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 船遊びは予定通りの日程で行われることになった。アマーリエは、サコやハナ、アイたちと話し合った結果、出席することにした。
 係官にその旨を告げると、マサキは外出を禁じられていることを教えられた。親切なのか嫌味なのかわからなかったが、これが真夫人と一領主の扱いの差であり、アマーリエがようやく容認されていることを思い知らせるものではあった。
 晴れた暖かい日の午後に、王宮の人々はリリスの国の東を流れるコウリュウ河に集った。船を運び、馬車を出し、晴れ着をまとった男女が集う様は一足先に春の盛りが来たように華やかだ。
 代表的なのはシズカとその取り巻きだろう。誰よりも賑やかで、華々しい一団を作っている。姿を現したアマーリエに「厚顔なこと」と眉をひそめる者もいたが、聞こえないふりをして後れ毛を撫で付けた。
 着飾るすべての品はキヨツグから贈り物ということになっている。不仲であるという噂を否定するため、女官たちはそういうところで小さな努力を積み重ねてくれていた。しかし本人に直接会うことは叶わず、彼女たちは歯噛みしているようだ。それをありがたく感じる反面、諦めの気持ちが胸を覆う。
 いまだって、彼はこちらを一度も見ない。自身を囲う壁のような人々と言葉を交わして、この行事が滞りなく進行するよう、担当者とやり取りしている。
 じっと見つめていると未練がましい気がして、アマーリエはきらめく水面に視線を移した。
 コウリュウ河は、モルグ族の国の北部を横断する山脈から流れている。そこから溢れる水は雨と雪のおかげで清く、草原にとって恵みとなっていた。今日はそこに船を浮かべようというのだから、贅沢だ、と都市からやってきたアマーリエは思う。
 ヒト族の都市では水源はすべて厳重な管理下に置かれている。人工水路と大規模な施設を用いて貴重な水をろ過し循環させていて、社会科見学でその施設を見る子どもたちは数多いはずだ。
 コウリュウ河のように自然な大河は貴重だ。そこに飾りをつけた船を浮かべ、着飾った人々が乗り込んで川を下って遊ぶ、なんて遊びは、リリスの中でも上流階級に一部にしか許されないと理解しつつも、やはり風流で贅沢な行事だと思うのだった。
 川風にちりちりとかんざしの珠が鳴り、衣のひれがそよぐ。
 リリスという国と民に思いを馳せてみる。肥沃な土地と大河。族長と領主による統治。受け継がれる伝統。そこで生きることがすべてだと思う人々は、それ以外を知らないから他のものを望むことがないのかもしれない。
 この国に来たからには、リリスでありたいと思った。それは、居場所が欲しい、認めてもらいたいということ。
 けれどリリスとはどういう人で、どんな考え方で、どのような在り方だったのだろう、と思うのだ。
(私は、何か思い違いをしていたかもしれない。リリスになるっていうのは、何かもっと別の……)
「真様」
 準備ができた旨を告げられ、物思いから我に返る。
 船頭のほか、五人ほど乗り込める船には、アマーリエと、アイと女官が三人、最後にユメが乗り込んだ。続々と出発し始める船の群れの一つとなると、船頭はアマーリエたちを振り返った。
「流れは穏やかですが、深いところがあるので大きく揺れる場合がございます。また身を乗り出されると落ちてしまうかもしれませんので、何卒ご注意ください」
「はい。ありがとうございます」
 空から見れば、きっと船は鳥の群れの旅立ちのように見えることだろう。風を切る感覚が心地いい。水の音は優しくて、両岸には草を食む家畜や水を飲む馬の姿がある。川面に立つ鳥がこちらを見て、大きく翼を広げて飛んでいく。
 袖をまくり、水に手を伸ばしてみる。水面を突き破って指が沈む。小さな波が生まれ、細かな飛沫と冷気が手に触れた。本物の水、ろ過されたものや消毒されたものではない、大地の気を含んだ流れだ。
 賑やかな音色が聞こえてきた。楽団の船が曲を奏で始めたのだ。
 笑い声が聞こえてくる方を見れば、シズカの船ともう一つの船が、キヨツグの船の両側を並走していた。
 そのもう一つの船に、群を抜いて美しい女性がいた。長い髪を結わずに流しているのはめずらしく、けれどそれがまた見事な艶を放つ黒髪なので、空色の衣装と相まって目を引くのだ。
「ミン家のユイコ様です」
 アイが耳打ちしてくれる。彼女もまたアマーリエと同じく、彼女を見ていたのだろう。
 アマーリエは頷き、キヨツグを見遣った。斜め前を行く彼は、こちらを振り返ることもない。楽しんでいる様子でもないので、義務として参加しているだけなのだろう。
(こういうことも仕事なんだな)
 真夫人としての仕事も知らなければ、族長の仕事も知らなかった。聞こうと思えば聞けただろうに、そうしなかったのは、何をするにも恐怖や不安が先立ったからだ。
 でもそこで、聞くべきだった。会いに行くべきだったのだ。逃げる前に「私の仕事を教えてください」と、「あなたのことを知りたい」のだと。
 彼の声がしないかと耳を澄ませている。どうしてこんな、忘れてしまった夢のようになってから気付いてしまうのだろう。
 たった一つの行動で、縺れていた糸は簡単に解けたはずだった。
 楽しげな声に傷付く資格はないと知りつつも、胸が痛んだ。あの賑やかな輪に入ることはできないとしても、そこにいたかったと思うのだ。誰よりも、あの人の近くに。
 岸で馬に水を飲ませていた少年たちが、思いがけず遭遇した高貴な人々の船団に目を見張っている。アマーリエは、高貴な人々の中に自分が含まれていることに苦笑しながらも、ひらひらと手を振ってみた。すると彼らも楽しげに手を振って返してくれた。
「いい風」
「ええ、本当に」
 何かの呼び声に似ている船の音が、空の高いところまで昇っていく。
 そこで水をかき分けて、一艘の船が近付いてきた。
「真様。良い日和でよろしゅうございましたね」
 先ほどみていたミン家の令嬢ユイコだった。名前を聞いていてよかったと思いながら微笑みを返す。
「はい。陽が暖かくて気持ちがいいですね」
「時々寒い日もございますので、直前まで着るものに迷ってしまいました。真様のお召し物、春の爽やかな色合いでとてもよくお似合いですわ。その簪もとても素敵な拵えですこと」
「ありがとうございます。女官たちが選んでくれたものなんです。この簪は私がここに来て最初に身につけた、思い出深いものなんです」
「まあ真様、覚えてくださったんですね!」
「うん、実は覚えてるんだよ、ココ」
 声を上げた女官に振り返って笑う。するとそれを聞いたユイコは花びらが溢れるように軽やかな笑い声を立てた。
「仲がよろしくて素敵ですこと。大切な簪なのですね、ええ、とてもよくお似合いですわ。わたくし、髪が長いのでたくさん簪を所有しているのですけれども、是非自慢の品を見ていただきたいですわ。北の領地は少々遠いかもしれませんが、史跡が数多く残っている土地でもありますの」
「興味深いです。いつか是非」
 そのまま船が並走する。本当にいい風だ。このままどこまでも行けそうな着がするくらい、春の匂いを含んで期待に胸が膨らんでいくような。
「天気も良くて風も心地よい。鬱屈した心が洗われていくようですわ」
「はい。船に乗ったことなんて初めてですから、とても楽しいです」
 まあ、と上品にユイコが驚く。
「では、泳いでみたこともないのでは?」
「川や池ではありませんが、プール……とても大きな水槽みたいなものでなら」
「わたくしは泳ぎが苦手なのです。ですからあまり水辺には近付きたくないのですけれど、こんな席ですから」
 最後の部分は声を潜ませて、彼女はこっそりため息をついた。少しずつ親近感が湧いてくる。こんなに綺麗な人でも苦手なこと、仕方なしに出席するということがあるのだ。
「ヒト族の方は、その水槽で泳ぎの練習をなさるのですか?」
「そうですね、学校では授業予定に組み込まれていて、必ず水泳の練習をさせられます。苦手な人が多いので避けられがちなんですけれど」
「真様も避けられたのですか?」
「私はどちらかというと真面目な子だったので、授業を受けていました。というより、授業を受けなかった後の、凄まじい罰のような補習が怖かったんです」
「わたくしも罰は怖かったですわ。特に礼儀作法の」
 サコ先生、の声が重なった。
「あの人は本当に厳しい方ですよね」
「本当に! わたくし何度も叱られましたわ」
 顔を見合わせ、笑う。こうしてどうでもいい話で笑い合えることは楽しいものなのだと思い出す。アイたちとは頻繁に話すし、シキやマサキとも友人のようにおしゃべりをしていたけれど、それらのどれだけ尊かったことだろう。
 笑いながら目尻を拭う。
 ここに何もないと思ったのはとんでもない誤りだった。空も雲も雨も、水の流れも、大地も。すべて繋がっている。ここにはちゃんと、アマーリエの世界がある。
 船遊びは夕刻近くまで続き、川下に船をつけた後は、軽食やお茶を飲み食いするおしゃべりの場と化して、またずいぶん賑やかだった。ユイコはアマーリエの何を気に入ってくれたのか、ずっとおしゃべりの相手となり、友人や知人を紹介してくれ、屈託なく笑ってくれていた。
 どんな打算があるのだろうと疑ってしまうのだが、その笑顔には特に取り入ろうとする腹黒いものは感じられなかった。ただ唯一、さりげなくではあるが、マサキとの交流について聞き出そうとしていたようには感じたから、もしかしたらと思った。
(他人のことは結構気付くのにな……)
「真様、御髪を整えましょう。川風のせいで乱れてしまっていますわ」
 髪結いを担当する女官が手早く簪を外し、アマーリエの髪を整えていく。周囲の女性たちも召使いと思われる人々に囲まれながら、支度を整えている姿が見受けられ、そんな女性たちのさざめきが夕焼けの中できらきらと輝いて響いているような気がした。
 だが「え!?」とこの場にそぐわない、恐怖に引きつった声が聞こえ、驚いて振り向くと、女官たちが青い顔でおろおろしている。
「どうしたの?」
「あの、簪が……」
「なんですって、ないの? まあ、どうして?」
 アイが不思議そうに尋ねるのも無理はない。外したのはつい先ほどのこと、目を離したとしても数秒だろう。しかしアイは、そんな高価なものは手に持っているのが常なのに危機管理が甘いと、眉をぴくぴくさせている。女官たちは竦み上がり、頭を下げて泣きそうになっている。
「本当になくなったのね。どうしようか」
「探させます。わたくしどもの不手際です。申し訳ございません、真様」
「ううん、それはいいんだけど……」
 女官たちが叱られるのは嫌なので不機嫌になったり不安になったりすべきではないのだけれど、ユイコに言ったようにあれは最初に着けた特別なものという意識がある。しかもキヨツグからの贈り物で、真夫人が身につけるものとして準備されたものなのだから、アマーリエにも管理責任があるだろう。
「ちょっとその辺りを見てくるね」
「真様、わたくしどもが参りますわ」
 声を上げてくれたのはアイやココなど数人で、後は面倒くさそうに無表情になっている。胸がざわめいて痛むのを堪えて微笑んだ。
「それじゃあ他のところを探してくれる? 手分けしてみんなで探せば見つかるかもしれないから」
 真様! と追う声に背を向けて、アマーリエは歩き出した。その場を離れるための理由にするなんて、やっぱり自分はずるくて汚いと、誰にも見られないところで顔を歪める。
 川辺に行くと、ちらほらと人の姿はあったが、アマーリエが乗っていた船の周りには誰もいなかった。水に落ちないようにして足元を探していると、何か小さな影が視界の隅を走り去ったのが見えた。
(ん、何?)
 ぼん! と音がしたのは、その影が船の中に飛び込んだかららしい。アマーリエは身を屈めながら、静かに船の中を覗き込んだ。
 座席部分にかけられた布の下で何かが蠢いている。今度はがちゃんと音がして、布の下から見覚えのある簪が転がり出てきた。
「あった、っ!?」
 手を伸ばした瞬間鋭い威嚇の声が響き渡って、反射的に手を引っ込める。伸ばしていたところに何かが飛び出し、布がずれて後ろに落ちると、その姿が露わになった。
 小さな猫のような生き物だ。子犬にしては小さく、毛が長くてまるでモップのように見える。けれど縦長の瞳孔以外は猫っぽくもなくて、どうやら異種の獣らしかった。
 しかもかなり興奮している状態のものを前にして、アマーリエは困ってしまった。
(ええと、なるべく興奮させないようにすればいい、のかな……?)
 優しい声を心がけて語りかける。
「驚かせて、ごめんなさい。あのね、その簪は、私のものなの。返してくれるかな?」
 手を一つ先に伸ばしたまま、じっと待つ。
 すると言葉を理解したのか、獣は威嚇を止めて低く唸り始めた。強く簪に執着しているが、目の前のアマーリエがそれを求めるということがわかっているようで、迷うように唸ったり前足で船の底を掻いたりと苛立っている。
(焦らないで、待ってあげないと。怖がらせないようにして……)
 悲鳴が上がったのはそのときだった。
「真様!!」
 前に泊まっていた船が、アマーリエが身を乗り出していた船にぶつかったのが同時だった。流されてきたらしい船は激しい音を立ててお互いをえぐり、驚いて飛び出した獣は岸へと跳躍するもいま一歩届かない。
「っ!」
 アマーリエは手を伸ばして獣の子を両手で掴むと、身体を捻りながら岸に向かって放り投げた。
 けれど、体勢を元に戻せない。
 流れる川は、背中から飛び込むような形で体勢を崩したアマーリエを、木片もろとも水の中へと引きずり込んだ。

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