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 電灯が照らす駐車場にたどり着くと、ルーイは車のエンジンをかけて待ってくれていた。
「遅れてごめんなさい。本当にごめんなさい」
「大丈夫だよ。行こうか」
 平謝りしながら、彼が開けてくれた助手席に乗り込んだ。
 暖房で車内は温まっており、外との気温差にわずかに身体が震えた。しかし理由はそれだけだろうかと、アマーリエは影になったエリーナの顔を思い出していた。
 ――たいしたことじゃあないんだよ。自分の未来を決めるのは、結構簡単なこと。
 いくつも違わないエリーナがいったい何を決めたのか、いまのアマーリエには想像もできなかった。

 カーステレオから流れるのはポップなロックだった。ルーイの選曲なのだろう、優しいが激しい強さを持った声のボーカルが、未来へ向かう勇気を歌っている。最近よくテレビなどでかかる曲なので、アマーリエもサビだけは口ずさむことができた。
「これ、音楽ランキングで一位に入ってたやつだよね」
「そう。初回限定版を予約して買ったんだ。このアーティストの曲を聴きながら運転するとわくわくするから」
「今日は本当にごめんなさい。送るって言ってくれたのに、だいぶと待たせたよね」
「気にしないで。待つことも楽しみの一つだよ」
 そう言ってルーイは笑い、混雑する行政地区へ続く道へと車を進ませた。
 行政地区は都市の中心部に位置するので、通行量も信号も多い。信号に引っかかってブレーキをかけた勢いに任せるようにして「ねえ」とルーイは言った。
「アマーリエは、好きな人、いるの?」
 どきっと鼓動が一つ、大きく打つ。
 こういう質問は好きじゃない。『恋』や『愛』について語れるほどアマーリエはそれらのことをよく知らない。
「……わからない。でも、恋人にしたいっていう人は、いまのところいないよ」
「わからないんだ?」
 ルーイは少し面白そうに言った。
「ルーイは誰か好きな人はいるの? 恋人は? 誰かと付き合ったことは、ある?」
 まるで問い詰めるように聞こえたのか苦笑まじりに「あるよ」とルーイは答えた。大学では女子の知り合いも多い彼だ。整った顔立ちの頭のいい先輩と評判も高いから、当然の回答だと思った。
「最初のときはどうして付き合うことになったの?」
「最初? そうだなあ……告白されたんだ。それだけ好きでいてくれるならって思ったから、お付き合いしたよ」
「相手の人のことはずっと好きだったの?」
「いや、当時の僕は彼女のことをよく知らなかった。でも付き合っていくうちにだんだん好きになったよ」
 ステレオのボリュームを下げて、ルーイは続ける。
「小説みたいに、お互いが思い合ったから恋人になるっていうのはなかなか難しいことだと思うよ。僕の場合は、彼女が僕のことがずっと好きで、僕は彼女を後から好きになった。恋愛の本当の姿ってそういうことの繰り返しだと思うんだ。――だから」
 そういう恋もあるのだと言った彼は、だから、の続きを思いもがけない言葉で繋いだ。
「アマーリエ、僕たち、付き合わない?」
 赤になった信号を前に優しくブレーキをかけられたが、アマーリエはがくんと大きく揺れた。
 前のめりになった不自然な体制のまま目を大きく見開き、整った彼の横顔を穴が空く勢いで見つめる。
「……え?」
 いま、なんて言った?
 ぐるぐると頭の中で同じ言葉が回る。すると全身の血が温度計のように一気に顔に昇っていった。
 顔が熱い。暖房なんてめじゃない。口を何度も開け閉めしているうちに、車は再び動き出して滑らかに進む。ステレオからは輝かしい未来を歌う歌。
「え、ええええっ!?」
 螺子が吹っ飛んでいくような素っ頓狂な声が上がり、ルーイがぷーっと噴き出した。
 一瞬だけ嘘だったのかと疑ったけれど、ルーイはハンドルを握りながらくっくっくと身体を揺らしている。アマーリエの反応がツボに入ったらしい。
 自分が冷静さを欠いていたことを知ったアマーリエは、赤くなった頬を押さえて座席に沈み込んだ。
「は、初めて告白された……」
「初めて!?」
 目を見張られて、アマーリエは肩をすくめた。
「お、おかしいよね、やっぱり……」
「え、いや、そんなことは……」
 アマーリエは所在なく髪を耳にかけ、目をドア窓に向けた。
 漆黒よりも浅い色の髪は胸のあたりまでの長さで、光を当てると灰色なのか茶色なのか判別できない微妙な色になる。赤っぽい瞳の色を強調しないように化粧は最低限、色付きのリップクリームを塗っているくらいだ。
 一緒に暮らしていた祖母の躾と意向によって、アマーリエは貞淑な女性となることを求められ、大学まではずっと女子校だった。スカートの長さや髪型はよく注意されたし、化粧なんて必要ないと嫌な顔をされてきた。
 大学への進学が決まる頃に祖母が亡くなり、身を飾ることを必要以上に制限する人はいなくなったけれど、大学に通い始めると、いかに自分が普通の少女たちに比べて地味で魅力のない人間なのかを思い知らされてしまった。
 自分を装うことにかすかな抵抗があって化粧はほとんどせず、けれど唇を彩るのは、魅力的でない自分へのささやかな抵抗だった。
 こうした経歴なので、告白されたのはルーイが初めてだ。恋愛の回数を魅力のバロメーターにするつもりはないが、もうすぐ二十歳になろうという娘が恋をしたことがないのは、やはり異質に映るのだろうと落ち込んでしまう。
「着いたよ」
 ルーイが車を歩道に寄せた。
 行政地区に建つ第二都市最大の建築物、市庁舎が天高くそびえ立っている。周囲には行政関係の建物が密集して、上空に無数の窓明かりを輝かせていた。
 アマーリエはぎゅっと鞄の持ち手を握りしめた。何か言わなければならないのに、ルーイは余裕なのか緊張しているのかわからない笑みを浮かべたまま、正面を見ている。
「……あのさ」
 声をかけられてびくついてしまい、苦笑いされてしまった。
「急に、ごめん。一応知っておいてほしいと思ったんだ」
 速度を上げて走り抜いた車の風圧で車内が揺れた。
 このときアマーリエが感じたのは、怖い、ということだった。
 彼から目を離せずにいたのは、逸らした途端にもっと怖いことが起こりそうな気がしたからだ。
 ルーイは静かに笑うと、ドアのロックを外した。
「考えておいてね、アマーリエ。好きではないけれど付き合ってみるっていうのは普通の選択肢だよ」
「あ、あの」
「なに?」
 優しい声は、しかし先ほどの恐怖を払拭してはくれなかった。
 アマーリエは首を振り、ドアノブに手をかけた。
「……ううん、送ってくれて、ありがとう。それじゃ、また」
 ドアを開けて外に出る。火照った頬に冬の冷気が心地いい。
 ルーイは一度手を上げて、車を走らせて夜の街へと消えていった。車が見えなくなるまで見送って、ようやく息を吐く。
 過ぎ行く車たちのヘッドライトが眩しくて目を閉じた。すると痺れるくらい身体が強張っていたことに気付いて、ゆっくりと両手を動かし、その場に座り込みそうになる脱力感に耐える。
「……好きって言ってくれたのに、怯えるって……」
 恋の形は、様々だと知っている。
 オリガには年上の社会人の恋人が、キャロルには年下の弟のような恋人がいる。リュナは昔派手だったと笑っていていまは募集中だという。ミリアはあの通り惚れっぽくて冷めるのも早い。それぞれの始まりは、自分から告白したことや、趣味を通じて知り合ったなど色々で、だからルーイのように好きだと言われて付き合い始めるというのも当たり前にある形なのだ。
『でも、別れてしまったんだね』
 言いかけて止めておいてよかったと思った。彼のプライベートだ。彼は好きになったと言ったのだから、きっと本当の恋だったのだ、そのときは
 空を仰いで目を細める。
 ――ずっと続く恋は存在するのだろうか。恋でなくても、愛は。
 このままルーイと付き合って、好きだという感覚はわからないけれど、でも恋人となって。卒業するときも恋人であったなら結婚の話も出るかもしれない。結婚したら、子どもができて、家族ができる。
 そうやって想像しようとすると、未来の自分を想像するときのような不確かな感覚が起こる。未来の自分とルーイが一緒にいるというのは、やはりうまく映像にならなかった。
(後で答えを出そう。いまは……まだ、無理だ)
 向き直った市庁舎へ足を向け、鞄を肩にかけ直して、ガラスの自動ドアをくぐった。
 だだっ広いホールの入り口にある受付には、女性が一人で座っていた。そこに近付いていって告げる。
「すみません。コレットをお願いします」
 清楚な印象の受付嬢は少し不思議そうな顔をした。
「失礼ですが、事前にお約束はございますか?」
 やはり二十歳前の娘が突然やってきて市庁舎勤めの人間を呼び出すのは不自然なのだ。
(また父さんは連絡するのを忘れたんだな)
 アマーリエは苦笑して学生証を提示した。
 アマーリエ・エリカ・コレットという名前を見た受付嬢は驚きもあらわに、学生証を放り出す勢いで返し、内線で連絡を取り始めた。
「……たいへん失礼致しました。迎えが来るそうですので、そちらにおかけになってお待ちください」
「ありがとうございます」
 受話器を置いた受付嬢に玄関近くのソファを示され、アマーリエはそこに腰掛けた。しばらくもしないうちに、ホールの奥から見知った顔がやってきた。
 オールバックの髪に眼鏡という少々厳つい印象のその男性は、父の秘書ヴェルナーだった。
「こんばんは、ヴェルナーさん」
「こんばんは。お待たせして申し訳ありません。ご案内します。どうぞ」
 奥にあるのは職員専用のエレベーターで、一番奥のものは最上階まで直通だ。
 ヴェルナーに案内されてエレベーターに乗り込む。耳の奥のこもった感じが慣れないと思いながら、ボタンの前に立つヴェルナーに呼びかけた。
「父の仕事は終わっていますか?」
「はい。本日はお嬢様のことが最優先だと仰っていました」
「……私?」
 今日の夕食会は、毎年の偲ぶ会ではなかったのか。
 疑問を抱くアマーリエを高性能のエレベーターはすぐ最上階まで運んだ。扉が開くと左右に広い廊下が続いていて、ヴェルナーは右手の奥の部屋の扉に身分証を差し込んだ。ピッと認識音に続いて解錠の音が響く。
「どうぞ」
「失礼します」
 その先は秘書室だ。カチャカチャとキーボードを叩く音だけが響く部屋には二人、そのうち鳴り響いた内線を取った女性秘書が柔らかな声で応対を始める。
 ヴェルナーはそこを突っ切って、さらに奥の扉をノックしてアマーリエの来訪を告げた。
「失礼します。お嬢様が来られました」
「ああ、早かったね」
 ヴェルナーはアマーリエに一礼して席に戻っていった。
 アマーリエはわずかに開いた扉に手をかけ、そっと中を覗き込む。
「失礼します。……父さん?」
 木製の扉の向こうは、暗闇の海のようだった。
 奥に面した窓の向こうには夜が広がり、遥か彼方の地上の光が明滅しているのが見える。街だけでなく、ゲートの向こうの草原も目にできる。ここは市庁舎最上階の奥、都市の東側を見渡せる部屋だ。
 照明が最低限に絞られたその室内には人影が二つあった。一人は机に向かって立っていた小太りの中年男性で、入ってきたアマーリエに目が飛び出るほどの驚きの表情を浮かべている。
「こ、こんばんは……」
「あっ……! どっ、どどど、どうも……」
 すると机のそばに立っていたもう一人が、豊かに響く声で言った。
「では、そういうことで頼むよ。モーガン君」
「は、はあ。か、かしこまりました……」
 彼は父に一礼、アマーリエにも一礼した。
 すれ違ったとき、彼のスーツの襟元に輝く襟章が目に入る。市庁舎である塔の形を模したそれは外交官の身分を証明するものだ。ヒト族以外の種族と交流を持つことができるエリートの証だった。
「やあ、アマーリエ。待たせてすまないね、私の天使」
 夜の海を背に微笑むアマーリエの父は、黒い髪を洒落た形に整え、無精髭の影もなく、高級なスーツを完璧に着こなしている。「身分にふさわしい見た目が必要だ」という父の持論通りだ。この第二都市の中央、そして最高の身分にあるこの人は自然とそうした形を求められる。
 しかし親馬鹿なのはいただけない。アマーリエはうんざりと言った。
「父さん、その呼び方はやめて」
「おや、ご機嫌斜めだね」
 この分だと五十歳になっても天使扱いされそうだ。どこかの段階で是正してもらう必要がありそうだったが、とりあえずいまは慌てて去っていった外交官が気になった。
「私の機嫌よりも……さっきの人に悪いことをしちゃった。仕事の邪魔をしたよね。ごめんなさい」
「いいんだよ。終業したところに面会をねじ込んできたのは彼だ。ああいうところがあるから、彼は無能扱いされるんだよ。いいかいアマーリエ、有能な人間というのは仕事が早いとか能力が高いとかではなく、時間通りに仕事を収められ、かつ他人の状況を把握できる者のことを言うんだ」
「……無能扱いするのはよくないと思う。いまそんなに忙しいの?」
「ああ、忙しいよ。いつもよりずっとね」
 ジョージ・フィル・コレット第二都市市長は、忙しなさや疲労がまったく感じられない魅力的な笑顔でアマーリエを市庁舎から連れ出した。

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