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 今朝はベッドの真ん中で目が覚めた。
 ここ数日、アマーリエはベッドを占領した状態で朝を迎えている。深夜ふっと目を覚ますことはあって、夢うつつに人の気配を感じていると髪を梳かれるのだけれど、朝になるとそれはアマーリエの夢だとでもいうように誰の姿もないのだ。こんなに優しくされたことがないというくらい気遣いに満ちたその手を、夢の中でも望んでいるのだと気付かされるようで、ため息が出る。
(忙しいとは聞いていたけど、まったく顔を見てない……)
 何もしなくていいと言われた。そのつもりはないから、この部屋にやってくることがないのだろうか。どこで休んでいるのだろう。王宮は広いから眠るための場所なんていくつもあるのかもしれない。
 それでもアマーリエを優先して自分をないがしろにしているのだとしたら、気持ちが収まらなくなる。
(そういうのは寝覚めが悪いって言ったのに)
 小さな苛立ちはため息をした。ここで怒る権利はないとわかっていたからだ。
 今日の衣装は空色のものだった。髪飾りは控えめにしてもらう。同じことを毎日頼んでいるので女官たちもすっかり慣れた様子だ。
 朝食を終えると一服しながら、その日の予定を確認する。この日は初めて、アマーリエの医学を教えるという人物がやってくることになっていた。

「真様、お初にお目もじ仕ります。ハナ・リュウと申します」
 耳元で切りそろえられたまっすぐな髪をさらりと揺らし、彼女はアマーリエに向かって頭を下げた。
 ハナはこの王宮に所属する医官、その長である宮医と呼ばれる人物の妻なのだということは事前に聞いていた。彼女は夫共々医師として王宮に仕えながらも、時折外に出て診察を行ったり治療を施したりするのだという。
 顔を上げた彼女は、目が大きく、少女のように稚い顔立ちの小柄な人物だった。ちゃきちゃきと働くのだろうと思わせる溌剌とした空気をまとっている。
「よろしくお願いします。アマーリエ・エリカです」
「こちらこそ、よろしくお願い申しあげます。最初に確認したいのですが、私が真様にリリス医学の講義をする、ということでよろしいですか?」
「はい。私は都市の大学で医学を学んでいた学生でした。その延長で、ここでも医学を学べないかと思ったんです」
 するとハナは少し困った顔をする。
「ですが医学といっても、リリスと都市では大きな差があるでしょう。こちらでは機械を用いることがありませんし、薬草や毒と人体の知識を持つことが最も重要だと考えられています。真様が学びたいとお考えになっている内容ではないかもしれないということは、ご理解いただいていますか?」
「はい」
 アマーリエは頷いた。
 都市での常識はリリスの国では通用しない。これまでの知識はきっと基礎くらいしか役に立たないだろう。だから教授してくれる人物に従おうと思っていた。
 けれど一つ聞いておきたいことがある。
「あの、実は都市で使っていた教科書があるんです。これを見ていただけませんか?」
 所有を許可すると言われて戻ってきたそれを机から取ろうとすると、すぐにアイが動いて手渡してくれる。
 このやり取りに、まだ少し慣れないでいる。手鏡を探せば大きなものを捧げ持ってくれて、喉が渇けば水やお茶が出る。自分で動く必要がないというのは、便利だけれど居心地が悪い。
 それはさておき教科書をハナに差し出すと、両手で受け取った彼女は表紙を眺め、それを開いて読み始めた。ぱらぱらと数ページ捲り、何か考えるように動きを止める。
「目次にある三章まで学習しました。残りは二年間かけて学ぶ予定でした」
 そっと説明を添えると、ハナは大きく頷いた。
「しばらくお借りしてもよろしいですか? 内容を確認して講義の予定を立てたいと思います」
「どうぞ、お持ちください。許可はいただいていますので」
 ハナは顔を綻ばせた。
「都市医学に興味があったので、こうして学生向けの教書を手にすることができて嬉しいです。リリスは閉じられた土地でしたから、独自の医学の発展を続けてきました。ここに新しい知識を取り込むことができればさらに発展できることでしょう」
(この人は自分の仕事がすごく好きなんだ……もっと知りたい、勉強したいって言っているように聞こえる)
 ヒト族の知識だからと排除したりせず、自身の知識とリリス全体の発展のために、貪欲なまでに知ろうとする姿は、医師というよりも研究者という方がしっくりきそうだ。
 実際に彼女はアマーリエに、都市でどんな勉強をしてきたのか尋ねられた。授業形態から医学生になるまでの過程、ヒト族の医療レベルや一般人の常識まで話題は多岐に及んだ。正午近くまで続いたそのやりとりのおかげで授業方針も大方決まり、アマーリエが学ぶのはリリスにおける一般的な治療師となるためのカリキュラムと決定した。
 大学の講義でも、学期における初日の講義は雑談で終わることが多いので、顔合わせだけで終わるのはなんだか大学を思わせて懐かしい。次回は明後日にと言って、ハナは昼食前には退出していった。

 午後からは女官たちと王宮を歩き回る。
 こうして過ごしていると一人になる時間はまったくないことに気付かされる。懐に入れた携帯端末のことを思うのは、メールが来ているだろうか、電話がかかってきていないだろうかと考えてしまうからだ。
 じきにバッテリーの残量が零になるだろう。そう思うと早く電源を入れたくて仕方がない。けれど一人になりたいなどと言えば、アイたちが嫌な思いをするのではないかと思って切り出せない。
 ため息を隠しながら歩いていたときだった。
「まあ、クロだわ!」
 一人の女官の歓声に、他の女官たちも一斉に外の見える廊下へと走り出ていってしまう。アマーリエが近くに行くとすぐに道を開けてくれる彼女たちは、今日は上司に当たる女官に注意されてようやく場所を空ける、という興奮ぶりだった。
 王宮内にはいくつか広い場所がある。そのひとつ、正門に近い場所に多くの馬と鎧姿の武官たちが待機しているのだった。その中に二三人、黒い鎧姿の者がいる。
「『クロ』って何のこと?」
 ついに「敬語は必要ありません」と注意されたため、先日から女官たちに呼びかける際は砕けた口調を心がけるようにしている。ただ威厳を損なってもいけないので加減が難しい。
 位の高い女官、名はセリカという彼女は、敬語にならなかったアマーリエを褒めるようにひとつ頷いて、教えてくれた。
「あのように黒い鎧を身につけた武官を言います。武官の中でも特に豪傑とされる者のことで、認められるには剣の道に五十年と申しますわ」
「黒がいるなら、白もいるのかな?」
「はい」
 半ば冗談のつもりが真面目に頷かれてしまった。ファンタジー小説における白騎士ならぬ白武士といったところか。
「『白』は、最強、清浄、神聖を表す名誉の称号です。かつての族長に、神官でもあり武勇でも名高かった方がおられ、美しい白銀の髪の持ち主であったため『白』様と呼ばれたそうです。その御方が退いて以来『白』は名誉ある称号とされましたが、その名を継ぐには天様、長老方、命山の方々などに認められなければならないのです」
「いまその白様はどんな方なの?」
「残念ながら空位で、何らかの式典が行われるときは天様が代役をなさっておられます。白様は没年がわかっておりません。族長を退いた方は命山に隠居なさって、リリスにあって生き神に等しい晩年を送りますが、行方知れずとなった白様は未だ草原に生きているものとして、天様が代わりを務めるのですわ」
 そして彼女は声を潜めた。
「……実はこの白様が現れた時代には、リリスに大きな変事が起こると言われています。そのため、歴代の族長は常にその位を空けているのですわ。もしかしたら、天様の方がもっと詳しいお話をご存知かもしれません。お尋ねになってみてはどうでしょう」
 どきっとしたのは、数日まったく顔を見ていないからだ。
「ええと……うん、なんとなくわかった。ありがとう」
「どういたしまして。何かわからないことがありましたらお尋ねください」
「あの旗はリィ家の旗だわ」
 二人が話している間にも、女官たちは武官たちの気を引こうとかしましく喋ってる。
「リィ家の黒はいまはどなただったかしら」
「ほら、あの方よ、確か……」
 セリカの眉が微妙に動いたのは、彼女たちが職務を忘れて、武官に夢中になっているからだ。後で叱られなければいいけれど、と思いながら、アマーリエは彼女たちに言った。
「見に行ってみましょうか?」
「え、よろしいんですか!?」
 若い女官たちは嬉しげに声を弾ませた。一部の女官は「甘やかさないでください」とばかりにこっそりため息をついていて、甘いのかなあと自分でも思うけれど、一人で見に行くよりかはみんなで行った方が大胆になれることをアマーリエは知っている。
(引っ込んでばかりはだめ。少しの冒険心はきっと必要なことだって思うから)
 知らないことを知るいい機会だ。セリカもそれに従ってくれる。
「誰か靴を準備なさい」
「はい! 持ってまいります」
「真様、準備にいますこしかかるので、そちらでお待ちください」
 近くの部屋に入るよう促される。
 そこは仕切り代わりの簾がかかっているだけの、何もない板敷きの部屋だった。セリカに命じられて女官たちが出たり入ったりしていたが、そのセリカも誰かに呼ばれて席を外したらしく、アマーリエの周りは急に静かになった。
 それは久しく感じたことのない、一人の時間の静けさだった。
 気付いたアマーリエは周囲を見回し、誰もいないことを知ると、少し考えて部屋を抜け出した。見咎められたときには少し探検するつもりが迷ったのだと言い訳しようと考えていた。
 やっと一人になれた。そう思うだけで緊張が緩んでいく。人気のない廊下の片隅に小さくなるようにして座り込んだ。
 懐から携帯端末を取り出して電源を入れた。ぶるぶると震えて起動した端末は、すぐにメールを受信し始めた。
(電波が届くんだ!?)
 じんわりと目が熱くなったのは、点灯する画面が眩しいからだけじゃない。
 急いでメールを確認すると、退学について知らない何人かの知り合いが、学校に来ていない様子だがどうしたのかを尋ねてきていた。連絡してほしいと顔文字をあしらったメールがあったり、どうしてもいいような笑い話をしながら最後にアマーリエを心配する内容だったりして、わななく唇を引き結ぶ。
 まだ、繋がっている。
 込み上げるものを堪えて、メールには元気だということ、しばらく会えないこと、なかなか返信できないがまた連絡してほしいということを書いて、送った。悲観的にならないように、顔文字を使って明るく装飾する。
 携帯端末の熱か、自分の手の熱かはわからないけれど、手の中にある機械はとても温かかった。冷たくなって瀕死になっていたアマーリエの未来を、なんとかして生かそうとしてくれているみたいに。
「そこで何をしている!」
 不意に響いた怒声に凍りつく。
 メールを書くのに必死で近付いてくる人の気配に気付いていなかったらしい。どたどたとやってくるのは中年の見た目のリリス族の男性の三人組だった。
 この年齢だから、もしかしたら政治を司る身分の高い人物なのかもしれない。携帯端末を受け取ったとき、見つからないようにと言われたことが思い出されて血の気が引いた。
 携帯端末を隠すようにしたのを見咎めて、彼は目を吊り上げた。
「その手の中のものはなんだ。そもそも何故ヒト族がここにいる!?」
 有無を言わさぬ強い口調だった。値踏みをするようにこちらを見回してくるのは、どんなに美しい顔立ちであっても気分が悪くなる。彼の目にはきっとこの衣装がどれほどの価値のものかわかっただろう。それを着ているアマーリエを貧相だと思いながらも何者かと考えているはずだ。
 怒りがふつりと湧いた。ヒト族の娘がリリス族の衣装を着ているのはそんなにおかしいか。
「私は、ここに住んでいます。真と呼ばれている者です」
「なに……?」
 そこで初めてアマーリエの正体に思い当たったらしい。後ろでじろじろ見ていた二人も驚いた様子で目を見交わしている。
 だが先頭の男はそれでも、アマーリエは取るに足らないものだと判断したようだった。
「……それはそれは、大変失礼致しました。しかし真様、その手にお持ちのものはなんですか? まさかヒト族の機械ではありますまいな?」
 嫌味でも丁寧な口調を用いられれば、反抗してもアマーリエの立場を悪くするかもしれない。アマーリエが手にしているのがどんな機械か、彼らに理解できないとしても、不審な行動を見咎められたのは事実だ。
 きっと取り上げられる。きっと報告される。
 でも絶対に誰に渡されたのかは言わないと心に決める。
 薄ら笑いを浮かべる彼らを強い意志を持って睨み据えた瞬間だった。背後から伸びた手がアマーリエの身体を抱き寄せた。

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