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 部屋に戻りながら見上げた空は雲に覆われていた。風の流れが速いのか、時折青空が垣間見え、薄く伸ばした雲を通して不思議な色に輝いて見える。
 雲が覆っては風が吹いてそれを払い、また雲が集まっては風が吹き払う。
 雨が降り出したのは、アマーリエが部屋に戻り、淹れてもらったお茶を飲もうと器を手に取ったときだった。
「まあ、大変!」
 アマーリエにつられて空を見たアイが、びっくりするような声で言った。
「天気雨だわ。小さな神が嫁がれるわよ、あなたたち!」
 そうして現れた女官たちと慌ただしく外に出て行ってしまう。タイミングを逃してしまったアマーリエは、ようやく一人を捕まえて尋ねた。
「何かあったの?」
「ええ、はい、天地を行く者を寿がねばなりません。真様、準備が整うまでお待ちくださいませ」
 おざなりにも思える答えを残して、彼女も忙しそうに行ってしまう。
 ぽつんと一人残されたアマーリエは、さらさらと細かな雨が降る窓辺に寄って行った。
 そういえば天気雨には、天空の者と地上の者が婚姻した証なのだという言い伝えを聞いたことがあった。もうずっと昔、まだ母と一緒に暮らしていた頃に読んだか聞いたかしたお話だったはずだ。いくつかパターンがあって、狐が嫁ぐという話もあったように思う。
 ヒト族にとってはお伽話でも、リリスにとってはまだ生きている伝説なのだろう。もしかして天空のものだったというリリスに密接に関わる何かなのかもしれない。後で聞いてみよう。
 そう思ったとき、空が開かれるように、さあっと周囲に光が差した。
「……あ……!」
 口を開けて見入る。
 空は太陽の光を塗ったような色に輝き、銀と金の雲に彩られている。風が雲を動かし、太陽の光の位置を変えると、大地にそれが梯子のように差して、世界を透き通った輝きに満たしていく。光の粒子を含んだ風がなびいたとき、ゆっくりとそれが姿を現した。
 薄雲の下に、大きな光の半円。七色の円環。
 虹だ。
「ねえ! 虹が……」
 振り返ると、誰もいなかった。
 部屋を出て廊下を歩いてみるが、みんな寿ぎとやらに行ってしまったらしい。
 しんと静まりかえる廊下は少し木の香りが強くなる。木と水と、土のにおいだ。
 せっかくあんなに綺麗な虹が出ているのに、誰も見つからない。一緒に空を見たいのに、早くしないと消えてしまうと、アマーリエは指導されたことを忘れて廊下を駆けた。
 幼い頃、天体観測の会で月を見た。
 どうしてこれを一緒に見てくれる人がいないのだろうと思った。
 どこかにいないのだろうか。私と、世界を共有してくれる人は。
 黒い髪の後ろ姿を見つけたのはそのときだった。
 刹那蘇ったのは、ひとりではないという囁きだった。
 何故か彼にはいつも引き連れている供人が一人もおらず、だからアマーリエは、背中から飛びつくように袖を引いた。
 キヨツグは険しい気配で振り返ったが、すぐに訝しそうな顔をする。
「……真?」
「に」
 に? と首を傾げているのに、思い切って言った。
「虹が、出てるんです、すっごく大きくて、綺麗な!」
 キヨツグは外を見るが、虹はここから反対側の位置にある。アマーリエは彼の袖を引いて、虹が見える場所を探した。虹が消える前にというタイムリミットが、アマーリエを大胆にさせていた。
 キヨツグはされるがままになっていたが、アマーリエが広い場所を探していることを察知して、逆に手を引いて歩き出した。
 そうして連れてこられたのは、アマーリエも知らなかった北側の門だった。さすがに門番はいなくなっていなかったが、キヨツグの姿を認めるとあっさりと通してくれる。
 その門をくぐり抜けると、そこは草原だった。庭にしては広く、けれど誰一人として姿の見えない、箱庭のような場所だ。
 大きな世界への門のように開く虹が、世界の彼方から此方へ橋をかけているのを見ることができた。雲が草原の上を行く。その影を初めて見た。
 輝く空に、アマーリエの手は届かない。
 ヒト族は天を駆ける術を封印して、地に足をつけて生きていくことを選んだ。ただ高く高く、建物だけが高く。空を目指し大地を見渡せるようにそびえ立っていった。果てを知らない、汚染された海の向こうまでを、知りたいと思って。
 ではリリスとはなんだろう。天を行く者だったというリリス。
 地上に何を見つけて、何故故郷を捨てたのだろう。
(大事なものを見つけたんだろうか……たとえばこの、虹を見たのだとしたら)
 それならば、息を吸うごとにわかる気がした。天の合間から降り注ぐ光、雫の輝き、円環の美しさ。それが故郷を捨て去っても構わないと思わせるほど、天を行く者の心を動かしたのだ。
「……天空にあるものには、魔法があるという」
 密やかな声に顔を向ける。
「……虹、ですか?」
「……太陽にも、星にも雲にも、雨にも月にも。虹にも」
 噛みしめるように彼は言う。ひとつひとつを思い浮かべることができる口調に、アマーリエも想像する。朝日と夕日。青白い星の光と青空と白雲。夜の雨、白い真昼月。天気雨の空と虹。ひとつ。ひとつ。
「……世界を創りたもう(そら)は、天を行く者に魔法を与えた。輝くもの、掴めぬもの、形は様々だが、色彩を与えられたのは天と虹だった」
 ああだから空や虹を見ると目を奪われてしまうのだな、と思った。
「……虹を見るのは初めてか」
 優しい声で尋ねられると、自分の反応が子どものようだったと気付かされ、照れ笑いが浮かんだ。
「初めてってわけじゃないんです。ただ、あまりにも綺麗だったから、一人で見るのはもったいないと思って」
 風が吹いている。
 アマーリエの髪は乱れ、走ったので裾も無茶苦茶だった。昼間のどこに出ても恥ずかしくない格好ではないし、就寝前に整えられた姿とも違う。
 でも恥ずかしいとは思わなかった。必死に取り繕っていたものが剥がれた清々しさがあった。目の前に広がる景色が、あまりにも綺麗だからだろうか。
「……真」
「はい」
「……寂しいか」
 寂しくはない。
 でも帰りたい。
 帰りたい。あの狭い空の小さな世界に。世界はもっと広いと、望めるものがたくさんあると信じていたあの頃に戻りたい。
「……私の世界は『都市』でできていたんです」
 輝く景色に影を落としていると気付きながら、アマーリエは呟いた。
「でもそれが全部変わってしまった……だから私はいま、何を持っているのかすら、わからないんです」
 その空白を見ている。宝石のない宝石箱。過去がない小説。長い長い道のりが、ぷっつりと途切れてしまった跡に、アマーリエはずっと目を離せないでいるのだ。
「だから、『寂しさ』の種類が違う、と思います。キヨツグ様が言う『寂しさ』と、私が感じている『寂しさ』は」
 恋しいと思うのは、失くしてしまった世界に向けて。
 けれど彼は人恋しい気持ちを指して言っているのだと思う。
(ああ、でも……)
 寂しさを拭うために誰かがそばにいてくれるのだとしたら、きっと幸せだろう。たとえ世界を失くしてしまったとしても、その人を拠り所にできるのだから。
 だとしたらその関係をなんと呼ぶのか。友人。家族。恋人。――夫婦。そのどれでもあるし、どれでもない気がした。
 ただ、互いの心で強く惹かれあい、結びつけられるその特別な思いは、恋と呼ばれるものだということは想像できる。
 もし、そんな風にして、寄り添い合うことが恋であるとしたら。
 そんな恋が本当に存在するのだとしたら、この世界は案外優しいところがあると思う。
「……それは」
 見上げた彼の瞳に、強く焦がれる切なげな光が映るのを、見た。
「……抱きしめれば、埋まるか?」
 反応する前に、アマーリエは胸に抱かれていた。
 長身のキヨツグは屈むようにしてアマーリエを腕の中に収めている。その身体を感じた途端、心臓を急に近くに感じて呼吸が震えた。他人に抱きしめられた記憶は遠くて、どうしていいのかわからない。
 それでも本能は、この行為が親しみからくるものではないと、叫んでいた。
「キヨツグ様」
「……リリスは、まだ恐ろしいか」
 怖くはない。いまに限らず。
 とにかく現状は驚いてはいて、不思議な焦りがあるけれど嫌なものではない。鼓動がうるさくて目眩がするだけだ。
「こ、怖くはないです。関わった人たちは、みんな優しくしてくれました。ヒト族やその文化に好意を持っているヒトもいます。マサキとか……」
 次の瞬間、突き飛ばすようにしてキヨツグが離れた。
 いや、本当に突き飛ばされたのだろうか。手を伸ばさなければ触れられない距離にいる彼の表情が変わるのを、アマーリエは驚きながら見つめていた。
 何故瞬間的に突き放したのか自問し、その自答を得て目を見開いていく。信じられないとでもいうように、何事か言葉が飛び出さないよう口を押さえている。目を逸らしたのはそこから目を背けたがっているからだろう。
 そうして、何に驚いているかわからないでいるアマーリエを、深い色の瞳で見つめた。
 キヨツグは、怖いような気配を帯びていた。
 そして最後には無表情に戻ると、くるりと踵を返して王宮に戻っていく。
 呆気にとられて見送ってしまったが、自分のしでかしたかもしれないことを思うと、アマーリエは青ざめるしかなかった。
「……怒らせた……?」
 明白だった。けれど原因はなんだ。
 アマーリエの胸を高鳴らせたまま、キヨツグは姿を消してしまった。
「アマーリエ?」
 入れ替わるように現れたのはマサキだった。
「いま天様とすれ違ったけど……何かあった?」
 アマーリエは問いをすべて聞く前に首を振った。とても話せることではないと思ったからだ。
「なんでもない。帰ろう」
「手、繋ぐ?」
 どきん、と胸が鳴ったが、アマーリエは顔を背けて歩き出した。
「無視、すんなよ」
「ご、ごめん……」
 むくれたような声に振り向かずに言って、アマーリエは足を急がせる。
 マサキの声の低さにも、彼がつかの間立ち止まって苦しげに自分を見ていることには、気付かなかった。
 抱きしめられた感触が残っているのを、腕をさすりながら感じていた。怖いくらいに胸の奥に熱を届けるそれを、誰かと触れ合うことで消したくないと考えていた。
 キヨツグが行った道は草が倒れていたのですぐにわかった。アマーリエはその道を辿りながら空を仰ぐ。太陽と風は、少しずつ雲を払い始めていた。


       *


 苛烈に自覚した。
 彼女を欲する自分を。

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