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 案内役が先に立つと、アマーリエが立ち上がるのを手助けした者がわずか先を歩く。引きずる裾はそのままに、だが皺にならないよう整えて広げる役割の者が後ろに続いた。
 建物の外周に沿ってぐるりと歩き、その建物同士を繋ぐ渡り廊下を行き、空気が冷えて重くなる方へと導かれる。
 やがて階段を降りて外に連れ出されると、そこは白い世界だった。入り口の玉砂利の広場を思わせる小ぶりな庭園に、赤い毛氈がバージンロードのように続いている。その先の建物は、どこよりも鮮烈な紅の大きな建物だ。
 剣を手にした親衛隊のような人々に見守られ、建物に入る。
 内部は吸い込まれるように奥へと続く縦長の部屋になっていた。左右には身なりを整えば美麗な顔立ちの人々が座って、アマーリエが通り過ぎるに従って順に頭を下げていく。
 値踏みする視線に震え上がりながら、なんとか最奥にたどり着く。
 二つある小さな椅子の一方に座る、彼の後ろ姿があった。
 前方には祭壇だと思われるものがあり、蝋燭や常緑の木の枝や、杯などが飾られている。彼はじっとそれを見ているようだった。
 息をしているのか心配になるほど微動だにしないまっすぐな背中。その隣に、アマーリエは腰を下ろした。
(……覆面、してない)
 だが、相手が超然とした美形だったことを思うと、そちらに顔を向ける勇気は出なかった。
 やがて真っ白い服装の人々が入ってきた。映像などで見覚えがある、神官や巫女と呼ばれる人たちだろう。都市において特定の宗教を信仰しているヒト族はあまり多くない。新暦の都市では、宗教に関するものは建物と古来の習慣的行事が残っているのみだったから、こうしたいかにも聖職者という人を見るのは初めてだった。
 神官が正面の祭壇に一礼する。
「起立を」
 はっとして長い裾を手繰ると、じっと観察される気配を後ろから感じて縮こまってしまう。
 恐らくここにいるほとんどが初めてヒト族を見るはずだ。アマーリエの一挙一動に注目するのは、花嫁だからというだけではないだろう。ますます心臓がすくみあがっていくのがわかる。
 神官がばさばさと房飾りのついた杖を振り、奇妙な抑揚の、歌ではないけれどお経でもなさそうな、東洋古語よりもさらに古い言葉の何かを詠唱した。
 しばらくすると瓶をささげ持った巫女が近付いてきて、アマーリエに大中小三つ重なった器を手渡してきた。そこになみなみと透明なものが注がれて、困惑する。
 どうしたらいいのだろう。それにこの匂い。多分お酒だ。
「……三度に分けて飲む。三度目に飲み干せ」
 隣から低い呟きが聞こえた。
 顔を見たいが、怖くて見られない。器を捧げ持つ両手が震える。
(……私、お酒飲めないのに)
 しかしここで断っては式の進行を妨げる。それにこれは神聖な儀式。これは誓いの杯で、波打つのはヒト族とリリス族の契約の水なのだ。
 吐息で震える水面に、恐る恐る口をつける。
「……っ」
 唇を結んで苦味を耐えた。隣で同じように、だが軽々と彼が清酒を飲み干した。
 しかしこれで終わりかと思いきや、また器を持たされた。何度も飲まなければならないらしい。
「……飲めぬなら口をつけるだけで良い」
 それは胃と顔に熱を感じ始めたアマーリエには天啓のように響いた。
 言う通りに口だけつけるが、強い酒の香気に酔いが深まるのを感じた。かすかに苦しさに喘いだとき、その器を、横からさらわれた。
 その突然の行動はアマーリエの目を自然に彼へと向けさせた。
 長い睫毛に縁取られた目元。凛とした眉。鼻梁。薄い唇。指の先まで淡く光るように、繊細で美しい。
(この人が)
 アマーリエの分まで酒を飲み干した彼が、小さく息を吐き出した。
 そして、艶めかしく感じられるような緩慢な仕草で、こちらを見る。
(私の)
 呼吸を、忘れた。どん、と心臓に強い衝撃を与えられた。
 口元を覆う。
 赤い花嫁衣装に雫が落ちる音が、いやに響いたように思えた。
「…………っ……」
 堰を切ったようにアマーリエの目から涙が溢れて頬を伝っていった。
 どうして泣いているのだろう。涙を堪えるのに精一杯で、何も考えられない。
 あまりにも綺麗なものを見たときによぎる悲しい気持ちや、この人の美しさや、この人こそが自分の未来を奪ったのだという思いが次々にひらめいていった。アマーリエは喉をひくつかせ、泣き声が響かないように強く口を押さえた。
 それをなんと思ったのだろう。
 彼は近付いてきた神官に告げた。
「それは飛ばして良い」
 告げられた神官が後ろに下がって何かを持ち去ると、式は何事もなかったかのように進行し、涙するアマーリエを残して、終わった。


 式が終わると祝宴が待っていた。
「大丈夫ですか?」
 控えの間で化粧や服装を直していると、肩に髪を垂らした女性が声をかけてくれるのに「大丈夫です」と返したものの、顔色の悪さと泣いたことによる瞼の腫れは誰の目にも明らかだった。
「御酒は過ごされないよう、お気を付けくださいまし」
 その言葉の意味は、席についてから理解した。
 板敷きの広間には大勢の人々があちこちで円座を組んで酒杯を重ねていた。アマーリエたちがやってくる前にすでに始まっていたようで、だいぶと賑やかな声が響いている。
 上座についたアマーリエの隣には、もちろん夫となった人がいる。
 座って早々、にじり寄ってきた人々から次々と挨拶を受けた。彼らは手に徳利を持っており「おめでとうございます」などと言いながら、酒を供する。当然アマーリエにもその祝いの酒が注がれるのだが。
(……飲めない……)
 少しずつ飲んで干してはいるものの、また人が来て祝い酒を注いでいくのだ。多少飲めはするものの、すぐに酔っ払って気分を悪くしてしまうアマーリエには、あまり嬉しくない状況だ。
(飲めないっていうのは失礼だろう……この人たちのヒト族の印象を悪くしたくないし……)
 酒の匂いを帯び始めた息を長く吐き出した。杯の中に映っているのは、異種族の国にたった一人でやってきたヒト族の花嫁。美しくもなければ賢くもない、弱々しい表情で途方に暮れている小娘だ。
 その水面が不意に消えた。横から伸びた手に遮られたのだ。
 驚いてそちらを見る前に新しい杯を押し付けられる。
 甘い香りのする杯と、隣で赤ら顔の男性と会話する彼を見比べる。こちらの視線に気付いているはずなのに目も向けない彼は、だいぶと飲んだはずなのにまったく顔色が変わらないまま、アマーリエのものだった杯をあっさりと飲み干している。
 代わりの杯に恐る恐る顔を寄せてみる。
 甘いけれどアルコールの匂いがしない。果物の香りがする。
 一口飲めば、酔って火照った頬がさっぱりするような爽やかさを感じた。
(美味しい! これ、ジュースだ)
 柑橘のようなさっぱりした味だ。苦味がなく透明な感じで、喉に優しくすっと飲める。好みの味で、飲み干せば気分が少し晴れた。
 だが、杯が空になったのを見計らったのか、また挨拶と祝い酒を受けた。
(これは飲むしかないか……)
 ただ微笑んで頷くことを繰り返しながら、杯を持ち上げたとき、またそれを取り上げられた。同じジュースが入った杯を押し付けられるが、やはり彼はこちらを見ない。
 この交換に気付いている者はいるのかわからないが、彼がアマーリエに注がれた酒を飲んでも、咎める者は現れない。けれど酒が途切れたおかげで、アマーリエは落ち着いて広間の様子を見渡すことができた。
 行灯の火で明るい部屋の中を、女性たちが行き来している。時々円座から立ち上がった誰かが別の席に移動したりして、アマーリエの知っているパーティーとしては静かな部類のように思えたが、誰もが明るい顔をして、喜ばしい雰囲気が満ちている。
(私のことが喜ばれているわけではない、だろうから……族長様の結婚が嬉しいんだろうか……?)
「なんとも麗しゅうございますな。なんとうら若き花嫁か!」
 次に挨拶に来た人物は、だいぶと酔っていたのか声が大きくなっていた。
 自分に関係のない話でも耳をそばだててしまう。落ち着きすぎている彼の低い声は静かに紡がれるので、あまり聞こえていなかったが、どんなやり取りをしているのだろう。
「涙を流す風情はたおやかで、都市の乙女はかくも美しいものかと」
「ミン卿。それではお前がシンに気があるように思える」
 少し強い物言いを受けた相手は「いやはや」と誤魔化すように頭を掻き、杯を仰いだ。それを頃合いと見たのか他の男性が席を立ってこちらに近付き、また別の挨拶と軽い世間話が始まる。
 もしかしていまのは気遣ってくれたのだろうか。泣いたことを取り上げた相手に対して、それ以上話を続けるなというように。
 いや、わからない。この人のことは、まだよく知らない。
(綺麗な人だとは思うけど……)
 ある人はそう思うかもしれないし、ある人は怖いと感じるかもしれない。そういう種類の美しさだ。外見はそんな風に思うが、内面がよくわからない。この人はわざわざアマーリエを迎えに来たのだろうけれどどうしてそんなことをしたのだろう。
 でも、優しいといいな、と期待してしまっている。式の最中に泣いてしまった手前、どう思われてしまったのかが少し怖いところではあるけれど。
 アマーリエは今度こそゆっくりとジュースを飲み、新しい酒が注がれるのを阻止した。そうしてそれを飲み干す頃に、退出を促された。
 ずっしり重かった衣装と装飾品をすべて外してしまうと、身体がずいぶん軽くなった。服を脱いでいても、部屋には火鉢が置かれており、床には暖房の仕組みがあるらしく仄かに暖かいため、寒さはあまり感じない。それにベッドに入れば温かくなってすぐに眠れるはずだ。
「この廊下の向こうが寝間のあります寝殿です」
「ご気分が優れないようでしたら、すぐこちらにいらしてください。私たちは隣室で待機しておりますので」
「おやすみなさいませ」
 女性たちに告げられ、それで今日のいろいろは終わりなのだと、アマーリエは胸を撫でおろした。やっと心からの笑みを浮かべられる。
「今日はありがとうございました。おやすみなさい」
 ぱっと花開くような笑顔で頭を下げてアマーリエを送り出す。
 彼女らを見送ろうとしてその場に立っていたアマーリエだが、しばらく顔を見合わせてしまった。
 どうやら寝室に行くまで彼女たちは動けないらしいと気付く。なのでもう一度頭を下げて、アマーリエは廊下を進み、突き当りの建物に入った。
 旧暦東洋を思わせる外観の通り、室内は異国情緒溢れるインテリアで統一されていた。壁はもったいないほど緻密な模様の壁紙が貼られていて、アンティークのランプに火が入り、物を隠すための衝立の模様は牡丹だった。
 興味をそそられて家具を確認してみると、引き出しの中には筆記具、備え付けられた棚の中には着替えが入っている。
 そのとき、ふわあとあくびが出た。
(あんまり見て回ると家探ししてるみたいだから、今日はこのくらいにしておこう)
 眠い目をこすりながら、隣の部屋の扉を開けた。
 どうやらここが主寝室のようだ。天蓋のついた、まるで乗り物のような大きなベッドがある。上部の四隅にはドラゴンの彫刻が施されていて、天蓋の綴れ織も伴って、非常に高価な寝具のように思えた。
 だがふわふわの布団の誘惑には勝てない。ベッドに入ろうとしたアマーリエは横になろうとしたところで、動きを止めた。
 枕が、二つある。
 少し考えてぐるりと部屋を見て、ベッドを見る。
 このベッドは、一人で寝るには広すぎる。
 つまり。
「――――!!」
 声にならない悲鳴を上げた。ここに何をしに来たのか、そしてこの部屋の意味を理解して。
 ベッドから転がり落ちる勢いで、アマーリエは逃げ場を探した。
 だっていきなりこんなこと、許容できるわけがない。

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