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 夢を、見た。
 ぱあんと弾けるようなクラクションの音がして、アマーリエは顔を上げた。
 人々が行き交う、こつんこつんと規則正しい靴音がアマーリエの前にやってきては遠ざかっていく。灰色の石の歩道の上を、乾いた枯葉が物悲しく吹かれて飛んでいく。
 ふわりと髪が巻き上げられ、なんとなく頭上を見上げれば、閉鎖空間のような印象を持たせる、都市ビルの群れによる狭い空。曇りなのでわずかに銀がかった空が見えた。
 びゅんと風を切って走っていく乗用車に眉をひそめる。荒い運転などして何が楽しいのかと思う。
(そんな私は、ここで何をしていたんだった……?)
 ぼんやりと考えて、冷たい手を擦り合わせた。冬だ。この冷たさは。首に巻いたマフラー越しに息が白く吐き出される。その白さと手の冷たさは、待ち人があることを思わせた。
 でも、いったい誰を?
 影と光ばかりが行き交う道を眺めて、あの人でもないこの人でもないと考え始める自分がいた。みんな影ばかりだ。自分のもとには決して来ない、誰かの影であり、分身。道を行く人々にとってはアマーリエもまた、ただの影。でもこの手は冷たくて息は温かい。血が通っている私。
(ああ、会いたいな……)
 そう思うのに、誰も来ない。手は冷たくなっていくばかりで、身は凍えていく。世界はいつも通りの平穏さで進む。誰かが明かりを灯さなければ。そう、世界を変えられるのは私だ。私の世界を変えられるのは。
 そう思って歩き出す。影にぶつからないよう、行く先を見失わないよう。都市の中心部は市庁舎などを建てた政治街で、その周りを金融街や工業区域、住宅街などが区画に分けて建てられている。その都市を真っすぐに突き抜けて、東へ。
 段々建物が少なくなり始め、工業区域に出た。そこを突き抜ければ、都市をぐるりと取り囲むゲートがある。そこには常に警備が立っているはずで、警報などがあるはずなのに、何故か誰もおらず、音もしない。
 そのことを別段不思議に思うことなく、ゲートを手で押し開いた。
 光が広がる。夜明けが来る。吹き付ける花びらが、風と一緒に春を連れてきたことを告げていた。風が優しい。荒れ狂うビル風とは似ても似つかない、歓迎する風だ。
 胸が甘い色の空に締め付けられただけでなく、そこに誰かが立っているのを見て高鳴った。
 ああ、そこにいたんだ。笑って、一歩踏み出した。抱きしめなくちゃ、大丈夫って言わなくちゃ、一緒にいたいって言わなくちゃ。たくさんしなければならないことが浮かんで、そういうことはとても幸福なんだと知った。伝えたら、笑ってくれるだろう。抱きしめてくれるだろう。大丈夫だって言って、一緒にいてくれる。
 ――そう思ったのに、目覚めたアマーリエの目に映るのは、白く清潔な天井で、思わず、涙が溢れた。
(ああ、ここは……)
 自分がどこにいるのか悟ったとき、ぼやけた視界に、人影が見えた。頭を隠し、マスク、白い術衣を身にまとった女性は、アマーリエを覗き込んで、わずかにはっとした。
「コレットさん? アマーリエ・コレットさん、起きましたか?」
 アマーリエの泣き濡れた息は、酸素を供給する透明なマスクに吐き出された。医療従事者だろう女性には答えず、アマーリエは目だけで周囲を見回す。身体は動かない。ひどく重くて、自分の身体ではないようだ。
 銀色に光る支柱は、点滴台だろうか。半透明のチューブが揺れているのはアマーリエが身動きしようとするせいだ。人の気配と、心電図らしきモニター音が聞こえるけれど、普通の病室ではない雰囲気がする。隔離施設、あるいは病院に準じた研究施設か。どちらにせよ、ここがリリスでないという絶望は、アマーリエのひび割れた心から溢れ出して、静かに涙を流させた。
「大丈夫ですか? どこか痛みますか?」
 痛むのは心なんです、と口にしてもどうしようもないことを考えて。
「お腹の赤ちゃんは元気ですよ。安心してくださいね」
 慰めの言葉と微笑みに、世界が停止したような衝撃を覚えた。
 無意識に腹部に手を添えると、わずかに大きくなっているようにも、熱を抱いているようにも感じられた。小さく、けれど確かな命の火が育とうとしている。
「……子、ど…………」
 だがアマーリエは、自身の振る舞いを思い出し、蒼白になった。
 触れてわかるほど大きくなっているのなら、それなりに時間が経っている。心当たりを遡ると、恐らく現在妊娠中期だと思われた。けれどまったく覚えがなかった。あまりにも多忙だったし、月のものが遅れているのも心身が弱っているせいだと思い込んでいた。だから、あの儀式を行うことができた。
(元気って、でも。病気は。無事なの。ああでも私はなんてことを――!)
 混乱のせいで意識がふうっと遠ざかり、途端、枕元の機械類がけたたましいアラーム音を響かせる。側にいたスタッフが驚いた様子でモニターを確認して、ベッドに取り付けられていた無線のボタンを押しながら優しく声をかける。
「コレットさん、大丈夫ですか? いま医師(せんせい)を呼びましたからね」
「……ごめ……なさい……ご……め……」
「大丈夫ですよ、落ち着いて。深呼吸してみましょうか」
 ごめんなさい。ごめんなさい、キヨツグ様。
 ごめんなさい私の――。
 乱れた呼吸で繰り返し、再び流れ出る涙に喘ぎながら、何度も謝罪を繰り返すうち、ぶちん、と意識が途切れた。

 それからしばらく、わずかに目覚めては眠る日々が続いた。
 スタッフの女性に尋ねたことを繋ぎ合わせていくと、アマーリエはフラウ病と合併症を発症しており、現在はその合併症の治療と、それらが母体と胎児に及ぼす影響を診るために、施設に収容されたらしい。
 その胎児がリリス族との混血だと知っているのか、上手く働かない思考のせいで、日や時間帯によって入れ替わる女性スタッフの誰に聞いても聞き出すことはできなかったが、整った設備からして知らないということはないだろう。ここは市立病院とは一線を画した、大規模な予算が投じられた施設のはずだ。ロッカーやチェストひとつない広い部屋が、患者の個室になるとは思えない。
 治療と診察とは名ばかりで、多分、アマーリエは研究材料にされている。ヒト族の身で、フラウ病患者のリリス族の血を輸血し、発症した。そんなレアケースを都市が放置するわけがない。混血の子どもを調べるための多額の費用を投資する研究者も、企業も、好事家も、あちこちにいる。
(守らなくちゃ)
 体力が戻り、覚醒時間が長くなるにつれて、アマーリエの思いはしっかりと根付いていった。
(守らなくちゃいけない。たとえ、もう私にその資格がなくとも、いまだけは)
 日に日に大きくなる我が子のために、アマーリエは少しずつだが食べるものを増やし、医師の指示で歩くなどの運動を始め、時々、身体に針を刺されたり装置を取り付けて観察されたり薬を投与されるなどの検査に耐えて、養生のために時間を費やした。世話をしてくれる女性スタッフたちともコミュニケーションを取り、情報収集も怠らない。
 驚いたと同時に、やはり、と思ったのは、フラウ病がヒト族にも広がっていたことだった。都市がどんな様子か、尋ねた相手によって答えは様々だったが、混乱していると言う人もいれば、意外と静かで大変なのは医療施設だけ、と言う人もいた、共通するのは、メディアが不必要に騒ぎ立てるという不満だ。不安を煽るような報道が繰り返され、異種族に対する排斥運動がネットを中心に活発化しているらしい。アマーリエが公共施設である市立病院ではない場所にいる理由のひとつのようだった。
 アマーリエの帰宅が許されたのは、一ヶ月ほどが経った頃。ゆったりとしたワンピース姿でも腹部が目立つようになっていた、春の終わりのことだった。
 車椅子を押され、迎えの車が来ているという地上に出たアマーリエは、空気がすっかり暖かいことに驚き、また以前と変わらない、ざわつきと乾いた空気を感じて、不思議な気持ちになった。これまでの出来事が夢だったかのように、何一つ変わらない。世界が滅んでしまうような激しい思いを抱いたにも関わらず、ビル群は変わらずにそびえ、灰色がかった空が広がっている。
 都市を走る車の中で、車両や人々が行き交う景色を眺めるほど、強い違和感と虚無感がアマーリエを襲った。ひどく疲れたような気がしたとき、車は住宅区の中でも上流階級の家々が立ち並ぶ一画に進み、ある家の門扉をくぐった。
 家の中から走り出てきた人々が扉を開け、降車したアマーリエの姿を見て涙ぐむ。
「お嬢様……おかえりなさいませ!」
 ここは父の実家。祖母が亡くなり、父は自宅を持っているため、この家は現在昔から勤めてくれているハウスキーパーの夫婦に管理を任せている。
 いたわしいとばかりに顔を歪める彼女は、家政婦のスーワイだ。厳しかった祖母とは対照的に、優しくしてくれた彼女の、ミルクチョコレートのような肌の色と真っ黒な瞳が大好きだったことを思い出した。後ろで何度も深く頷いているのは、スーワイの夫のダオ。彼がよく淹れてくれたミルクティーの、濃くて甘い味わいはいまでも覚えている。
 二人はアマーリエを順番に抱きしめ、家の中へと誘った。
 幼い頃は、この広い家が怖かった。大きな声や物音を出すと、みっともないから止めなさいと祖母にひどく叱られたものだ。こうやって玄関ホールで騒いでいると、奥の階段から、静かな靴音を響かせながらアマーリエを呼ぶのだ。
「アマーリエ」
 階段を仰げば、そこには祖母ではなく、ダークスーツの父の姿があった。
 視線が交わり、父が笑う。
「――おかえり」
 蕩けるような表情とともに告げられ、アマーリエは唇を震わせた。口を開きかけたものの、言葉がばらばらになってしまい、耐えきれず目を伏せて俯く。
 詰りたい。もっと暴力的な行動に出たっていい。父の仕打ちは、あまりにもひどい。
 けれどいま、アマーリエの身体は自分一人だけのものではなかった。お腹の子どもを守るためには、いまのところはこの人に従っている方がいい。そう考える理性は残っていたけれど、未だ心身ともに不安定である自覚はあった。極端な行動に出ないよう、自分を律する必要がある。
「……ただいま、パパ」
 だからこのときだけは、天使のふりをして笑っていよう。
 アマーリエに翼などない。あったのだとしても、すでに捨て去った。キヨツグの手を取ったときに、アマーリエは誰かのためではない本当の自分を得たのだ。たとえ翼を与えられたとしても、張りぼてを背負うだけ。この人がわからずとも、それが真実なのだから。

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