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 最後に登場したのは、箸休めにも締めにもなる果実の甘羹だったが、それを持ってきたのもまた、普段なら絶対に配膳などしない人物だ。
「これはこれは。カリヤ長老が手ずからお運びくださるとは。それは他の者に任せて、こちらに座って。さあ、一杯やりましょう」
 表情を少しも動かさず、カリヤはリオンに引きずられて腰を下ろした。誰に言われたかなど、想像しなくてもわかる。カリヤが唯一甘いのは己の妻のみだからだ。
 床に座って四人で酒を囲んでいると、ふと、幼い頃に過ごした養家を思い出した。遊牧の氏族である彼らの家では、こうして絨毯の上で食事をしたものだった。家族や友人と火を囲み、美味いものを食べる。と言っても、惰性的に杯を重ねるキヨツグは、酒を味わうどころか、早く時間が過ぎてしまえと思っていた。
 キヨツグと思いを同じくするカリヤは、誰にも絡まず酒を飲んでいる。医者要らずのリオンは、医局の人間とほとんど関わりがないせいか、年若い医官であるシキに関心を抱いているらしく、個人的な話をかなり突っ込んで聞いていた。
 医局長とそれに比肩する医官の間に生まれたシキは、特になんのこだわりもなく、幼少時から医師になろうと考えていたという。父母が扱う植物や道具が薬を生み出すのを面白いと感じたのだそうだ。しかし目指すからには生半可なことでは許さないと、両親の指導は厳しかったと笑う。
「ふうん、似ているのに、まるで違うなあ」
 リオンが思わせぶりに笑うが、気にしない。聞き流せばただの独り言だ。
「似ているなんて、そんな、恐れ多い。立場の重さも重圧も何もかも違いますよ」
 比べられたシキが慌てたように首を振るが、似ている部分はある、とぼんやり考えた。
 生まれながらにして族長となることが決まっていたキヨツグは、シキとは異なり、特に面白さや発見をすることなく、なるべくして族長になった。長の位をいただくからには、果たすべき義務があり、仕事がある。それを効率的に処理していく毎日だった。そこまで考えて、その単調だった日々を彩った彼女の存在を否応にも思い出し、酒が苦くなる。まんまとリオンの策略にはまっていた。
「…………」
 しかも酔っているせいか、思考に歯止めが効かない。酒が苦手だったことや、それを代わりに飲んだ婚姻の儀、その夜のことなどを手繰るように思い出してしまい、沸き起こる感情が激しい目眩となって現れた。
「天様、どうなさいました? そろそろ限界ですか?」
 うるさい、と思ったが口に出したかどうかわからない。
「しっかりしてください。強がるなら、最後まで強がってもらわないと。立場を放棄して勝手をしておいて、なんの成果もなく、仕事に逃げて周囲に当たる。なんとまあ無様なこと」
 リオンが嗜虐的な薄笑いを浮かべて、キヨツグをこれでもかと嬲る。
「真殿がいなくなってどのくらい経ちますか?」
 頭の中で暦を繰る。アマーリエがフラウ病に倒れて都市に運ばれたときから換算すると、もう十ヶ月近い。
 言葉にはしなかったが、リオンはまるで回答を聞きつけたようにキヨツグの襟を掴むと、低い声で言い放った。
「その間、あなたは何をしていた?」
 沸点が来たかのように、怒りを燃やしたリオンが怒涛のようにまくしたてる。
「政務をしていた? ああ結構! あなたは采配を振るうことに関しては素晴らしい手腕の持ち主ですよ。あなたが戻ってきたおかげでリリスが守られたと言っても過言ではないでしょうね。この広大な草原を、他の種族に取り込まれることなく統治している。あなたが族長になってから、リリスは活気付いた。前族長の頃から育てていた次世代が、次々に活躍の場を与えられている。しかも先の命山の宣言が、ますます民を鼓舞させ、あなたに尊敬を集めることとなった。ええ、感謝していますよ。私も民の一人。あなたのおかげで才を見出され、ただ王宮に暮らした後どこかの名家や降嫁させられることもなく、自由という場所をくださったのですからね!」
 言葉を浴びせかけられて思ったのは、こんなに喋る女だったのか、ということだった。
「……お前は私を嫌っていると思っていた」
 嫌味ながらも、主張のほとんどはキヨツグの功績を認めるものだった。評価されているとは知らなかった、というつもりで言ったのだが、リオンはひくりとこめかみを引きつらせる。
「……ええ。ええ嫌いですよ、大嫌いだ!」
 掴んだ襟をぎりぎりと引き絞り、リオンは叫ぶ。
「嫌わずにいられると思いますか? あなたはよく出来すぎた人間だった。誰にも媚びず、平等で、誰に対しても冷静な判断を下し、誰にも自分の心を預けることはなかった。その必要もないほど、あなたは完璧だった。だから嫌いでした。身内の私ですら、将軍という地位を与えられたのは、父上の実子を遠ざけるためではなく、私自身の価値を見出されてのことだとわかった。一方で、きっと私がリリスに仇なすなら簡単に切り捨てるのだろうということも」
 ならばさぞかし落胆したことだろう。キヨツグは先ほど、臣下を一人、私情で処罰したのだから。
「誰も愛さなかった。心を与えることも、誰かに自らを許すこともしなかった。――そんなあなたが、彼女と夫婦になってからは多少ましな人間になったというのに」
 怒りが極まったらしく、リオンはキヨツグを突き飛ばした。
「あなたは愚かだ。胸が痛いでしょう? それはあなたが彼女に与えた心が痛むからです。あなたが彼女を愛しているからだと、何故理解しないのか!」
 リオンは言いたいことを好き放題言って、乱暴に座り直すと手酌で飲み始めた。空気のように控えていたシキがそっと差し出した塩漬けの魚を奪い取り、引きちぎるように咀嚼する。その一連の風景を眺めているキヨツグに、シキは苦く淡い笑みを浮かべた。
「真様を愛していたのは、みんな同じなんですね」
 愛していた。否、違う。
 いまもなお、愛している。夜の水面のような髪。淡い色の瞳。甘い香りをまとい、柔らかな声で話す。穏やかながら、初めて見聞きするものを新鮮に受け止め、知らぬものを理解しようと努力する、数多の表情と仕草。
「……恋をした」
 呟きは、途方に暮れていた。
「……恋したから涙が出るのだと、あれは言った。それは、いつか失うことを知っていたからだと思った」
 それがまさか、こんなに早く別たれるなどと、誰が思っただろう。そして最も罪が重いのは、たとえそうなったとしてもアマーリエを思い、忘れず、生きていくだろうと甘い考えを抱いていたキヨツグなのだった。アマーリエが本能で感じていたそのときの悲しみを、辛さを、まったく理解できていなかった。
 少しずつ、蕾を綻ばせて、花が咲く。美しく誇らしげに。だがそれがやがて失われているとわかると、そこに途方もない暗闇が広がっていることを知る。
 いなくなる。失われる。消えてしまう。命は、記憶は。永遠などどこにもないことを、誰よりも知っているはずだったのに、身が引き裂かれそうだった。叫び出したくなった。怒りに吠え、何もかも壊して回りたくなる。すべてを呪っても、まだ足りない。何故、世界が邪魔をする。時間が、運命が、物語がある? 何者かに定められた、避けようのない喪失を、どうすれば超えていけるのか。
「いま、失われていることを最も恐れているのは、私だ……」
 何故アマーリエは言わなかったのか。全身で、側にいてほしい、どこにも行くなと訴えているのに、誰も束縛しなかった。耐えて、心臓から血を流し、痛みと震えを堪えて微笑むだけだった。それが正しいと信じている頑なさを、愛おしくも憎らしく思う。
 一言でよかった。望みを一つ、口にするだけで、キヨツグはなんとしてもそれを叶えただろう。
(一言、『助けてほしい』と言えば、私は)
 しかしアマーリエは己が追い詰められた最後の瞬間まで、キヨツグに何も望まなかった。
 ゆえに思ってしまったのだ。そこまでの思いだったのか。見守ってきたはずが、ここに来ても己が望みを口にできないアマーリエを、この先どのように導けばいいのかわからなくなってしまった。キヨツグと別れること、それが本当の願いなのかと疑った。そうして、キヨツグはいま一人、恐れと後悔の上でのたうちまわっている。
 お腹の子が、じきにこの世に生を受ける。
 会いたい、と思う。会いたいと渇望する。その尊い存在を、彼女諸共抱きしめられたらどんなにか幸福だろう。
「……真様のお気持ちを代弁するのは、とても恐れ多いことですけれど」
 そう前置きして、シキは瞑目した。
「あの方は、美しい別れ方を望んでいらっしゃいました。ご自分にも天様にも傷を残さないで済む別れを望んで、傷が浅いうちに、と考えたのだと思います。思いが深まるばかりで、きっとこのままでは天様を失っては生きていけなくなると思ったのではないでしょうか」
 哀惜の下にこぼれ落ちたそれは、キヨツグの胸をまた締め上げた。そう、アマーリエが考えそうなことだった。そんなことをしても、心に出現した空虚は疼いて痛むだけなのに、時が過ぎればいずれ消えると思い込んでいる。けれどそれよりも早く心がばらばらになることだろう。
「あなたには方法がある」
 リオンが指を突きつける。
「あなたはリリス、リリスはあなただ。あなたが妻と決めたヒト族の娘は、リリス族すべての花嫁も同然。すべての氏族に号令を出し、一族全員を動かして、真殿を取り戻しなさい」
 それができればどんなにかいいだろう。戦も辞さぬ覚悟で臨めば、可能になることではある。
「真が望まぬ」
 戦を厭って、同盟のために身を差し出した娘が、そうして助けられて喜ぶとは思えない。
 だがそういった強硬な手段を取らねば、何も変わらぬともわかっていた。
 もしリオンの策を実行するとすれば、と考える。
(一族内での反発は必至。いつかのように命山の宣言があったとしても、特別扱いを続ければあちらの威光が薄れる。族長位を返上するか、相応の見返りを準備せねば、誰も動くまい。動くに至る根拠、動かずにはいられない理由があれば良い)
 そのために何をするべきか、ぼんやり浮かんだが、首を振った。
「真は、戻らぬと言うやもしれぬ」
 そうなれば何もかも無為に終わる。それは避けたい、その弱腰が声に表れて、なんとも情けない台詞になった。
 一同が沈黙する中、それまでまったく気配を消していたカリヤが動いた。どん、と杯を置いたかと思うと、真顔で吐き捨てる。
「この、へたれ」
 そうして立ち上がり、苛立ちの滲む歩き方で部屋を出て行った。足元が少しふらついていたので、多少酔っていたのだろうが、残された者のうち、シキは逆に酔いが覚めた真っ青な顔で、どうすればいいのだろうと焦った様子だった。
「て、天様! カリヤ長老は酔っておられて、その、決して天様を侮辱するつもりはなかったかと……!」
 そう言われて、あれが罵倒だと気付いたキヨツグだった。
 へたれ、とは、『へたばる』からきた言葉だろうか。とすると、弱ったもの、情けないなどという意味辺りだろう。すなわち悪口だ。
「……初めて面と向かって悪口を言われた」
 静かな余韻に浸っていたが、噴き出したリオンが遠慮なく大笑いを始めたので、硬直していた空気が一気に緩んだ。シキはどうしていいのかわからない、雰囲気としては笑っていいだろうかという控えめで微妙な顔をしている。
「ははは! さすがカリヤだ、よく言った! 『へたれ』か、今度から私も使ってやろう!」
 よほどその悪口がキヨツグに相応しかったのだろう。リオンはいつまでも笑っている。
(そうだな。その通りだ)
 そう思ったとき、キヨツグの胸の奥にあった氷が、凍て解けていくのを感じた。リオンたちにはわからないまでも、唇の端にかすかな笑みが乗るのを自覚する。
 へたれ、へたれ族長などと言いながらリオンがさらに勧める酒を断り、シキには自室に戻ることを告げて、キヨツグはふらりと外に出た。北門の門番はキヨツグの出現に驚いていたが、少し出ると告げると黙って門を開けた。
 草原は冬の訪れを受け、夜の深さに冷気が合わさり、ますます闇と星々を色濃く、眩くする。
 は、と熱い息を吐く。白い息は、風にいつかの薄絹を思い出させた。
 舞い上がったそれと、箱から転がり落ちるように現れた異国の装束を纏った花嫁。
 噛み締めていた唇に指で触れた。花弁に似た柔らかさと熱。
 この場所で、ともに虹を見た。
 何度も思い出すことで記憶に留めることができている、アマーリエのあの姿。
 そのとき覚えた感情は、いまでもはっきりと思い出すことができる。
 そして、暮れなずむ朱色の空を、虹の掛かる空を二人で見たことの幸福を、いまさらながらに思う。美しいものをひとり見る孤独は辛かろう。ゆえに共有する喜びはなにものにも代え難い。
 痛みと幸福を与えるそれらの記憶は、確かにキヨツグを弱く情けない存在に変えた。恐怖や怯えで足が止まり、迷いが生まれた。けれどこのとき、キヨツグは強さを持たぬ者たちの、多くの苦しみと後悔を理解したのだった。
 恋は、人を強くもするが弱くもすることを、アマーリエは知っているだろうか。
(会いたい)
 望まれずとも、会いに行こう。戻らぬと言われても奪ってしまえばいい。それでも愛される自信がキヨツグにはある。
(――終わりではない)
 決して、ここで終わらせない。続きを記す、そのためにいまから行動する。
 翌日、裁可が必要なものをすべて片付けて、リオンに留守を頼み、キヨツグは命山に向かった。アマーリエに会う、それを実現させるために、手に入れなければならないものがそこにあった。
 終わりではない、ともう一度胸のうちで呟く。
 心に咲くこの花を、終わらせたりはしない。

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