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 曲がり角に来ると一度立ち止まり、行く手に誰の姿もないことを確認してから、歩みを再開する。一緒に来てほしいとお願いしたアイは、そんな不審な行動を繰り返すアマーリエを不思議そうに見て、言った。
「何か、願掛けですか?」
「あ、えっと。ううん、そういうわけじゃないんだけれど……」
 携帯端末のことと自分のコンプレックスの話題になるため、先日会ったあの青年のことは設明できていない。だから彼を避けるため、常に警戒しているのだということは、女官の誰も知らないことだった。
 しかしこのように行動が不審すぎるのは評判を落とすかもしれないと思い直し、姿勢を正す。
 ハナ・リュウを訪ねることにしたのは、先日貸し出した教科書の追加分を見つけたからだった。参考文献に価するものだが、あった方が理解が深まるだろう。本当は彼女の自宅に伺うつもりだったのだが周りからだめだと言われてしまい、こうして仕事場である医局に向かうことにしたのだった。
 だめだと言われたものは、ここでは覆すことができない。少なくともアマーリエはまだそれを可能にする力を持っていない。
 アイの案内で文部にある医局をたどり着く。
「こんにちは……」
 そっと覗いたアマーリエは、室内の風景に息を飲んだ。
 どの壁も天井まである棚と引き出しで埋め尽くされている。部屋の中央部には大きな机が数台置かれていて、乱雑に本が積まれており、調合に使うのだろう道具が散らばっている。甘いような辛いような香りは薬草と水だろう。
 まるで実験室のようだ。驚き、けれどわくわくしながら、部屋に入ってぐるりと見回していると、棚の真下にある扉から眼鏡をかけた男性が姿を現した。
 髪を一つに縛って大きな丸眼鏡をかけている姿は、男性にしては細く、理系や美術系の大学生のように見えた。
 彼はアマーリエに気付いて、ぱちぱちと瞬きをしている。
「もしかしてお待たせしましたか。何の御用でしょう?」
「ハナ・リュウ先生はいらっしゃいますか?
「ハナですか? いいえ、いまは出ています。御用なら僕がお聞きしますよ」
 応対に慣れた笑顔は、どこかの研究室の院生のようだ。だからアマーリエは緊張することなく、持ってきた本を預けることができた。
「ハナ先生に、この本を渡していただきたいんです。追加することになって申し訳ない、と伝えてくれませんか?」
 フィルムがかかったつるつるした表紙が気になるのか、彼は不思議そうに受け取った本を眺めている。そしてふと、大きく目を見開いてアマーリエに言った。
「もしや、真様でいらっしゃいますか?」
「はい」
 頷くと、彼はますます大きく目を見開いて、一歩探り、膝をついて叩頭した。
「これは、大変失礼をいたしました!」
 怯えたのはアマーリエの方だ。
 狼狽えてアイを見るが、彼女は彼の態度を当然と思って何も言わない。これはアマーリエの浅慮と理解不足が招いたことなのだった。
「いえあの、止めてください、立ってください!」
 なんとか立ってもらい、微笑んだ。
「驚かせてしまってすみません、私こそお仕事のお邪魔をしてしまって……」
 部屋の隅を見やると、硝子の管を通った蒸気が、容器に少しずつ水を満たしている道具がある。ほかにもフラスコ、メスシリンダー、アルコールランプ。コルクで蓋をした試験管の中には白い欠片が沈殿している。きっと名称は違うだろうけれど、どこか懐かしさを感じされる道具の数々に目を細めていたときだった。
「……興味がおありですか? 見学、されていきますか?」
 優しい目をして提案され、アマーリエはおずおずと言った。
「……いいんですか?」
「もちろんです。ここは真様のためのお薬も準備していますから」
 こほんとひとつ咳払いをした彼は話し始める。
「ここは医局の仕事部屋のひとつで、共有の広間になります。調剤室には別のところにもあって、薬事に関する事柄を集めた書物や、患者の記録を保管する図書室もあります。図書室は関係者以外立ち入り禁止です」
 こういうものを集めているんです、と彼が机の上から本を取り上げて渡してくれた。和紙を紐で閉じた冊子を開くと、解熱剤や胃薬などの作り方が書かれている。
「この部屋にある引き出しの中はすべて薬草です。種類ごとに保管してあって、ここにあるものはすべて、天様や真様といった方々にしか使われません」
「こんなにあるのに、ですか?」
「天様方に何かあったとき、薬草の備蓄がなくて治療ができない、なんてことにならないように常に準備されているんです。王宮内官の治療には、こことは別の場所に保管しているものを利用します。医務室も別ですよ」
「どういう相談が多いんですか? あの、答えられる範囲で」
 医師として知り得た患者の秘密は他者に明かしてはならない。倫理的な問題を懸念しつつ尋ねると、彼はおやという顔をした。アマーリエが配慮したところが引っかかったらしい。
「ひどい打ち身や切り傷、高いところから落ちたとか、頭を打った、という訴えが大半ですね。リリスの成人は滅多なことでは風邪を引きませんし、小さな傷くらいならすぐに治ってしまいますから、やはり重篤な状態や、内臓や脳に影響を及ぼすと考えられる症状を診ることが多いです」
「医療費ってどのくらいかかるんですか? お医者様の数って行き渡っているんでしょうか」
 長くなると思ったのか、彼は椅子を持ってきてくれてお茶を出してくれた。ハーブティーのようなすっきりとした味わいのお茶だ。美味しいと言うと、彼は嬉しそうに笑っていた。
(そういえば、名前、聞いてなかった)
 人心地ついてようやく礼儀を思い出し、尋ねる。
「あなたは、宮医さん?」
「いえ、ただの医官です。両親の助手をしています」
 そこまで言って彼は名乗らなかったことを思い出したらしく、慌てた様子で頭を下げた。
「申し遅れました、シキ・リュウと申します。ハナ・リュウの息子です」
「えっ……」
 絶句すると、彼は穏やかな愉快を浮かべて言った。
「ハナはこんなに大きな息子がいるようには見えなかったでしょう」
「はい、だって、ハナ先生って……」
 若い、と言いかけてはっとなる。
 そうだ、寿命のせいで老化速度が遅いのだ。
 百歳になれば長寿と言われるヒト族の都市で暮らしていた自分に、リリスの寿命と外見を常識と思うのは、まだまだ難しいようだ。
「……私、まだ慣れていなくて……」
「僕もヒト族の方にお目にかかるのは初めてです。リリスに比べて刹那のときを生きるヒト族には、いったいどんな風に世界が見えているんだろうと思ったこともあります」
 刹那。瞬きのとき。一瞬。
 リリス族に比べてヒト族の時間は短い。でも逆に、リリスにはこの世界はどんな風に感じられているんだろうとアマーリエは思った。
「人生は、長いですか?」
 彼は微笑んだ。
「案外、短いですよ」
 リリス族であっても短いと思うのかと目を見張る。
「ところで、真様はお幾つなんでしょう。窺ってもいいですか?」
「あ……はい。十九です。シキさんは?」
「僕は二十五です。……ヒト族の方って、二十歳前後だと真様のような外見が一般的なんですか?」
「ええと……身長も体重も女性の平均くらいで……でも外見はあんまり大人っぽくは見られないかと……」
 思い浮かべたのは都市の友人たちだ。オリガは実年齢より年上に見られ、リュナは逆に年下、キャロルは一般的で、ミリアは化粧が濃くなると年齢不詳だ。彼女たちと比べるとアマーリエはリュナとキャロルの間、どちらかというと幼い印象になるかもしれない。
「そうなんですね。ヒト族は外見の老化がほとんど止まらないと聞いたことがあります。一年もあればすっかり変わってしまうんでしょうね」
(時間が止まったような国で、私だけが老いていく)
 あの美しい彼の隣で、アマーリエだけが変わる。
 ひんやりとした不安が忍び寄ったが、すぐに掻き消した。想像したくなかった。
「……お疲れですか? そろそろ戻られますか」
 シキの視線の先には控えているアイがいる。そういえばずっと彼女をここに留めておいたままだと気付いて、席を立つ。
「ごめんなさい、アイ。シキさんもすみませんでした。お邪魔しました」
「いいえ。お話しできてとても楽しかったです。よろしかったらまたどうぞ」
 心からそう言ってくれているとわかる、優しい笑顔だった。お土産にさきほど飲んだお茶の葉をもたせてくれる。気を使ってもらって申し訳なく思い、何かお礼ができないかと思ったけれど、いまのアマーリエには自分のものと呼べるものがほとんどなかった。
 せめて椅子を片付けようとするとそのままでと言われてしまう。シキが深く頭を下げて見送ってくれるのに何度もお辞儀をして、アマーリエはアイにも詫びて、医局を後にした。


 翌日の授業で、ハナは「ありがとうございました」と言ってアマーリエに教科書を差し出した。
「えっ……もう読んでしまったんですか?」
「はい。とても興味深い内容ばかりで、時間を惜しんで読み耽ってしまいました」
 ハナは照れて笑っている。いやそれよりも、たった二日で読了するなんて驚異的すぎる。都市の大学生が四年以上かけてカリキュラムを組んで学ぶことを、この人はすっかり吸収してしまったらしい。
(……ううん、二日で理解するなんて無理がある。理解するための下地があったか、元々都市の医療について知っていた……?)
 疑ってしまうがハナは「素晴らしいです」と感嘆のため息をついている。
「都市の医学は進んでいると、よくわかりました。これを学生が所持しているとは驚異的ですね。実に羨ましいです。これなら私がお教えすることをさらに補強してくれると思います。どうぞご活用ください」
 余計なものを持ち込んだと怒られる可能性も考えていたのだが、役立ったようで安心する。だからますます、医療に携わる人たちが都市の医学を理解している可能性を疑ってしまう。
(もしそうだとするなら、ヒト族の文化を持ち込んではいけないのに、どうして医学だけ許されているんだろう?)
 考える時間が欲しかったが、ハナが本題に入ったので、その件については一度棚置きにするしかないようだった。
「改めて――真様にはこれから、治療師になるために学んでいただこうと思います。王宮医官とまではまいりませんが在野の賢者、薬を調合し、毒の知識を持ち、応急処置を施すことができる知識と技術を身につけていただきます」
「はい。よろしくお願いします」
 背筋を伸ばしたアマーリエが答えると、ハナは深く頷き、持参していた医療道具を広げ始めた。
「まずは実践です。早速、これを飲んでみていただけますか?」
 あっという間に薬を煎じ、アマーリエに差し出す。お猪口の中には不透明の緑の液体が満たされていて、見るからに苦そうだ。断るなんてできるはずもなく、恐る恐る口をつける。
 途端、口の中いっぱいにじわじわと苦味が広がり、堪えきれず渋い顔になってしまう。
「これは一般的な解熱剤です。調合は……」
 顔をしかめている場合ではない。慌てて書き留めようとするが、筆記具はもちろん使い慣れたシャープペンシルではなく小筆なので、余計に時間がかかってしまう。書写など小学校以来で、メモの字はひどいものだった。
「では実際に調合してみましょう」
 乳鉢、薬草を刻むための小刀、鋏。必要な薬草と水は事前にハナが準備してくれていた。支持されるままに道具を使うが、調合は案外簡単だった。なんだこれならできるかも、と安心したが、甘かった。
「飲んでみてください。一口だけで結構ですよ」
(また苦いのかな……)
 ちらりと思ったのが顔に出たらしい。ハナの目が冷たくなった。
「ご自分で飲む覚悟で調剤を行ってください。これを飲むのは自分よりも弱っている患者です。万が一の間違いがあってはいけないこと、心得てください」
「すみません!」
 自分で口にできないものを他人に飲ませてはならない。当然のことだ。責任を持たなければ、命を軽々しく扱っているのと同じことだ。
 己を戒めつつ、初めて調合した解熱剤を舌に載せた瞬間、アマーリエは飛び上がった。
 さきほどの薬が甘かったと思えるほどに、苦い。歯茎を刺すほどに苦く、舌が機能しなくなるほどの痺れを与えてくる。苦い。苦すぎる。
「味の違いがわかりましたか? 渋みがあるでしょう」
「は、はい……」
 泣きそうになりながら頷くと、ハナは乳鉢を指した。残った薬草は空気に触れて黒く変色を始めている。
「すり潰すのに時間がかかってしまったので、こうなるのです。この薬草は長時間空気に触れさせると苦味が増します。手早く作業を行ってください」
「はい……」
 こっそり指先で涙を拭っていると、どさどさどさ、と薬草の束が目の前に降ってきた。
「準備は万端ですから、いくら失敗しても大丈夫です。さあ、もう一度」
 可憐な笑顔でハナは言った。

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