影が見えた。アマーリエの頬に手を当て、表情を確かめようとしている。何か問いかけているのだ。
「本当にそれでいいのか。――別れの言葉すら交わさぬまま、ここで死んで、後悔しないか?」
「――――」
 浮かんだのは、キヨツグの姿だった。何かを探すように視線を巡らせて、こちらには気付かない。離れた場所にいるアマーリエは彼を呼ぼうとして、けれどできなくて、唇を震わせる。
 こんな私に、彼のように綺麗な人に触れる資格はない。
 その代わりに縋るように裾を握り締め――ようとして、いつの間にか身につけていたデニムに包まれた腿の上で、拳を固めていた。長い袂は白いブラウスの袖に変わり、結い上げていた髪は無造作に背中へ流れる。真夫人ではない、何者でもない、ごく普通の都市の娘になったアマーリエの声は、もう彼には届かない。
 それでも何かを、あるいは誰かを、もしかしたらアマーリエを探しているかもしれないキヨツグを、このまま永遠に失うのだと思うと、たまらなかった。
 届きはしない。もう。
 それを知っていても求めずにはいられない、自ら背を向けることができないから、アマーリエは顔を覆い、その場に崩れ落ちた。そしてそのまま、意識を消した。


 アマーリエを都市へ搬送するか、それともリリスで命を終わらせるか。アンナたちが議論を交わしているそこに、いつの間にか見知らぬ男性が割り込んでいた。まるで光が形を成したかのように、誰にも知られずに姿を現したように思えた。
 誰だと問う前に、彼は朦朧とするアマーリエの顔をこちらに向け、口を開いた。
「本当にそれでいいのか。――別れの言葉すら交わさぬまま、ここで死んで、後悔しないか?」
 アマーリエに答えられるわけがない。恐らく何を聞かれたかもわかっていないだろう。ただその目が、表情が、雄弁に思いを語っていた。
 死にたくない。愛する人を残して逝けない。
 どれほど強がりを口にしても、その瞬間が訪れたときに抱いているものが真実だ。
 アンナは、娘がそれほどまでに苛烈な人間であったことを、このときまで知らなかった。だが感慨にふける間もなく、アマーリエは問いを投げかけた男に抱き上げられていた。
「待ちなさい! その子をどうするつもり!?」
 叫んでおきながら、ゆるりと振り向いた輝かしい容貌に息を飲んでしまう。リリス族は容姿に恵まれた種族だが、彼はその中でも、最も目を引く人物だと思えた。だが不思議なことに、それを記憶に止めようとしても、上手く形にならない。水か光で像を作ろうとしているかのように、思い描く側から揺らいで消えてしまう。
 アンナ以外の誰も、彼の行動を咎めなかった。音もなく現れておきながら、彼はすでにこの場を支配し、その絶対さで告げる。
「アマーリエ・エリカは都市に託す。それがこの娘の望みであり、我らが族長の願いゆえに」
 呆然と彼を見送った後、はっと我に返ったアンナは、部屋を飛び出してイリアに事情を説明し、車と病院の手配を頼んだ。
 その後、アマーリエは無事に車に乗せられ、専門機関に搬送されたという知らせを受け取ったものの、アンナの震えは止まらなかった。まとわりつく予感が、肌を粟立たせる。
(アマーリエは助かる。きっと、助かる。……でも)
 どうして、あの子を失ってしまったような気がするのだろう。
 だがその不安を消し去りたくとも、アマーリエを連れて行こうとしたあの男の姿はどこにもなく、話すべき娘の夫は、未だ意識を取り戻していないのだった。

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