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 世界は回り続けているのに、どこまでも機械的で味気ない。だが、キヨツグはいままでこんな世界を生きて来たはずなのだ。
 それを変えたのは、たった一つの出会い。欲しいと思ってしまった、あの心を手に入れたがゆえに、あらゆるものは鮮やかさを持ち、温度を、感情を、強く感じられるようになった。
 失くしては生きていけない、そう思っていたにも関わらず、キヨツグはその欠損を当たり前のように抱え、日常を送っている。空腹を覚える己に呆れながらも、倒れては何も成せぬとわかっていたから、栄養を摂取するためだけに食事をした。
 そうして一ヶ月が経ち、春の終わり。季節柄、フラウ病の感染者数は減少傾向にあり、薬も徐々に行き渡り、ようやく対策が流行に追いついたという印象だ。小休止といったところだろうが、季節がわかって冷え込むようになると再び流行するだろうと、医局のリュウや都市の医師であるアンナが予想していた。抗体のために予防接種を普及していくことも大事だが、最も留意せねばならぬのは、重症化しやすい年寄りや幼子たちだ。専門病院を設置したものの、もう少し余裕を持って設備を整えた方がよかろう。
 病に倒れはしたものの、回復を遂げ、以前と変わらず政をし、さらには感染症対策や都市との交渉など行うキヨツグに、事情を知る者たちはますます畏敬の念を覚えたようだった。だがその本当の意味を理解している者は多くない。キヨツグの命を救い、自らを犠牲にしようとした尊い存在がいるのだとは。
 しかし、どれだけ能率的にことに当たろうと、どうしても時間は足りなくなる。睡眠時間は短くともよいが、眠らなければいずれ限界が来るのはわかりきったことだ。それに、キヨツグが長く仕事をしていると、付き合う者たちの限界が来てしまう。やむなく仕事を切り上げることもあり、この日は、それ以上進めることのできない案件ばかりだった。キヨツグは本日の執務の終了を言い渡し、部屋を出た。
 ずきん、とこめかみが引きつるように痛む。身体が休養を欲しているようだが、まだ横になりたくなかった。夜が長いと、夢を見る時間が長くなる。アマーリエの姿を幾度も見て、助けられないことに絶望させられてしまう。
 キヨツグはそのまま自室には戻らず、一人になりたいことを告げて、馬場に向かった。厩番に瞬水を連れ出す許可をもらい、あてどなく草原を駆ける。普通の青毛の馬に見える瞬水だが、他の動物の血が混じっていて、知的能力が高く、非常に体力がある。キヨツグの大雑把な扱いにも適応し、辛抱強く付き合ってくれる。
 生温い風を浴びながら何も考えずに走って、ふと気付いたとき、キヨツグは、都市の塔の光が見える丘に来ていた。
「…………」
 我ながら、と苦々しい気持ちになる。いまはまだ時機ではないと思いながらも、いますぐ都市へ飛んでいってアマーリエを攫いたいと無意識に考えているから、こんなところに来てしまう。たとえ、いまキヨツグが再びアマーリエを連れ戻そうとしても、あのときと状況が変わらなければ、彼女は決して都市から動くことはないのだ。
(諦めてしまえればよかったものを)
 愛情を失い、見捨てられれば、このように苦しまずに済む。だがそれは、キヨツグだけでなく、アマーリエとて同じだ。互いに思い切ることができぬゆえに、血と涙を流し、苦悩にのたうち回る。恋とは、かくも。
(焦るな。いましばし時間が必要だが、そのときはさほど遠くないはず)
 自らに言い聞かせながら、彼の地にいるアマーリエに語りかけ、キヨツグは王宮に戻った。
 そうして寝支度をし、寝殿に向かったところのだが、人の気配を感じて足を止めることになった。室内の明かりが、何者かの影を映し出している。
 ずく、ずく、とまたあの頭痛を覚えたまま、キヨツグは誰に知らせることもなく寝殿に踏み込み、音に身をすくませた女が次の瞬間叩頭するのを、冷めた目で見下ろした。
 長く伸ばした髪を下ろして寝間着をまとったしどけない姿。リリスにしては小柄だ。緊張しているのか突いた指が細かく震えている。そしてキヨツグがそれらを観察している間、ここにいる許しを請い、慈悲をくれということを長々とした麗句で説明している。
 これで何度目か。目の奥に突き刺すような痛みを覚える。キヨツグの回復を喜びつつも、本質を理解しない者は、こうして寝室に女たちを送り込んでくる。新しい妻を迎えろ、跡継ぎを儲けろと言って、このような愚かな真似を繰り返す。そして女たちは、揃いも揃って同じような内容を口上するのだ。
 キヨツグが一歩、大きく近付くと、それだけで女は黙った。
「顔を上げよ」
 女の身体が強張った。
「顔を上げろ、と言っている」
 意を決してキヨツグの命令に従ったその顔は、青を通り越して白い。息を止めている。さすがに、キヨツグが本気で怒っていることは感じ取れたようだ。
 どこか甘い顔立ちは、アマーリエを想起させる。この手の顔が好みだと思われているのが、ますます腹立たしい。
「手短に述べよ。何をしに来た」
「…………て……天様を……お慰めする、ために……」
 気圧された女が声を震わせる。己が恐怖を表に出していることに気付いたのだろう、はっとしたように面を伏せた。
「あなた様をお慕い申し上げております」
 思わず笑ってしまいそうになった。言葉を縺れさせて、取ってつけたように告げられても、何も響かない。ここまでして族長と同衾せねばならぬこの娘が哀れに思えるくらいだ。
 そう思うと、心がしんと静まり返った。表情も、感情も、常闇に消え去ったかのごとく消えていた。
「私が戻ってくる前に立ち去れ。さもなくば裸に剥いて騾馬に括り付ける」
 ひっ、と女が悲鳴を押し殺したが、キヨツグはその表情を確かめることなく、夜の闇に身を滑り込ませた。
 日が落ちた王宮の、外れた道を闊歩していれば、いくら族長であろうと巡回に見咎められるとわかっていたが、どうにでもなれ、と半ば投げやりに足を進める。豊かになりつつある庭木の緑の中を突き進むキヨツグを、夜の鳥たちが息を潜めて窺っている気配がする。彼らにはキヨツグの怒りが感じ取れるのだ。
 そうしてやって来たのは、神殿だ。突如訪れたキヨツグに、神官たちはわずかに動揺を見せたが、すぐに平静な調子で用向きを尋ねてくる。それに「用があるから来た」とだけ告げ、制止も聞かずに押し入った。
 室内には、ライカの仕事である記録が山と積まれていた。無礼を承知で目的のものを探す。部屋の主が就寝中ゆえ、部屋を荒らすのも同義だが、構わない。ライカは恐らく承知だろう。
 床にすべて放り出す勢いで書物の山を崩していけば、ようやく作り物の花びらを貼付けた一冊が見つかった。これだ、と表紙に触れる手が思いがけず震えていて、一度目を閉じ、息を吐いた。
 ライカの夢見る過去と現在と未来は、すべてこの冊子に記されているはず。ならば、キヨツグが望む展開と結末がここにある。それを確かめることで、周囲のわずらわしい甘言を振り払い、己が道を突き進もうと思ったのだ。
 表紙をめくり、文字を追おうとして。
「――――」
 絶句した衝撃で、書を取り落としてしまった。
 ばさりと広がったその頁は、白紙だった。
 記されていた内容の最後は、昨年までの出来事。続きは書かれていない。まるで、物語の終わりだ。ここから先、二人の物語は紡がれることはない。存在しないとでもいうかのようだった。波が打ち寄せるようにして絶望が近付いてくる。心を灰色に染め、大気を凍らせる。
 常ならば抗い、退けられるはずのそれは、アマーリエという存在を失ったキヨツグを容易く飲み込んでいった。

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