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「発言してもいいかな? 私はボードウィン、第一都市の市長だ」
 公人のふりをして多分に私情が入ったやり取りをしていたキヨツグとジョージは、手をひらりとさせたボードウィンを見た。にこやかにしているが、目の奥は笑っていない。ジョージ以上に厄介な相手だ、と直感する。
「双方の言い分はわかった。その上で落としどころを見つけるべきだと思うのだが……ジョージ?」
「……コレット氏を渡すことはできないが、リリス族の後継問題を解決するために彼女の子どもを渡す、というのはどうだろうか」
 苦々しい顔でジョージが言ったそれが、都市側があらかじめ設定してあった譲歩なのだった。交渉するとしても、二人は渡せない、どちらか一方だというのが落としどころだろう。リリス族の長老たちも同じ考えだった。一方を選ぶなら、命山の貴人の血を引くキヨツグの子を。
 だがキヨツグは、アマーリエが我が子を強く抱きしめるところを見てしまった。
「却下だ」
 私的な発言を繰り返すキヨツグの前に、微笑みの裏で苛立ちを最高潮に極めたカリヤが割って入ろうとするが、次の瞬間無の顔で動きを止めた。ボードウィンも真顔になり、ジョージはわずかに息を飲んだ。
「聞こえなかったならもう一度言う。その提案は却下する。彼女とその子の双方を渡せ。さもなくば開戦だ」
 カリヤは辛うじて怒声を殺したものの、煮え立つような目でキヨツグを見ている。馬鹿なことを言ったのはわかっている。だがどうしても譲れないものがあるだけなのだ。
 アマーリエを愛している。ならば、彼女から何かを奪ってはいけない。ましてや、腹を痛めて産んだ子だ。彼女が子どもを望んでいたことをキヨツグは知っている。その望みが義務感に由来するものであっても、離れたくないと震える手で子を抱く妻に、それを奪うような真似はできないし、してはならない。
 そのとき初めて、キヨツグとアマーリエの視線が交差した。泣き濡れた目で気丈に涙を堪えながら、唇を震わせている。さあ、言え。瞳の奥にある心に訴えかける。言え。口を開き、涙を流せばいい。その心をすくい取る準備がキヨツグにはある。
「ふむ、なるほど。それがリリス族の回答か。ならば、アマーリエ・エリカ・コレットさん、君の意見も聞かせてもらっていいかな?」
 微笑みを浮かべるボードウィンを、アマーリエは一瞬怯えた目で見た。そうして再びキヨツグに向き合ったとき、涙の気配は払拭され、何者かによって作り上げられた『都市の少女』の顔になっていた。
「私は、行けません」
 上擦りそうになった語尾を正すように、彼女は一度息を飲み下す。
「新型感染症の予防薬の開発のために、協力を要請されています。ヒト族だけでなく、リリス族やモルグ族、多くの人たちを助けるために、私に出来ることがある。だから、都市に残ります」
 そうして腕の中の赤子を揺らす。
「その代わり、この子を預けます。男の子です。コウセツと名付けました。……虹の雪と、書きます」
「あぅ、ああぅー」
 それまで静かだった赤子が、不意に声を上げ、包みの中から小さな手を母に差し伸べた。アマーリエは声を詰まらせ、我が子に悲しげな微笑みを向ける。
「……この子には、まだ戸籍がありません。混血の子なので検査をしたところ、ヒト族にはない長寿の持ち主である可能性が高いのだそうです」
 見上げた瞳は、それでも幸福を願う母親のものとして揺るぎなかった。
「リリス族として育ててあげてください」
「それはお前と私の役目だ。リリスでその子が育つなら、傍らにお前がいなければならない」
 その方が幸せになれる、という確信に満ちた言葉を、キヨツグは受け止めつつも拒絶する。市長たちにそう主張するように教え込まれた台詞を、それを口にする苦しみとともにはね除けられたアマーリエは、それ以上何かを言う気力を失っていく。
「どうして、そこまで」
 ゆえに、漏れた呟きは途方に暮れていた。
 価値がない、と思っている。己にそこまでされる理由がない。世界と自身を天秤にかけたとき、重いのはいつだって世界で、選ばれるのもまたそうだ。それは確かに事実であり、真理である。
「愛しているからだ」
 キヨツグが口にしたそれもまた、真実である。
 理解し難い、という顔を、アマーリエは、した。
「私が残ることで、リリス族は都市に恩を売れる。これからの外交を有利にできるはずです。都市も、次の族長になるかもしれないこの子の母親を無下に扱うことはないでしょう。何かあったとしても、大丈夫です。もし私がリリス族を脅かすものになったら、そのときは」
 それは、もし人質と扱われたときには、自らを手にかける、という宣言だった。
「私は、リリスにはなれなかった。だから大人しく元いた場所に戻ります」
 アマーリエの透明な微笑みに、キヨツグは目の眩む思いがした。視界が赤く染まったかと思うくらい、全身が怒りの熱で沸騰していた。なのに青ざめるかと思うくらい血の気が引き、頭の奥が冷たく凍る。
「この――大馬鹿者!!」
 怒声が迸った。
 キヨツグの感情だけの怒鳴り声に、アマーリエは白い顔で硬直していた。怒りで我を忘れたキヨツグからは気遣いや体面というものが吹き飛んでいた。拳を握りしめていないと手を上げていたかもしれない。慈しんできたことを一度捨て置かなければならない。そうしなければ、これからもアマーリエは過ちを犯す。真の望みを言えないままになる。
 目を釣り上げてアマーリエの肩を勢いよく掴む。
「っあ」
「アマーリエ! リリス族長、何を」
 キヨツグを引き剥がそうとしたジョージは、素早く滑り込んできたヨウ将軍のにこやかな笑顔に阻まれた。同時に、草を踏んでやってきたアンナが彼の前に立ち塞がる。
「お前はいつもそうだ。すべて一人で抱え込もうとする。心配をかけてはならない、己で成し遂げなければならない、助けてもらえる価値がないと思い込んで生きている!」
 助けてほしい、手を貸してほしい、掬い上げてほしいと思っているのに、涙を浮かべることすら恥じ入るように笑って「大丈夫」とアマーリエは言う。何をしてほしい、何が欲しいと尋ねても、曖昧な笑みで「何もない」と答える。
 自立と言えば聞こえはいい。だが実態は、己の望みすら口にできない、口にしたとしても叶えられなかった哀れな子どもがいるだけだ。
「それが、どんなに苦しんで見えるのか知らずに」
 先ほど目にしたばかりのそれを思い出したキヨツグの眦が震えた。
「わかっているのか、周囲が、大切な者に何もしてやれないときに感じる苦しみを。差し伸べた手を跳ね除けられた悲しみを!」
 心を押し殺して微笑むことができるその強さは、厳しすぎ、寂しすぎた。見る者を、キヨツグを、無残に傷付けた。呆然と聞いているアマーリエは、やはりわかってはいなかったのだと悟る。
 理解(わか)れ、というのも酷な話だろう。何故ならそれが当たり前だった幼少期を過ごしてきたのだから。だが他人の優しさに気付かず、助けようと伸ばされた手をやんわりと遠ざけるのは、傲慢で残酷な行為だと思う。誰も、一人では生きていけない。心臓はひとりでに動くが、心は一人では動かない。響かない。
 女神と始祖さえ二人で一対。一人で生きていくことは、余程強くなければ不可能だ。
 キヨツグが手を離すと、アマーリエは支えを失ったかのようによろめいた。いまにも膝を突きそうだったが、子を抱えた母親の誇りがそれを留める。踏みしめた足はそれでも、か弱く震えていた。
「私は、諦めぬ。我が妻、そして我が子を」
 アマーリエを見つめながら、背後にいるリリス族一同に告げる。
「このままではこちらが望むものを手に入れぬことはできぬ。交渉は決裂したと判断する。控えているリリスの全氏族に伝えろ。――これより進撃を開始する」
「なっ!?」
「リリス族長!」
「せ、戦争が」
 色をなくした市長たちの声を振り払い、背を向けた。
 キヨツグの眼差しを受けて、カリヤは苦々しくも首肯し、ヨウ将軍とユメは伝令を差し向けるために動き出す。致し方あるまいという表情があるのは、キヨツグが族長だからだ。公平性を欠いても、暴君であっても、命山に認められた長に、彼らは逆らえない。
「…………めて……」
 背後ではキヨツグを引き止め、交渉を再開しようと市長たちが声を上げている。中にはジョージを責める声もあった。黙し、これからのことを思案する市長や市職員もいる。
「止めて――!」
 アマーリエの叫び声が、響き渡った。

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