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 マサキに一通りの注意勧告をした後、キヨツグはその足で文部へと向かった。「事件を肴に一杯」と誘い合う長老方を一人笑顔でかわした男は、そのまま己の部屋に戻ったと聞いたので訪うことにしたのだ。
 小姓に来訪を告げると、彼は動揺のあまり転がるようにして部屋に飛び込んでいく。やがて戻ってきた彼は頬を上気させ、緊張しきった様子でキヨツグを室内へ案内してくれた。
 春めいているというのに窓をほとんど開けていない部屋だった。書物が多いゆえに日焼けを避けているのだろう。薄暗く埃っぽいが、知性を感じる一室は部屋の主を思わせる。
「あなたがお越しになるとは、お珍しい。何か御用ですか?」
 書物に埋もれるようにして書き物をしていたカリヤは、キヨツグの訪れを歓迎しない口ぶりだ。己の存在が彼を苛立たせるものと自覚のあるキヨツグは単刀直入に言った。
「真への監視を外せ。あれが何の裏も持たぬことはわかったはずだ。もう十分だろう」
 椅子を勧めもしないカリヤは眉をひそめ、ため息をついた。
「……あんな何もできない、ヒト族の、付加価値以外に何も持たぬ娘を見張っても楽しいはずもない。ええ、お望み通り退かせましょう。しかし、解せませんね」
 カリヤの鋭い目がキヨツグを見る。
「都市の者と婚姻を結ぶのは族長でなくともよかったはず。むしろ、ヒト族の血を族長家に入れることを反対する者たちの存在を踏まえると、結婚相手はあなた以外の者であるべきだった。同盟を申し込んできた都市の人質をどこにやろうが、我々の勝手。だというのに大事な婚姻に自分を使ったあなたは愚かに過ぎる」
 カリヤの言うことは正しい。確かに当初は族長家の分家筋、マサキや他家の者と婚姻を結ぶことや、都市からは花嫁ではなく花婿をもらい族長家の姫と結婚させるという考えもあった。
 しかしリリスの氏族の勢力図や、結婚相手と考えられた姫の意向もあり、同盟の婚姻に関してはリリス族において圧倒的な支持と後ろ盾を持つキヨツグが最適だと考えられていた。
 そしてキヨツグはアマーリエに出会い――決して、してはならぬことをした。
 花嫁候補たちから、自らの意思で第二都市市長の娘を選んだ。アマーリエと結婚するのは他に適した者がいるのではないか、という意見を押さえつけ、名乗りを上げるようにして彼女の婚姻相手に己を推した。
 ――リリスのための存在である族長が、私情で、結婚相手を選んだ。
 たとえそれが当然の流れ、妥当であったと言われる道であっても、キヨツグがアマーリエを望んだことには変わりがなかった。
 だが誰にも告げぬ。望む通りに事態を転がし、妻を手に入れたと、言うことはない。
「本当にそう思うか、カリヤ。この婚姻は愚の極みであったと」
 思考を切り替える。敏腕な族長に対するためには冷厳な族長に徹さねばならない。
「リリスが格上であると。最も力を持つ優れた種であると、思うのか」
 カリヤは黙っている。何を言いたいのかすでに知っているのだろうが、キヨツグは敢えて言葉にする。
「――リリスは、もう長くはない」
 聞いたカリヤの気配が剣呑さを帯びる。
「リリスだけでなく、モルグもまた、これより衰退の道を辿るだろう。この世界はもう我々のものではない。リリスが守護者であった神話の時代は終わるのだ」
 否、もしかしたら天翔けるリリスが地上に降りた時代から、すでに世界はヒト族のものだったのではないか。そんな想像が掠める。
 カリヤはちらりと扉に目をやり、誰にも聞かれていないことを確かめた。
「……拝聴しましょう」
「広大だったリリスの土地は少しずつ、ヒト族とモルグ族に削られている。我らよりもか弱いモルグ族には異能力が、ヒト族は機械という力がある。長命や強靭な身体を持っていたとしても、身体のみでぶつかるしかない我らが勝者であり続けられる保証はない。閉じられた国であるなら、なおさらだ」
 リリス族は己の血に誇りを持っている。人間でありながら強い生命力を持ち得た種であるという誇りが、一方でリリスを頑なに草原に閉じ込めているのだ。やがてその壁の中で朽ちていくことから目を背け、最高種であるという幻想を抱いたまま、滅びる。
「ここまで恵まれていた。生存のために異能力を手に入れたモルグ族や、ヒト族の増加率を見れば、種としてリリスが弱いことは明らかだ」
 キヨツグは声を落とした。
「ゆえに、私はいずれ、機械の力を手に入れたいと思っている」
 その滅亡を食い止めるには、外界と交流を持ち、価値観や文化を受容して、リリスが己が文明を有したまま開かれた国になる必要がある。
 鳥の声が遠ざかる。風が吹いて、庭木が不穏にざわめいた。
 雲が陽を隠し、影が差す。カリヤは顔を歪めていた。
「そのために、あの娘を真夫人にしたと? リリス族がヒト族を受け入れ、都市文明を持ち込むためのきっかけにするために?」
「そうでなければ、我らは滅びるか、淘汰されるかだ。対等であれるのはかろうじていま、アマーリエ・エリカという真夫人をいただくこのときだけ。その間に打てる手は打つ」
「どの口がそれを!」
 押し殺した声でカリヤは吠えた。
「たとえリリスが滅んでも、あなたは命山の守護を得ている。あなただけは滅びない。命山に御座す神の守りを持っているあなたは」
 命山。リリス族最高機関。神々の住むところ。
 その強力な後ろ盾はキヨツグが支持される理由であり、また反発される原因でもある。いずれアマーリエにも伝えねばならぬことだが、いまではない。
「私は天だ。リリス族と運命をともにする、そのために族長位にある」
 たとえ背後に命山があろうとも、この身はリリスに尽くす。そう伝えたつもりだったが、カリヤにはさほど響いていないようだった。不支持派の急先鋒ならば疑ってしかるべきだろう。そんな世間話をするためにキヨツグが足を運んだとは思っていまい。
 雲の流れに遮られた陽が、ゆるやかに明滅している。影から光へ、光から影へ、瞬く。
「カリヤ。文明導入が始まれば、リリスは割れる。そのときお前が反対派の急先鋒となって他の者をまとめてくれるのなら、上手く事が回るだろう」
 言いながらアマーリエに説明したことを考えていた。事前の根回しや説得を行う必要性と、会議は決議を行うことで記録を残すだけの舞台であること。
 そしてこのようにして舵を取る己の傲慢さを何とも思っていない冷淡さ。
 カリヤは素早く思考を巡らせて答えに至ったらしい。くっと喉を鳴らして苦々しげに笑った。
「面と向かって糾弾する役ですか。不支持派と反対派を取りまとめて、あなたに報告すること、つまり二重間諜をお命じになるわけか。頷くとお思いですか?」
「頷かねばならぬ。私はお前の大事なものを手にしている」
 これにはカリヤも怒りを煽られたようだった。
「……妻を、あなたの側に仕えている彼女を人質になさるのか」
 キヨツグは答えなかった。
 わかっているなら彼の取るべき行動は一つだ。カリヤは苛立たしげに額を押さえている。
「あれはあなたの信頼する護衛官であるはず。あなたを仰ぐ彼女を裏切ることができるのですか」
「意見することはあっても、私の命じたことに否やは唱えぬ。恨まれるのは承知の上だ」
「我々が通じ合ったところでリリスが助かる保証はない」
「だが私が存在することで、この先起こりうる混乱を制御することができる。お前の言う、命山の守護がある私なら、リリスが手を打たぬまま変遷の波に沈むことはなくなるだろう」
 熟考の末にカリヤは言った。
「……考えさせてください」
「あまり長くは待たぬ」
「時間が必要です。私はいま冷静さを欠いている」
 必要なことは言った。ならば回答を待とう。そう考えたキヨツグは背を向け、部屋を出ようとしたが、その背にカリヤが言った。
「あなたをそこまで突き動かすものはなんです。それほどまでにあの娘をそばに止めたいとでもいうのですか?」
 政略結婚、それはアマーリエを縛り付けた暴力だ。そして頼るもののない彼女にここが居場所だと教え込み、キヨツグを頼らせようとすることもまた、身勝手な行為だ。
 だがキヨツグは己の本質を残忍であると自覚している。それが教育の結果なのか、前族長であった父を喪っているからなのか、それともこの身に流れる血の本質なのか。わからないまでも、人の心を持たぬことは知っていた。だから信頼の置ける臣下を犠牲にすると脅すこともできるのだ。
 それでも、キヨツグはアマーリエを望む。
 何故なら、彼女がキヨツグに人の心の温もりを与えてくれるからだ。そばに止めたいのかと問われたならば、答えは一つ。
「そうだ」
 端的に答え、キヨツグは部屋を出る。
 カリヤは空恐ろしいものを見るような顔をして見送っていた。


 キヨツグの姿が見えなくなると、カリヤはどっと息を吐いた。
(……狂っている……)
 ただ妻だけを求めるあの男はどこかおかしい。
 そう思いながらも、否、と首を振る自分がいた。
(天様は元々あのような方だった。利益と実害を見極めて、酷な判断を平然と下し、誰に詰られても顔色一つ変えない……だが婚姻の話が浮上してから、その冷徹さがなりを潜めていた。いまこうして考えねば気付かぬくらい微々たる変化だったが、どこか薄ら寒くなるほど冷静なのが、あの方だったはず)
 そんな男が唯一とするものを見つけた。ヒト族の花嫁という、取るに足らない存在だ。
 もしあの族長が、花嫁を想うあまりリリスを軽んじたら?
 ありえない、とは思えなかった。たったいま、彼は自らの寵臣を人質にしたのだ。
 だからといって、思いを同じくする仲間たちを容易に裏切ることなど出来はしない。しかし恋に狂った男の言うことは聞かねば後が怖いこともわかっていた。
(……慎重に動く必要がある。この局面が大きく変わるとすれば、それは)
 アマーリエ・エリカ真夫人。キヨツグが自ら晒した弱点は、彼女が行動することによって周囲の者に影響するであろう、未知の要素を数多く含む劇薬のようなものなのだ。

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