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 焦燥に駆られて周囲に視線を走らせると、部屋の隅にあった影が動いた。背の高い、髪を長く伸ばしている人影に、ああ、と声が漏れた。信じられないけれど、納得できた、我ながらそんな声だった。
「……マサキ……」
「よお」
 まるで街中ですれ違ったかのように、気安い挨拶だった。けれど彼の格好は一変していた。夏物の黒いシャツ、だぼっとしたボトムスに片手を突っ込み、もう片方の手を振るのに合わせてベルトから伸びるチェーンがちゃりちゃりと音を立てた。首元にはシルバーの大振りのネックレス。長い髪は緩く三つ編みにして肩に流し、光る瞳を隠すサングラスは胸のポケットに下げている。
 どこからどう見ても都市の若者でしかない。あまりにも堂に入った姿は、彼がここに潜入しているわけではなく、この街の文化の中で呼吸していると知らしめるものだった。
「どうしてるかなって様子見にきたんだけどさ。あんまり元気そうじゃねーなー。こっちのアマーリエの普段着ってそんなんなんだな。めちゃくちゃ新鮮でイイわ」
「……どうして?」
 遮ったつもりはなかったけれど、図らずもそうなった。
 マサキはふっと笑みを零し、アマーリエの目の前に跪く。
「約束、したじゃん」
 約束、と呟いて、彼と別れたときのことを思い出した。
 ――何かあったらすぐ呼べよ。いつでも駆けつける。
 息を飲んで両手で口元を覆い、込み上げるものを呑み下すアマーリエに、マサキは悪戯っ子の顔でくしゃりと笑った。
 社交辞令だと、思っていた。そんなことを可能にできるほど、彼の立場は軽くなかったし、アマーリエもまた気軽にわがままを言えるような関係になってはいけないと思っていた。けれど実際は、彼はいつの間にか都市にいて、アマーリエがここにいると知って、来てくれた。
「アマーリエのキモチ、聞きに来た」
 マサキは笑っている。そんな笑い方は初めて見た。優しい、大人びた、すべてを受け止めて包んでくれる、おおらかさが滲み出る笑顔だ。
「アマーリエがここにいたいって思うんなら、俺はずっと、お前のそばにいる。一緒に、この都市で生きる」
 アマーリエは言葉を失くす。それはあまりに。あまりにも。
「俺がいるなら、アマーリエは思い出を語れるし、知っている人の話もできるじゃん? 忘れないでいいし、懐かしんでもいいんだよ。俺が全部受け止める」
 視界が揺れる。それは、心が傾いだことを意味する。
 この場所では誰も知らない、あの近くて遠い国を、そこで生きる人々のことを、誰かと語ることができたなら。どんなに。
 マサキは微笑みのまま、そっと「でも」と言葉を紡ぐ。
「アマーリエが戻りたいって言うんなら、協力は惜しまない」
 どこに、とは言わなかった。何も言わずともマサキは知っているからだ。
 息を詰めて、何も見ないように、何物にも心を動かされないように顔を覆ったのに、マサキのその手を外された。彼の真摯な瞳がアマーリエを射抜く。
(……ごめんなさい)
 ごめんなさい、と誰ともなしに心が囁くのを聞いた。
 黒い瞳、懐かしい香り、優しい言葉を感じる度に、目の前にいる彼ではない別の人の姿がちらついてしまう。その罪悪感と悲しみで、顔が歪んだ。泣く資格なんて、一つもないというのに。
「……マサキは……私が弱っているときに、すぐに走ってきてくれるね……」
 いまにもこぼれ落ちそうになる涙を堪えて笑みを作ると、マサキは笑った。
「仕方ねえだろ。放っとけないんだから」
 そうしてふと、表情を消した。するりと伸ばされた腕を受け入れてしまったのは、彼に泣き顔を見せたくなかったからだった。呼吸、身動ぎ。あやすような鼓動。腕は強くしなやかで、温かくて涙が止まらなくなりそうだった。こうされることを望んでいたのに、相手はマサキでないことがひどく悲しく、申し訳なくて辛かった。
「アマーリエ……」
 熱っぽい囁きは彼の気持ちがまだこちらにあることを教える。
 彼なら、アマーリエの願いをも優しく受け止めてくれるだろう。愛した人のことを語るのを許してくれるに違いない。
「だめ」
 だからこそアマーリエは彼の胸を押し返した。甘えてはいけない。彼の好意にすがってはならない。
「だめだよ。選べるものはひとつしかない。そして私は、もう、選んだんだから」
 アマーリエの犠牲で大きなものを救えるのならそれを選ぶしか道はない。この都市のために、胎内にいる子どものために。
「……それが自分のキモチに背いていてもか?」
 冷たさすら感じる問いかけに首を振る。
「背いていないよ。助けられるものは助けたい、その思いに嘘はないから」
 背いてない、ともう一度、告げる。
 どれだけの願いや思いを抱いてもすべてが叶えられるわけではないというだけの話だ。すべての人を助けたい。愛した場所へ、彼のところへ戻りたい。子どもを愛したい、そして抱き締めたい。名前をつけてたくさん呼んでみたい。でも都市を見捨てたいとは思わない。気付かずに抱いている望みもきっとある。けれど選べるのはひとつだけ。
「マサキが来てくれたことはすごく嬉しい。でも、お願い。私のために生きるなんて言わないで。犠牲になろうとしないで」
「お前がそれを言うなよ」
 凍った声には怒りが込められていたけれど、聞こえなかったふりをする。
 いつの間にか部屋は真っ暗と言えるような闇に包まれていた。明かりをつけようとして、手を止める。家にいる人間にアマーリエがまだ眠っていると思わせた方が、マサキは安全に違いない。
「マサキ。どうして、ここにいるの?」
 いまさらな問いはマサキの隙を突いたらしく、一瞬黙った後「任務」と抑揚のない声で答えた。
「任務って、どういうこと?」
「リリス族に、機械に対する理解力と操作能力に適正があるのかっていう調査だよ。段階を踏んで少しずつ学習する人間を増やしていって、最終的に指導ができるようにする。まずは俺が適任だからってことで」
 アマーリエは笑みを浮かべた。
「よかった。それじゃあ、いまは機械が好きなことを隠さないでいいんだね」
「お前、話掏り替えんなよ」
 誤魔化し切ることはできなかったようだ。少しだけ照れ臭そうに言ったマサキの言葉に、アマーリエは曖昧な微笑みを浮かべた。苦い空気が漂う中、彼はアマーリエの右手を取ると、そっと口付けた。
「俺が側にいたいって心から思ってても、ダメか?」
 途方に暮れた、あるいは拗ねた子どものような問いかけだったから、アマーリエも真摯に答えた。
「マサキは、優しい。優しいから、私のせいでだめにしてしまう。そうなったら、私は私を許せない」
 痛いところを突いたのか、握る力が緩んだ。アマーリエは手を抜いて、触れられた手の甲をそっと押さえ、痛みにも似た温かさを胸に刻み付ける。
 空調が換気を開始し、ファンの回る音がかすかに聞こえてくる。その他にも、オーディオの電源が入っている気配や、端末機器をつなぐネットワークが発する光が、アマーリエの世界で静かに揺蕩う。こんなにも音が溢れていることをマサキはどう思っているのだろう。あの静寂が、数々の自然が奏でる優しい音色が、懐かしく感じられることはないのか。
「欲しいモノ、ある?」
 首を振る。彼に、そして自分に。いくら思っても、別の誰かに問いを投げても、望むのはこの感情と自分を肯定してくれることだけだから。
「欲しいものは、何もない。大丈夫。ここではなんでも揃うから」
 その言葉の意味するところを、マサキはどう受け取ったのだろう。少し冷たい手でアマーリエの頬に触れた。
「……思い知った」
「え?」
 微かな呟きを拾い損ねる。マサキはただ笑っていた。
「またな」
 一言残して、彼は扉を開けてどこかに行ってしまった。まるで夢のような去り方だった。しばらく夢見心地だったが、部屋の明かりを灯してようやく目が覚めた気がした。
 のろのろと立ち上がり、窓のカーテンを開ける。そこではいくつも立ち並ぶ黒い塔が無数の光を放っている。眩くも禍々しい、世界に穿たれた杭のような、あるいは空の高みに手が届くと誇示するような建造物。もし未来でこの街の物語を語るなら、世界を手にしたのはきっと。
「…………」
 だからアマーリエは、思い出という幸福な記憶に逃げ込むしかないのだ。そこに咲く花が、虚像と知りながら。


 リリス族は特徴的な目さえ隠すことができれば、長髪と高身長などものともせずにヒト族とその街に溶け込むことができる。その目も、覗き込まれたり、暗がりで見られたりしなければ、異種族とは気付かれない。
 こんな場所だとは思わなかった、というのが、実際に都市で暮らしたマサキの正直な感想だった。
 地上と地下で生育される豊富な食料によって、ヒト族の多くはさほど低身長でもなければ、脆弱でもない。さらには知能が低いわけでもない。生活のあらゆる側面で欠かせない機械やシステムによって統制された街は、便利で、素っ気なくて、なのに心地よい。一人でいいのだ、と思える。
 一方で、ひとたびシステム本体に大打撃を与えられたときの混乱は必須だが、それに対策を施していないわけではないようだ。都市政の危機管理対策マニュアルには最低限の備えを行なっていることが記されていた。
 どちらがよい、とは言えない。マサキはリリスという故郷を愛しているし、都市の一瞬たりとも停滞しない変化を面白いと感じている。
 だがこの都市に生まれ、リリスに輿入れしたアマーリエにとっては、生きている実感の薄い場所だったのだろうとも想像できた。大河の中に立っていて、その流れに身を任せることができずに焦り、怯え、必死に取り繕っていたであろう姿が目に浮かぶようだった。何故ならそれは、反転すればリリスにいるマサキと同じだったのだから。
 雑踏の中で急に立ち止まったマサキを、人々が一瞬迷惑そうに、けれどすぐに無関心になって通り過ぎていく。
「……思い知った」
 前髪を掻き上げながら呟いた。悔しさよりも羨望が優る。
『ひとつしか選べない』とアマーリエは言った。表向きは都市を選んでおきながら、心の中に揺るぎないものを一つ抱いている矛盾に彼女は気付いているのだろうか。
 自分はそれになれないと『思い知った』。
 幼い依存と言えばそうなのだろう。唯一と決めたものを変えることができない几帳面さと頑なさは、それが本物の感情に由来していることを意味する。
 それでも彼女が望むなら側にいるつもりだった。そしてそう申し出たことは慰めにはなっても癒しにはならないと『思い知った』。
(……望むなら)
 なんだってするだろう。犠牲になるのではない、叶えるべく差し出すのだ。そうすることが自身の喜びに繋がる。
 それを罪と思う必要はないのに、アマーリエはだめだと首を振る。
「アマーリエは、わかってない」
 都市に乗り込むという無謀な命令も、それを完遂すべくネットワークに侵入し、一時的にコレット家のすべてのシステムを切ったのも、彼女のためであり自分自身のためでもあるのだ。キヨツグだってそれは同じ。
 望めばいいのだ。望めばいいのに。
 けれどそれをしないから、マサキもキヨツグも胸の痛みに耐えて瞑目するしかないのだ。

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