―― 第 1 章
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 スクリーンに映し出されていた映像が終了すると、暗幕を閉ざしていた教室は暗闇に包まれた。
 数秒後、蛍光灯が一斉に灯る。教授が教壇の内側に備え付けられている装置に触れたのだった。その明るさに後部の席に陣取って居眠りをしていた学生も、途中でうたた寝していた学生もしまったという顔を上げる。眠気に屈することのなかったごく一部の学生だけが、白い用紙を取り上げる教授をごく自然に目で追っていた。
「……では、今日の授業の感想を今から配る用紙に書いて提出して、出席とします。内容がないものは評価しないので、きちんと記入するように」
 大雑把にわけられた出席表代わりの用紙を受け取った学生は、それを後ろへ順繰りに回していく。教室半ばの後ろ寄りの席でスライドを見ていたアマーリエの元にそれが来る前に、背中を指先で突かれた。基礎ゼミが一緒だった同級生が困った顔で笑っている。
「どうしたの?」
「へへ、全部寝ちゃってた。今日なにやった? いまからなにするの?」
「いまから今日の授業の感想を書いて提出。今日やったのは教科書百五十二ページ周辺の、動物の進化の過程と、ヒト、リリス、モルグ三種族の遺伝子関連性について、だよ」
 ごめんと苦笑する友人に笑みを返したとき、前の席にいる学生が用紙を手に迷惑そうな顔で振り向いたところだった。慌てて「ごめんなさい」と謝って用紙を受け取り、後ろへ回す。
 シャープペンを三度ノックして、暗闇の中で一生懸命メモしていた内容を頭の中でまとめた。教材を見ながら取ったメモの上の文字は斜めに走ったり重なったりしていたけれど、これまで学習してきた内容と照らし合わせていけば、文章を組み立てるのは難しいことではない。用紙の一番上に今日の日付を記入する。
 ――新暦三五九年十二月二日。
 世界が暦を変えてもう三百年。それ以前のことはほとんど伝説上のものとして語られている。当時の文明社会の崩壊とともに旧暦は消滅し、数百年とも数千年とも言われる空白期間の後、ヒト族はようやく新暦を発布できる文明を取り戻したからだ。
 その失われた空白の期間は、ロストレコードと呼ばれている。現在ではその時代に世界が大きく様相を変えたのだという研究結果が広く認知されていた。例えば、鳥には角、馬には羽毛、猫には翼、といった、旧暦時代から存在する生物をベースにしながら別の生き物の特徴を有した、異種や亜種と区別される生き物たちがこの頃から確認され始めたらしいからだ。
 それは人間も例外ではなかった。
 現在この小大陸には主に三つの種族が存在している。『人間』として区分されるそれらを、ヒト族、リリス族、モルグ族と呼称する。
 ヒト族は旧暦前からほとんど変わらず存在している種族だ。ロストレコードを経て発展させた『都市』と呼ばれる文明地区に住んでおり、高度な文明を有しているとされる。
 リリス族は都市から見れば『外』の草原に王国を構える遊牧民族だ。身体能力が高いなどと噂されているが、彼らは新暦発布よりも以前から他種族と交わらない鎖国状態にあり、正確な情報は入ってこない。
 モルグ族は異能力を持つ戦闘種族で、大陸北部に拠点を置き、常にヒト族と交戦状態にあった。アマーリエがいまこうして大学で授業を受けている間も、北方戦線では戦争が行われている。
 さきほど見ていた映像では、そのヒト族、リリス族、モルグ族の遺伝子についての説明がなされ、ゆえに同じ『人間』なのだという結論に至っていた。
 だがたとえこの三つの種族が『人間』であったとしても、現在の社会情勢では婚姻が成立する確率はほとんどゼロに近い。
 結局「人体として最も優位に発達しているのはリリス族で、ヒト族は最弱だ」などというところから無難にまとめていると、すでに記入を終えた学生が早々と用紙を提出して教室を後にし始めた。
 文章に誤字脱字がないか確認して、アマーリエも席を立った。
「じゃあ私行くね」
「ん。ありがと、またね、アマーリエ」
 後ろの席に声をかけ、鞄と上着を手に教授の元へ向かう。他の学生に習って用紙を裏返しにして机の上に置き「ありがとうございました」と教授に会釈して、教室に散らばっていた友人や顔見知りにひらりと手を振って扉を開けた。
 冷たい空気がぶわりと吹き付け、思わずはあっと息を吐く。タートルネックのインナーの上にシフォンブラウスを重ね、ボトムスの下にはタイツを着込んでいるけれど、さすがに一月の都市の冷え込みは厳しい。黒いロングコートを手にしていたが、どうせ食堂に行けば脱いでしまうものだからと、身につけることはせずに足早に廊下を行くことにした。
 昼休みの構内はすでに騒がしい。静かなのは教授たちがいる研究棟くらいだろう。通りすがる顔見知りたちがこちらに気付いて手を振ってくるのに返しながら、そういえばと鞄から携帯端末を取り出した。
 ぴかぴか光っているそれを歩きながら開いてみると、友人からのメールを受信している。『まだー?』と短いそれはいつもの場所ですでに待っていることを意味していて、携帯端末をポケットに押し込んで急いで食堂へ向かった。
 食堂のドアを押し開けると、暖房による暖かな空気が流れてきてほっとした。大きくとった窓のそば、陽光が直接当たらないといういつもの場所に向かうと、すでに揃っていた面々が思い思いのことをしていた。
「あ、アマーリエ! 遅い」
 真っ先に気付いたのはオリガだった。赤い唇を尖らせる。
「ごめん。もうみんな食べちゃった?」
「あんたを待ってたのよ」
「そうなの? 先に食べてくれてよかったのに」
 申し訳なくて、荷物を降ろして椅子を引いていた手が半端に止まった。
「先に予習をしていたから大丈夫よ。アマーリエ、後で答え合わせしない? 当てられそうな問いがあるから備えておきたいの」
「うん、食事の後でやろう」
 おっとりと言うキャロルにそう答えると「お腹すいたぁ」と声を上げたのはリュナだった。
「今日のレディースセットはハンバーグ定食なんだ! でもカレーが食べたいんだよねえ」
「カレー、美味しそう。でも昨日ハヤシライス食べてなかった?」
「あっ、そうだった。だったらハンバーグにしようっと」
 財布を手にしたオリガとリュナが立ち上がる。キャロルはお弁当なので可愛らしい兎模様の風呂敷に包まれた箱を取り出した。
 アマーリエも今日は学食なので、オリガとリュナに続いて券売機に向かった。カロリーと量を考えて、チキンサンドイッチの券を購入する。
 そうして席に戻ってきた四人で、いただきます、と手を合わせて食事を始めた。
 大学に入学して、基礎科目の講義で近い席に座っていたことから、なんとなく集まるようになった四人だった。それは二回生になったいまも変わらず、こうして昼休みや空き時間になるとここにやってきて顔を合わせている。
 この第二都市大学は、都市唯一の都立大学なので複数の学部を抱えていて規模が大きく、学部の隔たりがない基礎科目の講義は他学部の学生と知り合うきっかけにもなる。そのため、このメンバーの他に誰かの知り合いが混じって一緒に食事をすることもあった。
 遮光ブラインドによってわずかに緩められた光が射して、食堂内は明るい。暖房も入っているが陽光を浴びると印象としても暖かく思える。外は極寒で、ここから遥か北の地には雪が積もっているというけれど、まるで別世界の出来事のように感じられた。
「そういえばもうすぐテストでしょ? もうやだ、基礎生物のテスト範囲広すぎだよお」
「解剖実習のあの分量に比べれば基礎生物なんてどうってことないわよ。なによあの教科書、文字だらけじゃない」
「寄生虫学なら写真がたくさん載っているのにね」
 アマーリエが言うと、オリガとリュナが悲鳴を上げた。
「ご飯時にそんな話しないでよお! 思い出しちゃうじゃない!」
「ごめんごめん」
 けれど楽しんでいることはすぐにわかる。写真ごときで弱る神経ながら、この学部、医療従事者の育成を目的とする医学部には入学していない。
「小学校のときの理科の教科書が懐かしいわ。蛙の中身なんてめじゃないわよねえ」
 キャロルの言葉にみんなで苦笑しながら同意した。
「テストか……基礎科目落とすとやばいわね。他学部の授業が受けられなくなる」
「オリガ、まだ他のとこの講義受けるの? 来年度から本格的に専門科目が始まるのに」
 デミグラスソースのついた唇を舐めながらリュナが言う。
「忙しさを理由に学びたい意欲を無視したくはないのよ。医者になればもっと忙しくなるんだから、できることは今のうちにやっておきたいの」
 オリガが味噌汁をすすり、白米を咀嚼して言った。
 彼女は自学部必修の西洋古語の講義とは別に、文学部の西洋古語の科目を取っていた。親の命令がなければ文学部の学生だったと、時々皮肉げに笑いながら言うことがある。
 そんな彼女はふと思い出したように、自身の昼食を眺めて言った。
「『いただきます』って、古代東洋の習慣なのよね。西洋古語ではそれに相当する言葉がないって、センセイが言ってたわ」
「命をいただきますって意味なんだっけ。世界が変わってもそういう言葉が受け継がれていくのは、なんだかいいね」
 アマーリエが言うと、オリガも微笑んだ。
「人間の営みは永遠だもの。生きとし生けるものと大地の恵みに感謝しますっていう言葉や思いは、そう簡単には消えてなくならないでしょ」
「それに愛もね!」
「っ!?」
 驚きのあまり息が詰まってアマーリエは咳き込んだ。キャロルが差し出してくれた水を飲み干し、空咳を繰り返した後、リュナを見る。マスカラに縁取られたオリガの目も少々険しくなっている。
「愛って、あんたね……」
「えーなに? あたし変なこと言った? 陳腐だけど真理だよお。人間の営みは永遠なんでしょ。だったら男と女がいて、その営みも永遠、」
「まだ明るいから下ネタは禁止!」
 オリガが叫び、キャロルはくすくすと笑っていた。アマーリエはほんのり羞恥で赤くなった顔を隠すつもりで、彼女たちから目を逸らして窓の外を見る。
 数年後、自分はいったい何をしているのだろう?
 オリガのような好奇心と熱意も、キャロルのような包容も、リュナのような明るさも持ち合わせていないけれど、このまま彼女たちと学び、ゆくゆくは住宅地区で診療所を開いている母の下で働けるように、医者になる。
 でもその姿をうまく思い描けないのは何故なのだろう。知識が不足しているせいもある。経験が足りない、若さゆえのこともある。でも自分が目標としている仕事に就いている姿を掴むことができない。
 心が囁く。本当にこれは進んでいい道か。本当に、これが未来なのか?
(でもきっとこのまま漠然と生きていくんだろうな……)
 ぼんやり思考に沈んでいたときだった。カッ、と高いヒールの音が聞こえて首を巡らそうとしたとき、そこにぴょんと飛びつかれて息が止まった。
「アマーリエっ!」
「み!? ミリア、ちょっと、く、苦しい……」
「ミミって呼んでっ」
 ぱたぱたと腕を叩くと、彼女は弾むように離れ、そのままアマーリエの隣の席に座り可愛らしく首を傾げる。すると垂れた目元が余計に愛らしく映るのだった。多分本人も自覚があるのだろう、文学部の学生である彼女は違う学部の男子とよく一緒にいる。
「ね、アマーリエ。みんなで遊びに行かない? かあっこいい男の子誘って!」
「ええと、私に言われても……」
 彼女には確か恋人がいたはず、と思っているとオリガがずばり尋ねた。
「あなた彼氏はどうしたのよ」
 ミリアはきょとんとした後、甘ったるい顔で笑った。
「えへへ、別れちゃったぁ」
 沈黙が落ちた。オリガはまたかと呆れていて、キャロルはのんびりと食事を続けたままでいて、リュナは携帯端末をいじっていて聞いていないからだ。
「浮気されちゃったぁ。まあ私も冷めてた頃だし、気にしてないんだけど」
 アマーリエはというと、信じられなくて呆然とした後、ほとんど恐々して聞いていた。
「……本当に、本当?」
「本当だよぉ」
 そう答えられてしまうとなんといっていいのかわからなくなってしまった。何故なら、その元恋人というのは、ミリアが当時付き合っていた男性と別れてまで恋人となった人だったからだ。
 付き合っていた頃の彼女たちは常に一緒にいて、時間があれば手を繋いだり寄り添ったり、耳元でささやき合ったりしていて、それはそれは恋人同士の慈しみに満ちていた。
 男女の交際が、十八歳、十九歳にもなればありふれた経験であることは理解している。小学生でさえ彼氏彼女の関係になる時代だ。けれどそんなに恋愛は簡単なものだっただろうか。
(それって、本当に、恋だったの?)
 聞けるはずがなかった。そもそも、恋とはなんなのかアマーリエにはわからないのに。
「ああもうやめやめ! ミリア、アマーリエの恋愛恐怖症に拍車をかけるんじゃないわよ」
 オリガが手を振って話を切った。そしてテーブルに強く手をつくと、アマーリエ、と低い声を発して身を乗り出した。
「明日の夜、空いてる?」
「あ、……いて、ない!」
 咄嗟に嘘をついた。
「あたし空いてるよっ」
「ミリアには聞いてない。まったく、出会いの席にも顔を出さないのね。これだから女子校育ちのお嬢は」
 舌打ちしたオリガは、男女混合の飲み会でも企画しようと考えていたのだろう。度々そういう手を使って、彼女はアマーリエを異性がいる場所へ引っ張り出そうとすることがあった。
 アマーリエは曖昧に笑っていた。だってそういう席はそういうことが目的の人ばかりなのだ。あまりいい出会い方だとは思えず、お酒が苦手なこともあって敬遠していたが、それをオリガは恋愛恐怖症と表現する。穏やかに見えて冷静で賢いキャロルなら、夢見る乙女ねとずばり言うだろう。
 つまり自分でもわかっているのだ。恋愛に憧れる気持ちはあるが、なんとなく躊躇していること。怯えのようなものを抱いてしまうことや、異性との距離感がわからない自分を。
「よし、決ぃめた!」
 ミリアが声を上げて注目を集めた。
「あたし、もう恋なんてしない! 一生ひとりでいる!」
「できもしないことを宣言しない方がいいわよ」
 オリガの言葉に「絶対無理だあ」「無理ねえ」とリュナとキャロルが同意する。
「うーるさあい! だってアマーリエがひとりなんだもん。あたしがずぅっと一緒にいてあげるからね!」
「あ、ありがとう……」
 きっとそんなことはできないのだろうなとわかっていながらも、飛びついてきてにっこり笑うミリアは、やはり可愛いのだった。

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