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 その夜、やっぱりおかしい、と思った。
 日曜日の夜、教育区のホテルに潜伏しながら、どうして追手が来ないのだろうとアマーリエは苛立ちにも似た焦りを感じていた。
 各種学校のほか、美術館や博物館、図書館などがある教育区は、眠らない行政区や商業区に比べて夜の闇が濃い。街灯の色も和らいだオレンジで、時折帰宅する教師や夜間学校の生徒が歩いているのが見える。
 四階の窓から見えるのはそのくらいで、誰かが見張っている様子はない。
(私が逃げるのを、取るに足らないと考えているのか……)
 二十代の小娘ができることなどたかが知れている。逃げられるわけがないと、泳がされているだけなのかもしれない。
 時々エレベーターが到着する音が聞こえてくるくらい、部屋は静かだったが、テレビをつける気にはなれなかった。ニュース番組も笑い声ばかりのバラエティも、見たくない。
「……明日になったら大学でポールと落ち合える。そこで偽造通行証と身分証をもらって、第二都市を出て行ける……」
 確認するように呟いたとき、真っ黒なテレビ画面に自分が映っていてぎくりとする。怖くなって電源ボタンを押そうとしたとき、携帯端末の着信音が鳴り響いた。
 はっと弾かれたように引っ込めた手を携帯端末に伸ばす。
 メールを着信していた。ポールからだ。明日一限が終わったらホールで待っていると書かれてあり、返信はしなくていいということだったので電源を切った。続けざまに着信を始めた友人たちのメールには気付かなかったふりをした。
 明けて月曜日、アマーリエは大学へ向かった。アマーリエの時間割では一限から講義が入っている。担当教授の講義だったので、これだけ顔を出してしばらく休学することを伝えようと思った。必要書類は後から送ると言っておけばなんかしてくれるはずだ。
 いつもの席に座って、追手が来ないか入り口を見ていると次々に友人や知人たちが入ってくる。昼食をとるメンバーでこの講義に出ているのはオリガだけだ。颯爽とアマーリエの隣に腰を下ろした彼女は、開口一番「メール」と言った。
「なんで返信しないのよ」
「あ……ごめん。ちょっと忙しくて」
「ふうん? そうなんだ」
「あ、先生来たよ」
 どんな風に忙しいか聞かれたくなくて話題を逸らそうとしていたが、タイミングよく教授が現れた。白髪と髭が特徴的な教授は、教壇に立ってマイクを手に挨拶を述べたが教室はまだ騒がしい。毎度のことなので出席を取り始め、応じる声があちこちから上がった。中には代返する馴染みの声もある。
「……あれ?」
 アマーリエはびくりとした。オリガが何を言うかわかったからだ。
 アマーリエの名前が、呼ばれなかった。
「いま飛ばされたわよね、アマーリエ?」
「う、ん……」
 教授はてきぱきと出欠のチェックを行い、出席簿を閉じた。教授が目を挙げたとき、オリガが手を挙げた。
「はい、なんですか?」
 オリガに目で促され、アマーリエは立ち上がった。
「あ、あの、名前を呼ばれませんでした」
「ああ、それはごめんなさい。出席番号と名前を教えてください」
「三五九の〇二二、アマーリエ・E・コレットです」
 出席簿をめくる教授を見ながら、アマーリエの背中を恐怖が這っていく。
 まさか、そんな。そんなはずは。
 教授は、む、と何か引っ掛かりを覚えたようで、顔を上げ、アマーリエを呼んだ。
「コレットさん、少しこちらに」
 マイクの電源を切るぷつんという音が響き渡る。まだ講義が始まらないとわかった学生たちが再びお喋りを始める中、教壇へ向かう。一歩一歩、足元が心もとなくなっていく。帰ることのできない場所に向かっているような。
 四角い顔の老いた教授は、困ったように目を細めて言った。
「コレットさん。今朝事務局から連絡がありましてね。あなたの親御さんから退学届が出されたので受理したという」
 ――目の前が真っ暗になった。
 顔色を変えたアマーリエを気遣って、教授は声をひそめる。
「特に悩んでいる様子ではなかったように思えたし、いきなりだったので驚いたのですが……ご両親と何かトラブルでも?」
 教授はアマーリエが市長の娘だということを知っている。立ち入った質問だと思いながらも、力になれたらと思ってくれているのだろう。
 真っ白になった頭を振るが、視界は暗く、足元までその闇が下りてくる。
 でも、だめだ。顔を上げなければ。巻き込んではいけない。
 これは個人の問題だから。こんなことをするのは父しかいない。だから私が解決しなくちゃ。
 吐き気を堪え、微笑んだ。
「だ、い、じょうぶ、です……ちょっと行き違いがあったんだと、思います……」
 笑う。なんでもないことだと。まだ取り戻せるはずだと、必死に表情を取り繕う。
「お手数を、おかけしました。失礼します」
 歯を食いしばり席に戻る。教科書や筆記用具を鞄に投げ入れていると、オリガが不審そうに綺麗な眉を寄せてこちらを見た。
「アマーリエ? どうしたの、何があったの?」
「大丈夫。私、もう行くから」
「アマーリエ!?」
 振り向きもせず教室に出た。怒ったようなオリガの声は、スピーカーから響きだした教授の声に紛れてしまった。
 コートを羽織り、ポールとの待ち合わせ場所であるホールに向かう。大型テレビがあるそこにはぽつぽつと時間を潰す学生がいるが、肝心の彼はまだ来ていない。学校にはいるかもしれないので早く着いたことをメールで知らせておく。
 椅子に座ると、どっと疲労感が押し寄せた。
 追っ手を警戒しながらの三日間の外泊に加えて、退学届にとどめを刺されたような気分だった。こうなると自宅に帰った途端、扉という扉がオートロックされて閉じ込められるかもしれない。携帯端末が解約されないままなのが不思議なくらいだった。これで位置がわかる技術はないのに、温情だろうか。
 大学は、かろうじてアマーリエを自由してくれる時間だった。未来への道標となるそれを奪われたいま、ひたひたと押し寄せる絶望感に抗うことができず、力なく座っていることしかできない。
「わ、すげー、これ」
 その場にいた学生たちが、その声が示すテレビに注目した。同じように顔を上げたアマーリエは、画面に映るものを直視して、ゆっくりと血の気が引いていくのを感じていた。
 爆発の手が挙がる。その振動で映像が若干乱れた。視点が切り替わり、銃を持った防衛隊員たちが正面へ突入していく。再び爆発。
 北部戦線、境界と呼ばれる場所で続いている、モルグ族との交戦の光景だった。
『……現在北部戦線では激しい戦いが続いており、死傷者は……』
「これ、合成じゃないよな?」
「映画みたい」
 それはブラウン管を通しているだけで、決して自分の元には訪れることのないものとして映し出される。学生たちはそういう風に非現実のものとしてニュースを見ている。
 なのに、アマーリエにとってそれは現実だった。モルグ族に対抗するための同盟、そのための政略結婚が降りかかっている身には。
 そのとき背後から肩を叩かれた。
「っ!」
「わっ!」
 びくりとして振り払って立ち上がると、エリーナが立っていた。驚いた顔をしていた彼女にアマーリエも呆然とする。
「どうしたの。すごい顔してるよ」
「……エリーナ先輩……」
 全身から力が抜けそうになるが、ぐっと顎を引いて微笑んだ。
「どうしたんですか?」
「いや、お腹すかせた猛獣並みの必死さでテレビ見てるから。おはよう、アマーリエ」
「おはようございます」
 うんと満足げに頷いたエリーナは、まだ続いているニュースに目をやり、ふうっと息を吐いた。
「すごいね。久しぶりに激しいな」
「…………」
 なんと答えたらいいのかわからない曖昧な表情で立っていると、エリーナは間延びした声で言った。
「私さぁ、大学辞めて、あそこに行くんだ」
 エリーナの視線の先には、何度も繰り返される北部戦線の映像がある。
 彼女は笑っていた。だから冗談だと一瞬思った。たちの悪い冗談はやめてくださいと怒ろうとしたのに、エリーナは言葉を重ねていく。
「まあ前線じゃないんだけどね。後方支援部隊で治療に当たることになったんだ。だから死ぬことはないんだろうけど、治療部隊としては戦場かもね」
「そ、んな…………どうして!?」
 遅ればせながら理解がやってきて、アマーリエは悲鳴に近い声を上げた。学生たちが何事かとこちらをちらちらと見てくるが、そんなのに構っていられない。
 あそこは戦場だ。いまこの場所とはまったく違う世界なのだ。そんなところに行くなんて、いったい何があったのか。
 エリーナは色を失ったアマーリエに苦いけれど温かみのある目をして、答えてくれた。
「私に何ができるのか、ずっと考えてた。で、ここでぬくぬくと過ごしている間に救えないものがあるって気付いたら耐えられなくなったんだ。偽善だとか傲慢だってことは、あなたは言わないだろうけれど自分ではわかってる。でも自分を捧げて助けられるなら、助けたい」
「でも戦場です。私たちはまだ学生で……!」
「私の力を役立てる場所は他にもあるけどね。でも約束があるから」
「……約束?」
 うん、と彼女は再び画面を見た。
「私の恋人があそこにいるんだ。帰って来たら結婚する約束なの。だから彼が死なない確率を少しでも上げるために、私があそこに行く」
 身近な人が戦場へ行く。死なないだろうなんて楽観視はできない。この世のどこにも死なない場所なんて存在しない。
 膝が崩れそうだった。胸を掻き毟りたくなるほどの悲鳴がアマーリエの内側でこだましていた。わなわなと唇を震わせているのは、目を逸らし続けていたものを突きつけられたからだ。
 私のすべてを引き換えにすれば、大勢の人たちが助けられる。
「……戦争が、終われば……いいんですか……?」
「終われば、いいね」
 終わることを信じていない口ぶりだった。
「あなたに別れが言えてよかった。あなたはちょっと人を頼ることを知らないところがあるから、もう少し、他人を信頼して自分を預けることを知りなさい。それが私からのアドバイス」
「先輩……」
 エリーナは頭を振った。もう何も言わないでという合図だった。
「困ってたら助けるって言ってくれたこと、すごく嬉しかった。その言葉、私もあなたに返すよ。あなたが本当に助けを必要としたときに駆けつけるからね。ありがとう、アマーリエ。また会おう」
「……先輩!」
 アマーリエの強い声に引き止められて、少しだけエリーナが立ち止まる。
「……どうして、私だったんですか? こんな不出来な後輩で、面白いことなんて言えない私なのに、なんで……」
 胸をぎゅっと握る。自分を魅力的な人間だと思ったことはない。誰からも好かれるような性格でもなければ、一緒にいることで利があるわけでもないのに、何故かエリーナはアマーリエと親しくしてくれた。
 それまでどこか思い詰めるような表情でいたエリーナは、あはっと軽やかに笑った。
「あなたはいつも他人に対して誠実な人間でありたいと思ってるでしょう。そういう嘘をつけない不器用なところが、好きだなあって思ったの」
 そうしてエリーナは背筋を伸ばし、ホールの扉を開けて去っていった。
 もう二度と会えない気がしたのに呼び止めることができなかった。何故ならその背中はもう自分の未来を選んでしまっていて、振り返らないと決めた強さに支えられていたからだ。
 アマーリエは膝が崩れるように座り込み、項垂れた。
 その間にもテレビが別の番組へと移り変わり、好奇心のままに操作され、次から次へとニュース番組は情報番組を映しては、先ほどの光景を繰り返し伝えてくる。
 呼吸ができなくなりかけて、大きく喘ぐ。
 見たくない。見たくなどない。
 けれどこの身を捧げれば戦争は終わる、かも、しれない。
 一人が自分自身を選べば引き続き死者は積み重なっていく。だがその一人が犠牲になれば残りのすべてが救われる。
 そう考えた上で、自分を取れるか。
(……できるわけ、ない――)
 真実と理解は、指の末端まで凍えさせるほどの絶望と虚脱をもたらした。顔を覆ったけれど乾いた瞳からは涙はこぼれず、それすら奪われたような気になった。
 朝の声に満ちた大学構内で光の射さない場所に声もなく沈み込む。
 自身の幸福を取るか、ヒト族の平和を取るか。アマーリエの許された選択肢は、一つしかなかった。

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