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「申し上げます!」
 執務室に慌ただしく駆け込んできた真夫人付き筆頭女官は、声と足音を乱してはいたものの、キヨツグの前に姿を見せたときには正しく膝を突き、美しい礼で族長への敬意を払った。だがその礼も、彼女の必死さを隠すことはできなかった。
「何事だ」
「真様がお戻りになりません」
 緊張が走る中、アイは詳細を語り始めた。
「本日シズカ様が主催される茶会にお招き預かりご出席されていたのですが、戻られません。シズカ様にお尋ね申し上げましたが、夕刻には解散されたとのことでした」
 時計の針が示すのは夕餉の時間を少し過ぎた頃で、すでに外界は夜に沈んで宮中には灯火が入れられている。それまでに戻れぬのなら誰ぞ使いをやるはずだろう。迷子になっていたとしても虱潰しに探した後でなければアイはここに来ないはず。
 本当に姿を消したのだとぞっとする。だがすぐに族長としての自覚で感情を殺した。考えねばならない。何が最善か。あれと接点を持つ人間は他にいないか。
「シキ・リュウ医官や、マサキのところはどうだった」
「シキ殿は、今日は真様をお見かけしていないと。マサキ様は部屋にいらっしゃいません」
「探せ」
 目を走らせ、控えているユメと護衛官たちにも告げる。
「王宮の隅々まで探せ。勤めに就いておらぬ者ことごとく捜索に当たらせよ。どんな些細なものも見逃してはならぬ」
 はっと敬礼し、護衛官たちは兵士たちに命じるために去っていく。アイも叩頭して再び捜索に走った。
 キヨツグは机の上で手を組んだ。ここで自分が動いてはならない。情報を集積する場所が必要だ。以前と違ってそう考えるのは、キヨツグ自身が、恐らく彼女は逃亡したのだろうと確信に近い推測を抱いているがゆえのことだった。
 マサキがアマーリエに懸想していることは、頭の片隅にあった。でなければあの軽薄に見えて堅実な従弟は、気付かれるであろうという危険を冒して寝殿まで忍んでこないだろう。二人の間に何があったかまでは知らぬが、なんらかのやりとりが行われたものだと考えられた。
 キヨツグは手に入れたその情報を、握りつぶした。それ以外に何が出来ただろう。責を負わせ処罰することは簡単だ。だがその結果、アマーリエはキヨツグをどう思うようになるかを考えると、見て見ぬふりをするしかなかった。
 欲しいのは心だ。恋にはならずとも、こちらを見て微笑みかけてくれさえすれば。
 組んだ手を解き、拳を作る。燻っていたものが次第に音を立てて燃えていくのを感じる。どん、と部屋が振動するくらい強く、拳を机に叩きつけた。
 鈍い痛みが広がり、拳が小刻みに震えた。手のひらには爪が食い込む。だが痛むのは手ではない。噛み締めた唇でもない。
 お前の場所はここだと言ったのに。
「天様、マサキ様を見かけたという者が」
 情報が集まり始める。アマーリエを最後に見かけたのはシズカの茶会だったというものから、彼女が緊張して顔色が悪かったこと、マサキが茶会の場所に近いところをうろうろしていたというもの、厩番がこんな時間に馬を連れていくマサキに会ったというものまで、細かい話が聞き集められてきた。
 そして、門番がマサキが二人連れで馬に乗って外に出たと言っていることを突き止めたものがいた。
 恐らくそれがアマーリエだ。
 逃亡の事実がのしかかる。戻ったところで、当然の報いとはいえキヨツグには守ってやることができないだろう。しかしそれが彼女の責任だった。
「ユメ御前。小隊を一つ連れる。支度せよ」
「はっ!」
 跪いたユメが一礼して走る。
(お前の場所はここだと……)
 目を閉じて思う。いまはただ、それだけしか考えられなかった。


       *


 軍馬でない小柄な馬では、二人乗りだと速度が出ない。だがそれでもその馬を選ぶことにしたのは、落花を連れて行けば足がついてしまうとマサキが主張したからだった。
 それでも厩番には目撃されている。すでに報告が入っているだろうと、マサキは腕の中のアマーリエに聞かせるともなく呟いていた。
 降ると思っていた雨はまだ雲の中に留まっているが、強い風と雨雲が追いかけてきているのがわかる。ところどころの雲間からまだかろうじて星が見えるが、寒々しい気配は次第に増していた。抱きかかえられた身体はひどく火照って汗をかいていたが、頬に当たる風が氷を当てられたように冷たく感じられる。震えるのは、けれどそれだけが理由ではなかった。
「もっと包まれよ」
 マサキが言う。都市はまだ遠い。アマーリエには、何も見えない真っ暗闇の場所をがむしゃらに駆けているだけのような気がした。そして、そうしているのは自分一人ではないのだろうと思い、我に返った。
(だめだ……! このままじゃ、マサキが……)
 居場所がないから帰りたいと泣いたアマーリエのわがままに、彼を巻き込んではいけない。リリスから逃げるのならば自分一人でやるべきだ。そう思って声をかけようとしたとき。
「……!」
 マサキが息を飲んだ。腕に力がこもり、手綱がぐっと握られる。
 自分たちの他に複数の蹄の音が近付いてくる。
「さすが従兄上、お早くていらっしゃる……!」
 燃えたぎるような口調でマサキが揶揄する。
 アマーリエたちがどの門から出てどの方角へ行ったのか、推測を立ててすぐさま追ってこられるというのは並々ならぬ手腕だった。アマーリエたちの左右に二騎、左右についたのはキヨツグに近しいと思われる武官だ。
「止まられよ、マサキ・リィ様!」
「天様がお越しになられる! どうかお留まりを、咎を受ける前に、何卒!」
 マサキは応えない。
「真様!」
 呼ばれ、アマーリエはびくついた。武官は覆面をしながらも悲痛な光を瞳に宿していた。責めて、いた。
「裏切るのですか、天様は、わたくしたちは、あなた様を」
 しゃんと音が鳴り、マサキが刃を抜いた。初めて見る大きな刃物にアマーリエは硬直する。稽古で使っていた木刀とはまったく違う、異様なほど白い武器だった。
「マサキ様!」
「悪いな、行かせてもらうぜ!」
 武官たちが失速する。刃を交えることは本意ではないらしかったが、マサキは本気のようだ。彼は何をも辞さない覚悟をしていて、自分はとんでもないことをさせてしまっているのだと気付き、アマーリエは悲鳴のような声を上げながら彼にしがみついた。
「マサキ、マサキ、お願い、それをしまって!」
「アマーリエ」
「誰かを傷付けたくない。あなたにそんなことさせたくない! 最初から私一人で行くべきだった。あなたは戻って!」
 そうすれば彼の咎は小さくなる。そう信じたい、どれだけ都合がよくても。
 こんなところで勇気も覚悟も足りない自分が、情けなくて悔しくて涙が滲む。
 どれだけ辛くても、どんなに苦しくても、他人を巻き込んではいけなかった。
「アマーリエ……っ!」
 がくんと大きな振動が二人を揺さぶった。右側に傾くようにしながら落馬する。ここまで全速力近くまで力を振り絞っていた馬が、何かに足を取られたのだ。
 地面に叩きつけられずに済んだのは、マサキが身を呈して庇ってくれたからだ。呻き声を聞いて急いで身体を起こし、呼びかける。
「マサキごめん! 大丈夫!?」
「……打ったけど、平気」
 頭は打っていないようで安心する。庇っている肩を見せて、と言いかけたが、こちらを追いかけてきた武官たちがその傍らをばらばらと通り過ぎ、進路を塞ぐようにして周りを囲んでいく。
 馬の脚が檻のようだった。誰も剣を掲げていないというのに、鋭い視線がアマーリエを縫い止める。
「アマーリエ、行きたいよな。この数なら突破できる。俺が合図したら、」
「それは私が許しませぬ」
 進み出た一騎に向かってマサキが舌を鳴らした。
「ユメ御前かよ。見逃して……くんねーよなあ」
 冴え冴えとした眼差しでユメは逃亡者を睥睨する。
「真様に対するあなた様の思い、確かに真摯なものとお見受けいたします。ですがその御方は我らが真夫人。あなた様の叶う方ではありませぬ」
 マサキは凄みを利かせてユメを仰ぎ、挑む。
「イン家の女当主殿。お前にならわかるんじゃないか。ここには自分の未来がないって泣くアマーリエの気持ち。別の場所に未来を求めた彼女の気持ちが!」
「答える必要性を感じませぬ。……真様が問われるなら話は別ですが」
 冷ややかであったユメに、わずかに憐憫の影が差す。目が合いそうになってアマーリエは顔を背けた。とても彼女を見ることなんてできなかったし、弁明の言葉もなかった。
 ユメは泥にまみれたこちらを見やりながら、身体を起こそうともがいている馬を気にしてアマーリエたちが怪我を負わないよう注意している。しかし手当を命じることはない。この場では彼女が指揮官だが、あくまで代行なのだ。それが、いまからやってくる人の気配を強くする。
 別働隊の蹄の音が暗闇の中から押し寄せてくる。ユメたち先遣隊は素早く下馬してそれを迎えた。
 闇の中で光る漆黒の瞳の持ち主を見て、アマーリエは、ああ、と絶望とも後悔ともつかぬ息を漏らす。黒馬を駆るその人が、雲と星に揺れ動く空を背にやってきた。
 こちらを見下ろすキヨツグは無言でいる。重苦しい沈黙に嗚咽が漏れそうになるが、ここで泣くのは卑怯すぎる。唇を噛んで溢れそうになる感情を殺すしかなかった。
「……申し開きを」
 聞こう、と彼は言った。
 アマーリエは首を振る。言葉にすれば涙が落ちてしまう。逃げておきながら泣けるものかと、自身の誇りと責任を奮い立たせていたとき、マサキが言った。
「……彼女は都市に帰りたいんですよ。いくら努力してもリリスになれないと思ったんです。確かにそうです。彼女はヒト族で、リリスじゃない。だから居場所がないって泣くなら都市に帰してやろうと思いました。俺は、アマーリエが泣くのは嫌だ」
 その瞬間、恐ろしいほどの怒気が膨れ上がった。
 周囲が緊張したのがわかる。マサキもそれを感じ取ったのか、アマーリエを庇う手が震えて強張っていた。
「それは、リリスとヒト族の同盟を知った上でのことか」
 だがそれに反してキヨツグの声音は、どこまでも同じに、平坦で淡々した感情の窺えないままのものだ。それが一層恐怖を煽る。
「……ええ」
 ごくりと喉を鳴らし、マサキは答えた。彼自身も、これが愚かな行動、どうしようもないわがままだと気付いている。
 けれど彼をここまで動かしたのはアマーリエだ。泣くまいとしながらまとまらない思考を寄り集め、なんとか彼を救えないかと考える。
(何か言わなくちゃ。何か、言わなくちゃ……)
 言葉を掻き集めても、その端からぼろぼろになって壊れていく。その焦りがますます声を奪って、アマーリエは地面に手をついて俯くことしかできない。
「……真」
 重い声。
「……お前は何を言う」
 喉がしゃくり上げて全身が震えた。痛みを感じなくなるくらい唇を噛み締める。
 自分のしたことを後悔する。苦しくてたまらなかった末の行動だったとしても、アマーリエは自身に優しくしてくれたすべての人たちを裏切った。なんてことをしてしまったのだろう。多分それは、それだけは、絶対にしてはならないことだった。
「……何故」
 しかしキヨツグの声は、思いがけず震えていた。
「……何故逃げた」
 顔を上げた、途端にアマーリエの胸の奥が叫んだ。
「何故私から逃げた!!」
 色があるなら血を吐くくらいの鮮烈さで、彼は心から泣き叫んでいた。顔は苦しげに歪められ、どれほどの痛みならこの人にそんな顔をさせられるのだろうという、激しい悲しみを浮かべていた。
「ごめ……ごめ、……なさ……」
 涙が咳を切って溢れる。
「ごめんなさい。ごめんなさい……!」
 気付かなかった。信じていられなかった。
 これほどまでに強い感情を秘めていたことを、初めて知る。ずっとそれが欲しかったのだ。義務なんかじゃなく、真実に思っていてほしいと思っていた。そして彼は思っていてくれた。
 あなたに嫌われたくない。
 なのに取り返しがつかないことをしてしまった。
 両手をつき、涙に咽ぶアマーリエの前に、影が立つ。
「天様、あなたはアマーリエに未来をやれなかった」
 挑むマサキに、違うの、と制止する言葉がもつれて形にならない。
「そんな気持ちを叫ぶくらいなら、彼女の望むものを与えればよかったんだ。リリスのしきたりとか、んなの全部捨てて、アマーリエだけを選べばよかったんだ!」
「そうして都市を模倣するのか」
 低く言うキヨツグの目には、まだ苛烈な意思が光っている。
「ここはリリス。ヒト族の国ではない。さぞ生きづらかろうと哀れにも思う。だが、真似るのが愛か? 与えるのが愛か。ここは都市ではないと気付かせた上で、新たな世界を作り生きさせてやるのが真の愛ではないのか」
 マサキは腕を振り、震え声で言った。
「……だったらなんで機械を渡した。あんたがそれを許したんだろ!?」
「故郷を忘れる必要はないと思っていたからだ。たとえその地が居場所でなくなったとしても失われたわけではない。だがそれが恋い焦がれる理由となったなら、落ち度だった」
 懐にある携帯端末は、確かに都市との繋がりの証すものだった。
 だがそれはリリスから逃げていることの象徴でもなかっただろうか。
 幾分か冷静さを取り戻したキヨツグは、泣き濡れた目を上げるアマーリエに、密やかな決意を告げた。
「戻れぬのなら、慰める。恋い焦がれるのなら忘れさせる。私は、逃げぬ」
 キヨツグは時間をかけてアマーリエをここで生きられるようにしてくれるつもりだったのだろう。何もしなくていいと告げられたこと。表に出さずにまず十分に教育を受けさせてくれたこと。もしかしたら今日に至るまでに多数の悪意から遠ざけられていただろうことさえ、彼の采配に違いなかった。
 彼は教えてくれようとしていた。少しずつ居場所を見つけられるよう、自分に何が出来るのかアマーリエ自身が気付けるように、リリスの国を見せようとしてくれていた。
(でも私は、逃げてしまった)
 たった一度、悪意をぶつけられただけで、何も信じられなくなってしまった。
(何も、本当のことが何も見えていなかった――)
 黒い大地に雫が消える。
 未来から逃げていたのは、アマーリエだった。他ならぬ自分自身だったのだ。

 周囲が動き出し、武官たちが集まってマサキに縄がかけられようとする。
「止めて。彼は私を庇っただけです」
 答えたのはユメだった。
「残念ながら、マサキ様は真様を連れて逃亡なさいました。罰する必要がございます」
 最後にはお咎めなしにするとしても、一応は捕縛しておかなければこの騒ぎを知った人々の気持ちが収まらないのだろう。それはアマーリエも同じで、この後必要な裁きを受けるに違いない。
 騎乗を、と促されて、アマーリエはキヨツグの馬の上に引き上げられた。
 支える彼の手は冷たく、アマーリエもまた身体を強張らせて、夜の闇の中をひたすら耐えて進んだ。

 かすかな騒ぎの気配を残した王宮に戻ると、アマーリエはすぐさま寝殿へと押し込まれた。
 寝室は十分に温められ、いつもより光が多く灯されていたが、その分影は濃く見えたし空気は冷たかった。やがて雨音が聞こえ始め、アマーリエの周りの音はすべて雨の雫の中に消えていく。
 ベッドの上で膝を抱えて、アマーリエはキヨツグのことを考えた。
 そしてその想像通り、夜明けを迎えても、彼が寝室にやってくることはなかった。

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