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 廊下に控えていたアイを連れて部屋に戻ってくると「おかえりなさいませ!」といつもよりきらきらしい声がアマーリエを出迎えた。何か違うと感じた足が、部屋に入る前に自然と止まる。
「早くいらしてくださいませ」
「さあこちらに!」
「ただいま、いったいどうし、…………すごい、どうしたの?」
 隣室に連れて行かれたアマーリエは、そこに広げられた一面の衣装や装飾品に目を奪われることになった。
 まるで店のようだ。普段着以上の、金糸銀糸の縫い取りの施された見事な衣装ばかりで虹のごとき種類があり、帯などはものすごく手が込んでいて、簪には真珠が連なっている。
「真様」
 見惚れていたアマーリエは、いつの間にか包囲されていた。
 後ろにはアイたち、前には他の女官たちと、逃げ場がない。がっちり後ろから肩を掴まれ、痛いですと言いたいのだが、声を出すのも恐ろしい雰囲気が漂っていて、なあにと引きつった笑顔で問いかけるのが関の山だ。
「明日は礼儀作法をご指導くださる、ミチカ・サコ様がいらっしゃいます」
「ミチカ・サコ様と言えば、天様やライカ様に教師役を務めたこともある御方。天様が就任されたときに隠居の身となられましたが、今回特別に真様にご教授くださるとのこと」
 厳しそうな先生を想像してしまったが、いまのアマーリエにはアイたちの笑顔の方が怖い。
 後ろに下がることもできず、迫り来る彼女たちの笑顔に悲鳴を飲み込んだ。
「サコ様にお会いする以上は、見た目も完璧に整えておかねばなりません。あの方のお眼鏡に適わねば、お話しすることもできませんから」
「は、はあ……?」
「つまり、真夫人として、天様に並び立つのに申し分のないお姿でなければならないということです。……つきましては」
 アマーリエの腕に、腹部に、腕が回る。つきましては、の続きをあまり聞きたくなかったのだが、彼女たちはアマーリエをしっかり捕らえていた。
「本日は予習といたしまして――お召替えを」
 美女たちが迫る。
 いつも控えめにと言っているツケが来たのだと悟ったアマーリエの叫び声が、虚しく響いた。


       *

 仕事もそろそろ終わろうかという絶妙な頃合いだった。
「真様のご様子は如何ですか?」
 キヨツグが目を上げると、世間話といった態で問いかけたユメが微笑んでいた。
 誰も彼もあれを気にするのかと、従弟マサキの顔が浮かんだ。途端にかすかなむかつきとざわめきを覚えるが、すぐに消す。
 妻となった娘の様子は、側につく者たちから定期的に上がってきている。起床はそれなりに早く、朝食後はいくつかの授業を受け、午後からは散歩に出たり茶を楽しんだりしているらしい。腰の低いところは仕方がないが、親しみやすい主だと女官たちは捉えているようだ。
「特に問題はない。摩擦の気配もないゆえ、近々公務に出しても支障なかろう」
 だがまた怯えさせ、無理をさせることになるのだと思うと憂鬱になる。
 だから夜、ゆっくり眠らせてやることしかできないのだ。彼女が寝入った夜遅い時刻に様子を見に行って、寝台の端で小さく縮こまる身体を解き、凍えないように毛布で包んでやることしか。
 物思いを止めたのは、ユメが呆れた目をしてこちらを見ていたからだった。
「なんだ」
「……それだけでございますか」
「それ以外に何がある」
 軽く眉を寄せるとユメは首を振った。
「間違っても、真様にそのようなことは申されませぬよう」
 どうやら期待されていた答えではなかったらしいが、キヨツグにはそれ以外のことを明かすつもりはなかった。
 ちゃんと一人の人間として扱ってやりたい、心安らかに過ごさせてやりたいと思っていること。だが彼女は真夫人という身分を持ってここにいるゆえに、それをうまく与えてやれないでいる。
 だからあんなことを言った――役目以上は望まない。無理強いはしない。
 その心を守るのは、彼女を望んだ己の責任だ。
「…………」
 呼び声らしきものが聞こえて、キヨツグは顔を上げる。ユメも気付いたらしくさっと警戒を滲ませる。
「確認して参りまする」
 だが出たところで知らせに行き合ったらしく、すぐに戻ってきた。
「恐れながら」
 緊急事態ではなさそうだが、ユメは非常に言いにくそうに言葉を詰まらせて、言った。
「真様のお姿が見えないそうにございます」
 思わず腰を浮かしかけると、慌てた声でユメが続ける。
「なんでもお衣装合わせの最中に抜け出されたと。王宮の外に出ていないことは確認したそうですが、見つけることができていないそうです」
「抜け出した理由は」
「推測ですが……女官たちに人形のようにして着せ替えられるのに、耐えられなくなったのかと。彼女らは常々真様を着飾りたいと申しておりましたゆえ」
 度が過ぎたのだろうと言いたいらしい。
 キヨツグは座り直して瞑目した。女官の役目の者はどうしてこうも着せ替えが好きなのだと、己の幼い頃を思い出す。
「わかった。ご苦労、仕事に戻れ」
「よろしいのですか?」
「敷地を出ていないのであればすぐに見つかる」
 答えたものの、あの怯えた表情が頭に浮かんだ。
 振り払い、筆を手にするも、それは何度でも思い出されて手を止めてしまう。
 怯えた表情、ぽつりと落ちた雫の音。震える白い指先は縋るものを失い、耐えていた。
 女官たちとうまくやれていたとしても、着せ替えを断りきれずに言われるがままになり、しかしあまりの無茶にたまらず逃げ出したのだとしたら、あれはいったいどこへ行くというのか。
「…………」
 そのとき、影の中から現れるように、音もなくオウギがやってきて、キヨツグの前にあった書類を取り上げた。
「残りは明日にしろ」
 淡々と終了を告げると、筆まで奪って片付けてしまう。まるで命じるような強引さが発揮されるのは、キヨツグにとってそれが必要であるときだけだ。だからオウギには頭が上がらない。
「すまぬ」
「私も参りまする」とユメが後に続く。
 二手に分かれ、北棟にはユメが行き、キヨツグは南の門の方へと回ることにした。
 人の出入りが激しいこの辺りは、着飾った娘が歩いていれば誰かがすぐに声をかけるはずだと考え、門番や巡回に尋ねてみたが、こちらにはそういった娘は来ていないということだった。
 ぐるりと西へ歩きながら、焦りが強く胸を焦がす。
 日暮れの空のようにじりじりと悲哀と怒りが迫ってくる。逃げ出したいと思わせたのはキヨツグの不手際でもあったが、行き先を想像できない己への苛立ちが増していく。
 無理強いはしないと告げて距離を置いたのは、過ちだっただろうか。
 だが早く見つけてやらねば、草原の夜は冷たい。寒い思いをさせたくはないと、自分を小さく抱えて眠っていた姿を思いながら、その影がどこかに隠れていないか目を凝らす。
「おや? 天様」
 だがその他には意識を向けずにいたため、声をかけるまで彼が近くにいたことには気付いていなかった。
「……カリヤか」
 イン家の長老。妻に家長の座を譲り、彼自身は若くして長老となった変わり種だった。
「こんなところで何をなさっておいでですか。散歩、いやそれにしてはもう暗いですがね。今夜の寝床を物色しに、ですか」
 くすりと笑ったこの男は、どうやらキヨツグが寝殿に出入りしていないことを知っているらしい。
 族長就任に前後して、彼とは因縁があるキヨツグだった。なにせカリヤは、キヨツグの族長としての能力を疑う不支持派の急先鋒なのだ。
 不支持派の言い分は「族長に権力が集中するのは如何なものか」「各長老家、領主家の権限を拡大すべし」というものだったが、キヨツグがヒト族の娘との結婚を強引に推し進めたことで、族長による独裁だと糾弾し、勢いを増している。
 不支持派にはもっと過激な論調を用いる派閥もあるが、おおよその手綱を握っているのがカリヤだった。彼は情報に通じ、用意周到だ。いまとて王宮で何が起こっているか察知しているからここにいたのだろう。
「真様でしたら、そこの物見の上におられますよ」
「…………」
 それをキヨツグに言うためだけに待っていたらしい。黙って見つめ返すキヨツグに含み笑いをしながら、彼はゆっくりと背中を向ける。
「老婆心ながらご忠告申し上げますが、花嫁の行動にはくれぐれもご注意を。真様は、どうやらリィ家のマサキ殿と交流を深めているご様子。お部屋から笑い声が聞こえておりましたよ。歳が近くて、きっと気が合うのでしょうね」
「それくらい、知っている!」
 苛立ちが唸りになった。短く吼えたてるように告げる。
 カリヤを捨て置き、西の物見台へ足を進めた。
 マサキと会ったこと、部屋に行ったことは耳に入っている。気が合ったらしく親交を深めていることも。だがそれを他人に指摘されると、小さな炎が腹の底で燃えるのだった。
 マサキは明朗快活。人の扱いが上手く、開けっぴろげな言動が裏を感じさせず、付き合っていけば面白い男だった。彼女がマサキを気に入り、楽しく過ごしているというのなら喜ばしい。
(だがあれは、私の妻だ)
 物見を見上げれば、ひらり。蝶の羽か天女の羽衣のように、錦の裾がはためいていた。


 巡回中の武官は、半ば呆然としていたカリヤを見つけ、呼びかけた。
「カリヤ様」
 そしてカリヤの視線の先を追って、さきほどでそこにいて物見台へと歩み去っていく主君を見て、はああとため息をついた。
「いまの、天様のお声ですか? 驚きました。あの方があんなに大声を出されるなんて」
 めずらしいですねえと笑うが、カリヤは何も言わず背を向けた。武官はその無表情と怒りを表した荒い歩調に、目を瞬かせて空を仰ぐ。
 冷静沈着を体現したような男がふたり、感情を表したのは、じきに槍でも降ろうかと思ってのことだったが、頭上には、冬の日に素晴らしく美しく澄んだ夕空が広がっていた。今日はいい日だったし、明日もきっといい日になるだろう。そう思って、自らの仕事に戻るのだった。

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