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 写真の中で、二十歳のマリア・マリサが笑っている。雑誌にも掲載されたスナップは、彼女の無邪気で明るい笑顔を引き出し、知性ある瞳が輝く瞬間を見事納めていた。市長室の机に飾られたそれは、変わらぬ美しさ、勝気さ、華やかな笑顔を、いつまでもいつまでもジョージに与え、見つめる度にその唇で囁きかけてくる。
 ――父さん。
(違う)
 はっと首を振った。何故アマーリエの声が浮かんだのだろう。
 確かに、同じように十九歳でジョージの元を去った娘ではある。美しさの向きや気質は異なるが、似た顔立ちをしている――していたはずだった。
 だがアマーリエが戻ってきたとき、顔つきや雰囲気が変わったと感じたのも本当だった。
 理由は明らかだった。異種族リリスとの結婚、それがアマーリエを変えたのだ。都市の政策とはいえ、やはり娘を手放すべきではなかった。真実を伏せたままでこんな状況なら、本来の任務を告げていたら心を壊していたかもしれない。直前で握り潰してよかった。
(心優しいアマーリエのことだ。刺客の役目を果たそうとするうちに、情が湧いて何もできなくなっていたに違いない)
 リリス族の驚異的な寿命と身体能力、そして広大な草原。それらを、ヒト族は長年欲してきた。手に入れられないのならば隷属させるか殲滅させるしかないと考え、戦争を続けてきた歴史があることは少し調べれば類推できる。そしてジョージが市長である現代、医化学の分野はようやく、歴代の為政者たちが望むレベルに近いところまで来たようだ。
 リリス族の能力を手に入れるための研究を行うには、実験体が必要だ。古くは拉致してきたこともあったようだが、境界守たちが目を光らせるようになったせいでいまではほとんど行われなくなった。研究を進めたい科学者たちもそれを指示する権力者たちも、喉から手が出るほど素材が欲しかった。
 リリス族の生態を調査し、彼らの細胞組織を採取する。その使命を花嫁――結果的にアマーリエが帯びるはずだったのだ。
 だがそんなことをして、もしリリス族に気取られればアマーリエの身が危ない。だからジョージは、アマーリエにそのことを告げなかった。いつか戻ってこられるから、と励ましただけだった。
 だが運が味方をして、リリス族長とそのお付きたちが都市に訪問したことで、長らく欲していた素材は十分採集できた。研究の段階で偶発的に誕生した細菌兵器は、試しにモルグ族にばらまかれた。特効薬もすでに完成していて、これを盾に強請ればいいのだ、と言ったのはどの都市の市長だったか。
 だが反対論を唱えなかったジョージも同罪だ。リリス族に感染が広がったことを口実に、アマーリエを連れ戻せると考えたのだから。
 ジョージは端末のモニターを見つめ、だが集中できない自分に気付いて、椅子に深く身を預けた。時刻は十一時。昼休みのチャイムまであと一時間。アマーリエは今頃、昼食前にうとうとしているところだろうか。睡眠不足なのに薬を飲めない状況で、心身にかなり負担がかかっているようだ。ゆっくり休ませてやりたいが、そうもいかないのが辛いところだ。
 秋の頃だった。アマーリエが市民病院の集中治療室にいると連絡を受けた。一人で外出したのはどういうわけかと考えていたら、大学の友人たちが共謀して、アマーリエを連れ出そうと算段していたらしい。それも、市職員であるビアンカ・トートに協力を仰いで、市長の指示だと言って警備配置を移動させたという。無力な少女たちだから無害だと思っていたのに、予想外だった。
 だが彼女たちも想像しなかった。迎えを寄越すまでの間に、アマーリエが家を抜け出し、その先で意識不明に陥り、病院に運び込まれるなどとは、誰にも予想がつかなかっただろう。
 ジョージが集中治療室に駆けつけると、彼女たちの誰もが青ざめた顔をしていた。気丈に挨拶と謝罪をしたのが二人。後の二人はお互いの手を握り締め、内一人は化粧が落ちるほどに泣いて、許しを請うた。そうしてビアンカから事情を聞いたのだ。
(あの子を守れるのは私だけだ)
 それぞれにふさわしい処罰を与えながら、ジョージはその思いを強くした。
 悲劇的な結末から遠ざけ、幸せにすることができる、それだけの力を持っているし、その自信がある。上下水道もろくに整っていないような場所ばかりのリリスより、都市は安全面でも快適さでも優っている。アマーリエの好きな本だっていくらでも読めるし、発行されている。化学的ではあるが食べ物だって豊富だ。
 だから、あんな顔をして笑ってはいけない。
 自らが切り刻んだ写真は、未だジョージの脳裏に鮮明だ。半年前、マスメディアがこぞって書きたてた『世紀の恋』、リリス族長と都市の娘の一枚を象徴するもの。抱き上げられたアマーリエが幸せそうな眼差しをキヨツグに向けている。
 それを見て最初に感じた怒りと憎しみも、未だ燻っている。
 いつの間にか握りしめていた拳を解き、組んだ手を額に当てて深く息を吐く。
(……マリア。あなたの目論見通りだよ)
 最期の瞳、こちらを憐れみ、軽蔑する視線がつけた傷。それはジョージを一生痛めつける。許してほしい、許してほしい、愛しているから。そう伝えたいのに彼女はもうこの世のどこにもいない。何一つ奪う気はなかったと、釈明することもできない。
 彼女と彼女が夫と呼ぶ男の仲を引き裂いたのはジョージだ。だが、普通はそうする。上流階級で生まれ育ったマリアが、一般市民の男と暮らしていて、不自由を感じなかったはずがない。最初は楽しめたそれも、いずれ不和の原因と成り果てるだろう。高い教養を持つ者として、向上や変化を求めないわけがない。令嬢や悪女になれても、ただ『夫を支える妻』の役割は、マリアには絶対できなかった。ジョージはそう確信している。だから彼女の幸せが崩壊する前に迎えに行っただけなのだ。
(全部言い訳だ、後付けだってあなたは言うだろう。そうかもしれない。でもすべてあなたのためだったのは本当なんだ。あなたの幸せだけを願って、そうすることができるのは私だけだと思っていたんだよ……)
 もし彼女が生きていたら、いつか理解してくれたかもしれない。その想像がジョージを慰め、マリアによく似たアマーリエを守ることで、ひび割れた心をなんとか生かすことができている。
 ――なのに、どうして心の渇きは止まないのだろう?
 問う声を掻き消すように内線が鳴った。
 るるる、るるるるる、と市庁舎の最上階で響くそれは、不吉なほど、やけに大きく聞こえた。一瞬、これが疑問に答えてくれるのではないかと思ったせいか、受話器を上げる手は慎重になった。
 音声は、ひどくざわついている。無数の人間の声と叫びが飛び交っているようだ。内線番号は市民課の課長に割り振られたものになっている。
『し、市長……!』
「どうした?」
 市民課長が焦りのあまりしどろもどろになる後ろで、電話がひっきりなしに鳴っているのも聞こえていた。怒声も、一人ではない。複数人が声を上げている。窓口に詰め寄っているのだろうか。それらの喧騒を、風の音しか聞こえない市長室で聞いたジョージは、みるみる険しい顔になり、部屋に備え付けられているテレビを点けた。
 昼中に流れているワイドショーが、突然緊迫感に包まれる。司会者が、スタジオ内のスタッフが示した文面を読み上げようと大きく身を乗り出した。
『ええと? 速報ですか。当番組が独自に入手した情報によりますと、リリス族とモルグ族の連合軍と思われる集団が第二都市に向かっており……』
『て、テレビよりもネット上での情報が早かったようで、それを見た市民が窓口に集まっています! どういうことなんだと問い合わせが殺到していて……』
「後で連絡する」
 慌てふためく課長を一言で黙らせて内線を切ると、再び鳴り出す。かける必要もなく、異種族交流課からの連絡だった。
「モーガン、どうなっている」
『申し訳ありません! こ、こここちらもやっと状況を把握したところで! せ、宣戦布告が』
「リリス族からか?」
『いえあの、いえ、ええと……て、転送します、メールです』
 メールソフトを立ち上げると、間もなく受信した。
 リリス族及びモルグ族は、ヒト族の卑劣な行為に断固抗議する。したがっては使者を立て、交渉の場である境界に参られたし。なお使者はアマーリエ・エリカ・コレット・シェンとその子どもを指名する。そういう内容だ。
「メールで宣戦布告とは聞いたことがないな」
 秘書あたりが顔を覗かせたら、ジョージが凄まじく怒っていることがわかっただろうが、残念ながら電話越しにはただ皮肉っぽい冗談を言っているようにしか聞こえなかったようだ。モーガンの引きつった追従の笑い声に苛立ちを覚えた。
 ふと、予感を覚えて文面の一部をネットワークで検索する。すると、すでにサーチエンジンが捕捉していた。市民たちの九割が利用しているコミュニティ・サービス上に、宣戦布告と同じ文面が分割されて投稿されている。日時は今日の朝。ツリーには最初揶揄の書き込みが連なっていたが、ジョージが見ている間にどんどんこれを本物だと断定する投稿が増えていく。
「コミュニティ・サービスに宣戦布告を投稿しているアカウントがある。追跡しろ。それから国境防衛隊に連絡を取り、境界を封鎖するように。落ち着きたまえ、モーガン課長代理。君なら対処できる」
 犬を躾けるように言い聞かせ、返事を聞いて受話器を置いた。すぐ外線に切り替え、第一都市市長室へ繋ぐ。ぷち、と音がして接続した直後に聞こえてきたのは、ジョージを笑う声だった。
『やあ、ジョージ。とんだ騒ぎだな』
「ああ、腕が鳴るよ。だからボードウィン、全市長会議の要請でもって、緊急事態を宣言する」
 夕食を誘うかのように日時を告げて通話を終える。その後は関係各所と短い話し合いを終えて、市庁舎から全職員へ通達を行い、その後、都市と全市民に向けて宣言が公布された。
 交渉は三日後。先方の指名に加え、全市長と異種族交流課の上役たちが境界に集うこととなった。
 その日から全都市は、リアルもネットも「戦争が始まる」という声に塗り潰され、多くの憶測と流言飛語が飛び交い、大小の言い争いが頻発するようになった。情報流出と思われるものもあったが、やがてそれは一つの意見に収束されていく。
 リリス族とモルグ族の要求を飲め。それが意味することに、多くの者が気付かずに。

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