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 リリス族は乗馬ができて一人前、なのだそうだ。
 その技術を持たないアマーリエは半人前以下。マサキに面白がられて、あからさまなからかいの声を受けても仕方がないのかもしれない。
 初日の乗馬の稽古を終えたアマーリエは、メモを手に医局に向かっていた。様々な授業が入り、時間割が調整された結果、しばらく授業がないハナから宿題を出されていたのだが、わからない部分が出てきて、質問に行かなければと思ったからだった。
(医局までが、遠い……!)
 乗馬の稽古で打ち身を作り、歩けば響き、息をすれば眉間に皺が寄るのは、全身の筋肉が悲鳴を上げているからだ。これなら大人しく、女官の誰かに、医局に行って聞いてきてほしいと頼めばよかった。同時に、暇らしいのに指導をユメに任せてアマーリエを茶化すのに全力を注いでいたマサキにも恨みが募る。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
 心配して付き添ってくれたアイが心配そうに声をかけてくれるのにそう返す。
(絶対見返してやるんだから……!)
 アイには部屋の外で待っていてもらって、医局に顔を出すと、シキと若い男性が何か作業をしていた。
 子どもの頃からよく絵本などで『はたらくひと』を眺めていたくらい、働く人は好きだ。みんなプロフェッショナルとしての誇りを持っていて、彼らがそれぞれ専門的に働いている姿が、子どもの目には特別に見えたものだった。
 アマーリエにとって身近なのは、市長の父と医者の母だ。医者の母には、同じ仕事をして同じところで働く夢を見たこともある。
 顔を引っ込め、壁に寄りかかった。
(……このまま勉強して、私は何になるつもりなんだろう……)
 見通せない未来、その存在を久しぶりに感じる。
 このまま大人になるなんて想像もつかない。リリスで医者になるなんて、なれるはずがないと思う。きっと何者にもなれはしない。何故なら――ここはリリスで、アマーリエはヒト族だからだ。
「どうかされましたか?」
「真様?」
 びっくりして飛び上がると、アイが呼びかけると同時に、部屋の中から現れたシキに声をかけられていた。
 シキは眼鏡の奥の目を微笑ませ、部屋に促した。
「どうぞ、いま少し散らかっていますけれど」
「……お邪魔しても、いいんですか?」
「もちろんです。お茶をお淹れしましょう」
 部屋に入っていくと、長い髪を高い位置で一つに縛った若い男性と目が合った。軽く頭を下げると、こちらもシキと同じような微笑みでアマーリエを迎えてくれた。
「やあ、こんにちは。どこかお加減でも?」
「いえ、ハナ先生にお訊きしたいことがあって来たんです」
 ふうむと男性は顎を撫でる。その仕草が見た目にそぐわない感じがして、もしかして外見以上の年齢なのではと疑ったときだった。
「少し身体がだるいのではありませんか。熱があるのではないのかな」
 するとお茶を淹れていたシキが驚いた様子で茶器を置いた。
「具合が悪いんですか? ちょっと待ってください、体温計、体温計……」
「いえあの、今日は乗馬の稽古があって」
 あっさりと身体の動きが鈍いことを見抜かれてしまったこと、その理由が彼らリリス族にとってはあり得ないくらい小さなものであることに、顔が赤くなるのを止められなかった。
「落馬して打ち身だらけなだけですから、大丈夫です……」
 彼らは押し黙った。
 鴉らしき鳥の声が虚しく響き、アマーリエはますます小さくなる。
 次の瞬間、男性の方が笑い出した。
「はっはっはっ! そりゃあ大変だ。シキ、湿布を処方して差し上げなさい」
「はい」
 言われてシキは声を殺して笑いながら、隣室に行って薬を手に戻ってきた。
 それにしても、男性の観察眼には敬服する。シキに「こっちはやっておくよ」と気軽に声をかけているところから、どうやらシキの先輩に当たる医官のようだ。
 目が合うと、にかっ、と開けっぴろげに笑ってくれる。
 するとシキが言った。
「父です。リュウキ・リュウ宮医です」
 アマーリエは目を見開く。
 宮医、つまり医局の責任者だ。慌てたアマーリエに、からからとリュウは笑う。
「これはこれは、驚かせてしまったようですね。宮医の位を賜っておりますリュウと申します」
「あっ、アマーリエ・エリカです。お邪魔して申し訳ありません」
「ご丁寧にありがとうございます。どうぞ私のことはお気になさらずに。お茶でも飲んでゆっくりしていってください」
 そう言うと、本当に忙しいらしく、出たり入ったりして、気を使ったのか戻ってこなくなってしまった。
「すみません、父は誰にでもああいう感じで……」
「いいえ。素敵なお父様ですね」
 彼とハナとリュウが家族であることを、今更ながら考えてみるアマーリエだった。豪放磊落な印象のリュウと、小柄できびきびしているハナ、穏やかで思慮深いシキという三人家族は、とてもバランスが取れていて素敵だと思う。
「母に訊きたいことってなんですか?」
 湿布薬を袋に詰めながら、少し嬉しそうな顔をしてシキが尋ねる。
「ウスベニソウとウスベニクサの違いを、表記の問題なのかどうか知りたくて。先生、ソウの方もクサの方も仰っていたから、違うものなのかなと思うんだけれど……」
「ああ、それは別物ですよ。若いものをクサと呼んで、花が咲いたものをソウと呼び分けているんです」
 なるほどと頭の中にメモを取る。シキは、アマーリエが医官の初級教本を使っていることに気付いたらしく、他の質問にも淀みなく答えてくれた。
「……うん、質問はこれで全部だから、ありがと、うっ、いたた……」
 腰のあたりが引きつって呻く。座っているだけでも筋肉を使うのだということを実感する痛みだ。
「痛みますか?」
「大丈夫です、湿布をいただいたし、帰って貼ります」
「分解しないでくださいね。効力が変わりますから」
 アマーリエはきょとんとシキを見た。
 もちろん部屋に帰ってから、どんな薬なのか確かめるために分解しようと思っていたのだけれど、どうしてわかったのだろう。
 その疑問が顔に出たのかシキは噴き出した。そして隣の部屋から薬草を持ってくる。
「薄荷です。庭に生えている薄荷草を煮詰めて抽出したものですよ」
 ペースト状のそれを受け取って顔を近付けてみると、キャンディやガムにもある、鼻がつんとする冷たい匂いがする。若干青っぽいのは生の草だからだ。
 もう一方は加工される前の植物の状態だ。こちらはもう少しぱりっとした新鮮な香りがする。
「よろしかったら持っていきます? ああそうだ、香り袋もあった」
 この部屋で薬以外のものを探そうとするのは至難の技なのかもしれない。激しい散らかり方をしているわけではないけれど、かなり物が多いのでシキはなかなか目的のものを見つけられないようだ。
 ぼんやりと彼が動く姿を見ていると、目の前に黒い覆いが降りてくる。思考力を奪う眠気に瞼を下ろしながら思う。
 このまま勉強して何になるつもりなのか。
 きっと何にもなれないけれど、ここで生きていくために必要なものはなんとしても身につけなければならない。
(早く一人前にならなくちゃ……)
 役に立つことができれば、誰も居場所を奪うことなんてできないのだから。


 シキが振り返ったとき、リリスの高貴な女性は、椅子の上でゆらゆらと船を漕いでいた。何か聞こえた気がしたのだが、もしかして寝言だったのだろうか。
「ありゃあ」
 間抜けた声で父が言う。きちんと眠っているのか確認するために近付くのは、医者としての習性みたいなものだろう。しげしげと顔色などを見て、ため息をついた。
「お疲れだったんだなあ。熟睡だ」
 シキも少女ともつかない幼い顔を見遣った。化粧をほとんどしていない彼女は確か十九歳。きっと数年も経てば素晴らしく透き通った印象の美しい人になるだろう。
(教養を身につけるために毎日忙しくして、一生懸命なんだな。僕にも何かできればいいんだけど……)
「そんなに寝顔を見つめていると、不敬罪だって天様にお叱りを喰らうぞ」
 リュウが笑いながら囁いて、シキはぎょっとなった。
「と、父さん!」
 大声をあげそうになってとっさに声を抑えるが、リュウはがっはっはと豪快に笑い、部屋の外で待機している女官を探しに部屋を出て行く。
 熱くなった頬をこすりながら思ったのは、いけない、ということだった。
 この人は主君の奥方で、政治的な意味を持ってここに来た。何か手伝ってあげたいと思うのは悪いことではないはずだが、それ以上の感情を持つのは危険だ。
 もし彼女が行儀見習いの女官や、どこかの家の令嬢だったりしたなら、胸に芽吹きかけた思いを摘み取ろうとは思わなかっただろう。それは彼女が真夫人らしくなく、笑い、照れて、戸惑う普通の少女だったからだ。手の届く普通の少女のように錯覚してしまったのだろう。
 シキは息を吐いた。それでも、彼女が自分を知人として認識してくれるのなら、喜んで知り合いや友人の役でありたいと思うのだ。そのくらい、彼女は見ていてなんだか応援したくなるから。
「まあ、真様! 起きてくださいませ!」
 呼ばれて入ってきた女官が、驚いた様子でアマーリエに近付く。そこへシキは声をかけていた。
「よかったら僕がお運びしましょうか。寝かせて差し上げたままの方がいいと思うんです」
 確か女官の中でも位の高い彼女は、じっと値踏みするようにこちらを注視した後、寝息を立てる主人を見遣って、承諾の息を吐いた。
「……毛布に包んでお運びしてください。玉体に触れたら承知致しませんゆえ、お気をつけくださいまし」
 シキは言われた通り、アマーリエを毛布で包み、顔が見えないようにして抱き上げた。
 ヒト族の少女は、体温が高く、軽い身体の持ち主なのだな、と思った。

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