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 ――マリア・マリサは、代々政治家や会社経営に携わる人間を排出するコレット家に生を受けた。第一子が女児だったので、父親はずいぶん落胆し、怒ったそうだが、あまり覚えていない。健啖家でならした父は、マリアが物心つく前、弟が生まれて間もなく病死していたからだ。母がそのことについてあまり語りたがらない理由は、成長してから知った。妻としては、愛人宅から救急搬送されて意識が戻らなかった夫のことを、大層腹立たしく思っていたことだろう。
 母親が辣腕を振るってくれたおかげで、マリアも弟のジョージもすくすくと成長した。幸い、父が遺してくれた財産と、母の実家からの支援のおかげで、姉弟は何一つ不自由することなく、整った生活環境と十分な教育を受けることができた。一方で、母親が子どもたちにかける期待は大きく、彼女を満足させることが何よりも優先され、マリアはそれに疑問を感じなかった。お母様の言うことは間違いないわ。コレット家の長女として、お母様とジョージを守るために、するべきことをしなくては――というように。
 それが変わったのは、中等部時代。富裕層の子弟が通う一貫校に籍を置いていたマリアは、学年を上がるにつれてたくさんの友人ができた。中等部ともなると、高等部や大学部とも交流を持つようになる。高等部からは外部生を受け入れているため、マリアがそれまで付き合いがなかったような家庭の生徒や学生とも知り合うことができた。それが、マリアの世界を少しずつ開いた。綴じ合わされていた縫い目が解かれるように、するすると、大きく、あっという間に。
 毎日を母の決めたスケジュールの通りに行動し、母が決めた教師に音楽や社交術を学び、母が選び、許した人と会う。髪の長さ、スカートの丈、靴下や靴の色、すべて母のチェックが入る。素行はもちろん厳しく監督され、逸脱の気配を見せようものなら、必ず送迎に人が付く。マリアもジョージも、そういう生活が当たり前だと思っていた。
 気付いてしまうと、気がかりになったのはジョージのことだった。マリアよりも厳しく躾けられ、天使のようでいて、知的で冷静であれと言い聞かせられてきた彼は、理想の後継の具現のような少年だ。
 歪まないはずがない。母に見せる笑顔と、自分に見せる自然な表情の違いに気付いて、マリアは胸を痛め、何もできない自分を歯がゆく思った。
『お母様は「後継なのだから」と言って必要以上に弟を抑圧している』
『良い成績を取り、そつなく他人と交流し、教養を磨くよう求めておきながら、あの子が、義務や責任以上に人と関わっていないことに気付いていない。お母様はあの子の笑顔を見たことがあるのだろうか。あの上品で、優しく、甘やかでありながら冷めている、可哀想な仮面を』
『私の前で無邪気に振る舞う彼が、見ていて痛々しい。幸いなのは、あの子が本気で、けれど少しだけ、年相応に甘えようとしてくれることだろう。頼ってくれるのは嬉しい。けれど、できることなら、もっと信頼できる人を増やしてほしいとも思う』
 せめて、と思い、身近な友人や知人を家に招くことにした。
 母には渋られたが、招待客のリストには名門や経済界に繋がりのある家の人間もいたので、一般家庭の子や奨学生といった友人の存在は、多少の瑕疵として目を瞑ることにしたらしい。その結果さえ引き出せればそれでよかった。
 私の世界が広がったように、ジョージにも。そう期待して。
『友人知人を我が家に招待した。名目上は交流会、でも実態は、弟に友人を作ってもらうための顔合わせだ。弟も友人たちも、それなりに楽しい時間を過ごしたようだったけれど、「さすがは君の弟だ」という褒め言葉はまったく嬉しくなかった。
 一人だけ「いい子かもしれないが可愛くない」と言った人がいたけれど、私を見て慌てて「もっと自分勝手でいいという意味だよ」と言い訳をしていた。つい、笑ってしまった。私もそう思う』
 その彼とは、意外に縁があったようだ。それとも、いままで目に留めていなかったが、あのときの会話のせいで、彼を目に留めやすくなったのか。彼は、晴れの日と曇りの日は、必ず学内のどこかで本を読んでいた。そして彼の方も、マリアの存在を意識するようになったらしかった。
 彼は、綺麗にラッピングされた一冊の本をマリアに贈ってくれた。包装紙には、大型書店のロゴが入っている。高級な書物ではなさそうだったが、お詫びだよ、と彼は言った。
『本をもらった。この前失礼なことを言ったお詫びだという。「弟さんと二人で読んで、感想を言い合うのはどうかな」という提案は、すごくいいと思った』
『本のお返しを何にしようか、悩んだ末に、マフラーと焼き菓子にした。寒空の下で読書している彼が、とても寒そうだったから。面白い本に出会うと、時間を忘れて読みふけってしまうらしく、防寒具はとてもありがたいと笑っていた』
『読書している彼に遭遇した。声をかけると、マフラーが暖かいとお礼を言ってくれた。そう言ってもらえると贈った甲斐がある。でも、体調を崩さないか心配だ。温かい飲み物を差し入れようか』
 気付けば、日記には、彼とのやりとりの記録が溢れるようになった。
『彼の言っていた本を読んでみた。驚くほど面白くて、読み終わった後、つい彼に電話をして長々と感想を喋ってしまった。最後まで聞いた彼は「嬉しいよ」と言って、書店巡りをしないかと誘ってくれた。次の日曜が楽しみだ』
『書店を巡り、お茶をした。たったそれだけなのに、人生で最高に楽しかった。彼もそう思ってくれたらいいのだけれど』
『今日、彼に会った。「あんまり楽しくて聞くのを忘れていたけれど、次、映画はどうだい?」と誘ってくれた。嬉しい。とても。すごく嬉しい』
 二人は毎日、時間の長短はあれ、何かしら言葉を交わし、休日には時々出掛けるようになった。他の友人や知人が一緒のときもあれば、二人きりで映画を見たりカフェでとりとめのない話をしたりしていたが、ふとしたときにはマリアがぶちまけるように胸の内を吐露し、彼が聞き役に回ることも、頻繁に起こるようになった。
 心を許し始めている。マリアは自覚し、危ぶみつつも、彼と一緒にいた。離れるなんて考えられなかった。彼と話し、同じ時間を過ごすだけで、別の人間になれるような気がしていた。マリア・マリサ・コレットお嬢様ではなく、負けん気が強くて、口達者なだけの、普通の女の子のマリアに。
 柔らかで優しい日々が、ずっと続くと思ったのに。
 あまりにも穏やかな時間が続いたせいか、不用意に漏らした疑問が、マリアと彼の関係を変えた。
『「どうして私と一緒にいてくれるの?」と尋ねると、彼は「君を愛しているから」と答えた』
 なんと答えていいかわからなかった。
 この想いが、なんと呼ばれるものなのか。想像はできても、知らなかったから。確信を持って、そうだと告げる勇気が、マリアにはなかった。そしてそれを口にしていいほど、自分の立場が軽くないことを知っていた。母が激怒し、弟が微笑みを浮かべて諭してくることが想像できた。
 そうした状況を理解しているのは、彼も同じだ。マリアが迷っている間に、彼は速やかに身を引くだろう。そして、何もかもが最初に戻る。マリアは、鳥かごの中で怒りを撒き散らす、憎悪の塊のようになる。
 マリアの不自由さ、もどかしさを理解し、空気を求めるようにもがきながら生きることや、この世の理不尽さに同意を示してくれた。そして、世界を知るにつれて、家族に抱くようになった嫌悪と軽蔑を窘めてくれたのも、彼だった。
 三ヶ月が経ち、マリアはようやく、覚悟を決めた。
『私も、彼を、愛している』
 家も、家族も、何もかも捨てて、彼を選ぶ。でなければマリアは、自分が望んだ自分になれない。自らを憎んでしまう未来を変えるために、広い世界に出て行く必要があった。
 家を出たのは十九歳のときだ。お見合いと思しき会合が何度もセッティングされ、母親と言い争う毎日が続いていた頃。女性の幸せが、裕福で不自由のない生活を与えてくれる男性との結婚だと、母は信じて疑わなかった。声を荒げようとも、切々と訴えようとも、母は聞く耳を持たなかった。
『ここまでして育てたというのに』
 挙げ句の果てに、そう言われた。
 悲しかった。私は彼女の娘ではなく、成果物でしかないという現実が、心をずたずたにした。
 そして、彼との日々は、一年も経たないうちに終わりを告げたこと。
 失踪したマリアを見つけ出したのは、弟であるジョージだった。彼は有無を言わさずマリアを拉致すると、コレット家に連れ戻した。そして、閉じ込めた。鍵と監視でもって、マリアは夫と無理やり引き離されたのだ。ずたずたに引き裂かれた心は、ばらばらにされ、血を流して憎しみを叫んだ。
 マリアは、ジョージを恨んだ。彼がいなければ、捜索はいずれ打ち切られたはずだ。老いた母親には後継である息子がいて、マリアを連れ戻す強い理由がなかった。醜聞となった人間を受け入れる利は一つもなかったのだから。
『この家は、時が止まっているかのよう』
 すべてを捨てて家を出たはずが、執拗な捜索の末に連れ戻され、最初に抱いたのが、これだった。
 一ページに、罫線に収まらないような大きさで、二言三言書きなぐる日々が続く。『あんな母親、同じ人間と思うだけで腹立たしい』『帰りたい』『残してきた鉢が気にかかる。もう少しで花が咲くところだったのに、見られなくて悲しい』『憐れな弟。愚かな母親。でも無力な自分が一番嫌いだ』『こんな世界滅んでしまえばいいのに』――世界を呪う言葉の隅に涙が落ち、乱暴に拭ったせいで、汚く滲んだ。
 なのに、その怒りは、続かなかった。
 夫を心配し、その行方や、家族が彼に危害を加えていないかと思い悩み、誰に尋ねても知らないと言われ、住んでいた家に宛てた手紙を託したけれどばらばらに千切られた残骸が部屋の屑篭に捨ててあって。夫の無事を祈るしかない焦燥感に、精神が摩耗し、やがて指先一つ動かすのも億劫になった。
 夢の中にいるような、生きていても死んでいても変わらない毎日で、日記は途絶え、緩やかに心が死んでいく。二度と、爛漫の春のような暖かさも、浮き立つような喜びも感じられない。もうそんなものを喜べない。
 ――なのに、死んだはずのそこに芽吹くものがあった。
 ぼんやりとしながら、自らの不調は感じていた。
 身体がだるい。風邪でもないのに、吐き気がする。少しでも動くと目眩がして、時々鈍い腹痛がある。血が足りない。なのに何も食べたくない。
 マリアが精神的に参っていることもあって、母と弟は、とうとうマリアを十分な設備が整った大病院に連れて行った。懇意にしている医師は、健康診断も兼ねて詳しい検査を行った。
 ――何が起こったのか、そのとき、マリアにはよくわからなかった。金切り声をあげて詰め寄ってきた母と、慌てた看護師たちが彼女を引き剥がす光景を見た気がする。ああ、あれだけヒステリーを起こしていれば、安定剤を処方されるのだろうな、とぼんやりと考えた。そして、弟がいまこの場にいないことに安堵していた。
 帰宅したマリアは、再び厳重に閉じ込められた。けれど、看守たる母がひどく動揺していたため、マリアはずっと、医師からもらった黒い写真を手にしていることができた。
 まじまじと、それを見る。
 暗い空間に、小人か人形のような影が映っている。
 それが、マリアに芽吹いた、新しい命だった。
『体調不良を理由に病院に連れて行ってもらった。どうやら私は妊娠しているらしい。いま、写真を見ている。あまりにも急すぎて、告げられたときには何の反応もできなかったけれど、いまになってじわじわと喜びが溢れてくる』
『私の赤ちゃん』
 筆跡は震えた。恐れなのか歓喜なのかよくわからなかったけれど、涙が溢れて止まらなかった。
『私の赤ちゃん。誰にも渡すものか』
 強い決意で書き記した後、マリアは再起した。
 散らばった心の欠片を拾い集め、無理やり継ぎ接ぎしたような、不恰好でその場しのぎのものでしかなかったけれど、地を這うようにしながら、マリアは必死に自らを奮い立たせた。
『我が身と我が子を守るために、できることを考えよう』
『母は老いた。弟はまだ若い。私も未熟で、弱い。それでも私は二人を支えるべきなのだろうけれど、私にはもう、彼らよりも大事なものができた。彼らよりも脆弱で、まだこの世界のことを知らない存在が、私だけを頼りに生まれてくる。それを守らずに、他の何を守るというのだろう』
 少しずつ。本当に、少しずつ。自らの内側に、別の命が宿っているという実感が湧いてくる。その子を産み、ともに生きる未来を思い描く。それを手に入れるためなら、どんな手段をも厭わない。
『風が吹く。太陽が昇る。花が咲く。その当たり前のことを教える責任が、私にはある』
 かつて世界と自分に憤っていた頃のような熱はそのままに、冷笑的な部分は薄まり、したたかに、図太くなっていく。これまでの出来事はすべて、このときのための準備だったのだとすら思えた。無邪気な少女の顔、あけっぴろげな少年としての顔、優等生でもあり、品行の悪さを躊躇わない不良のような振る舞いをして、男を誘う仕草をすることもあれば、旧暦東洋の武士のような律儀さと頑なさで相手を見つめることもある。
 そのとき、その場所、相手の状況で、自らの表情と取るべき行動を決める。そうする自分に何の疑問も覚えない女性のことを、恐らく、悪女と呼ぶのだろう。学生時代、マリアをそう呼ぶ者たちがいることは知っていたけれど自覚はなかった。自分らしく振る舞っているだけで、誰かを利用したくてそうしているわけではなかったからだ。
 でも、いまは違う。マリアは、自分の行動や発言を計算して、望むものを手に入れようとしている。
 警備の人間からは同情を引いて、一人になる時間を作ってもらうこともあれば、世間話と称して外の世界の情報を聞き出した。医者には不安定な患者を装って、様々な薬を処方してもらい、手に入れた。看護師や療法士には、マリアには自宅療養以外の治療が必要だと感じてもらうために、言動に気を払った。数少ない、けれどマリアと外を繋ぐ縁となる人々に、可能な限り働きかけた。――自分だけの携帯端末を手に入れ、かつての友人たちに連絡を取り、脱出の算段をつけた。逃亡資金は、身の回りの品を知人に頼んで売却してもらって作った。逃亡後は手に入れた薬を売り払ってしばらく食いつなぐつもりだ。気を付けなければ、必ず足がつくし、厄介な存在に目を付けられかねない。
 身重のいまは、こうした準備しかできないけれど、お腹の子が無事に生まれれば後は母子一緒に逃げるだけ。いまだけ、少しの間だけ、耐える。

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