序章
 
    


「もう泣かないで。ちゃんと仇はうつから」
 エルセリスはつないだ手の先でぼろぼろと涙をこぼす名も知らない少女を慰めながら、広すぎる庭を進んでいた。六歳のエルセリスにとってこの場所の木や茂みは毎日何かしら新しい発見のある冒険の舞台だったけれど、中にはうまの合わない連中もいて、人形を抱えているような弱々しい少女たちは格好の餌食だった。
 やがて少年たちの大きな笑い声が聞こえた。茂みを避けていくと、三人の少年が木につるした少女人形を棒で叩いている光景が見えた。途端、後ろを歩いていた少女が「わあああん!」と大きな声で泣き始める。
「わたしのお人形! お母様が作ってくれたのに……!」
 その声に気付いた少年たちが棒で打つのを止めた。にやにや笑いでこちらを眺めているのに、エルセリスは近付いていく。そうして一番大柄な、おそらく首領格の少年の前に立った。
「なんだよ?」
(十二歳くらいかな。身長は倍、体重はもう少し重いか。でも全体的にぶよぶよしてるから、あんまり鍛えてないな)
 あとのふたりにも視線を投げる。
(どっちも背が低い。ひょろひょろしてるし、勉強ばっかしてるんだな)
 エルセリスはよしと頷いた。
「なんだよ、お前。なんか文句あるのか……」
「せいっ!」
「ぐふっ!?」
 掛け声とともに繰り出した拳は、贅肉の奥にある少年の胃の腑の上にのめり込んだ。
 呻き声を上げて少年はひっくり返る。
 お腹を押さえてびくびくしている彼を見下ろし、エルセリスは拳をばきりと鳴らして残りのふたりを見た。
「やるの?」
 だがエルセリスがどう見ても背丈も体重もない年下だとわかっている彼らは、ぎっと顔を歪ませたかと思うと、叫び声をあげながら同時に襲いかかってきた。
 年下だからと言って甘く見ないでほしい。
 もうひとりの動きを見ながらひとりを躱し、攻撃できる瞬間を探る。
 確かに小柄だが瞬発力があるし、身体の使い方はよく知っていた。机に張り付いて神経をきりきりさせている輩とは違って喧嘩の場数もかなり踏んできているし、毎日剣を握っているのだ。
 すうっと遊ぶようななめらかな動きにひとりが叫ぶ。
「てめえ踊ってるつもりか!? ふざけんじゃねえ!」
 すると叫んだのとは別の少年が石を投げた。だがそれはエルセリスではなく後ろで真っ青に震えていた少女めがけていた。
 しまった、と思った瞬間、それは新しく現れた少年の背中によって守られた。そうして茂みの向こうから次々と現れた三人に、エルセリスはあっと声を上げる。
「みんな!」
「よお、エル。お前面白そうなことやってんじゃん」
「喧嘩なら呼べっつったろーが」
「何、こいつら。まあなんでもいいけど。やっちゃっていいよな?」
 同じ年頃だが明らかに人相と風格が違う少年に睨まれ、相手方は「ひぃっ」と甲高い声で鳴いたが、そこで逃げなかったのは偉かったと思う。がむしゃらに殴りかかってきたのをエルセリスは受けて立った。
『殴るときに親指は握りこむな。でないと骨が折れる』というオルヴェインに教わった通りにきっちり拳を作り、渾身の一撃を放つ。顎がめきりと鳴る鈍い感触があって、ぶひゃっ、と悲鳴をあげて相手は尻餅をついた。
 致命傷にはならなかったが勢いはくじいたらしい。彼らは殴られた場所を押さえ、仲間を揺り起こして這々の体で逃げ去った。
「お、覚えてろ!」
「おとといきやがれ!」
 両親が聞けばさめざめと泣くであろう台詞を返したエルセリスに、仲間たちから拍手と口笛が送られた。
 そうしてエルセリスは人形の吊るされた木に登ってその縄を解き、人形を引き上げて地上に戻った。
「ほんと猿だな」
「まーたオルヴェインに山猿って言われるぞー」
「うるせーっての!」
 言い返すその甲高い声がきいぃっと鳴いているように聞こえるのか、みんなはまた笑った。内心でちくしょうと思いながら、汚れた人形を軽く叩き、形を整えて持ち主に差し出す。
「ごめん。もう少し早く取り戻せたらよかったね」
「う、ううん! ……ありがとう……」
「どういたしまして」
 汚れた顔でにかりと笑うエルセリスに少女はかすかに頬を染めたが、遠くから聞こえて来る呼び声を耳にして身体を跳ねさせた。声に反応したのは仲間たちもだ。
「エル、お前探されてるんじゃねえ?」
「うわ! 乳母やだ。まずい!」
 それは少女のお付きではなくエルセリスを探す声だった。どんどん熱を帯びる声からは苛立ちと怒りが伝わっていくる。エルセリスは慌てて駆け出そうとし、あっと言って立ち止まった。
「もしオルヴェインが来たら先に帰ったって言っといて!」
 大将分であるオルヴェインは今日はまだ姿を見せていない。行くのが面倒だったとか本の方が面白かったとかで、彼が顔を見せないことはよくあることだった。
「あとその子、ちゃんと付き添いの人のところに送ってやって。頼んだ!」
「任せとけー」
「またな!」
 快く請け負ってくれた仲間たちに手を振り、控えめに見送る少女にも手を振って、エルセリスは乳母の元へ走った。
 戻ってきたエルセリスを見るなり、乳母は蒼白になってぶるぶる震えたかと思うと、すごい勢いで罵倒かというほどの小言を言い始めた。お城にいてなんという姿か、これが高貴な方々に見られたら、といういつもの内容だ。殊勝なふりをして聞き流しながら、もしオルヴェインが同じ状況になったらどう反応するかを考えてみる。
(『うるせえくそばばあ、見られて困るのはてめえだろうが。俺は誰に何を言われてもどうとも思わねえよくそが』――って言い返すだろうな)
 しかしそんな小言も迫る時間に終わらせざるを得なかったようだ。
 エルセリスは急いで汚れを落とすように命じられ、そのあとは綺麗な衣服に着替えさせられた。
 絹の下着、靴下。そして深い青に金の刺繍が施された、裾が後ろに流れる形のドレス。宝石を縫い付けた靴を履き、ぼさぼさの髪を編み込んで髪飾りをつければ完成だ。
「おお……?」
 鏡に映った自分が結構可愛らしかったので声が出た。
 母が用意するドレスはいつも、人形でもこんなのはごめんだろうという桃色や黄色といった色と、レースとひだがたっぷりついたぶりぶりのものなので、今エルセリスが着ているような形のものはめずらしい。これなら着てもいいなと思える好みのものだ。
 さめざめと乳母が言った。
「きちんとなさったらこんなにもお可愛らしいというのに、悪童とばかりつるんで……ガーディラン伯爵家のお嬢様ともあろう方が……」
 この城の外縁部には、城に滞在している者なら大人でも子どもでも入ることのできる広大な庭がある。子どもが行けるのはここまでで、内側は大人の領域、その奥にある王族の宮殿なんかは未知の場所だ。
 そんな場所である日エルセリスは模擬用の剣を持って集まっていた少年たちに「何してるの?」と声をかけた。それがきっかけで彼らの仲間に加わるようになり、年下の割に思い切った性格が好まれて結構可愛がられ、いろんな遊びや喧嘩のやり方を教えてもらっていた。
 この素行は両親の耳にも入っているが、ふたりは「元気でいるなら……」と引きつった顔をしているので、そろそろ彼らと遊ぶのも終わりかなあとエルセリスは思っている。今日これから行く場所も、母ではなくエルセリスが招待されたのだから。
(これがあるからなあ)
 右手のひらの浮かんだ百合のような痣は、エルセリスの将来を決めるものだ。
「さあ手袋をなさって。参りましょう」
 気を取り直した乳母に連れられて、エルセリスは大人の領域である城の内側へと入っていった。
 やがてたどり着いたのは薔薇の咲く小さな庭園だった。エルセリスよりもずっと年上の女性たちが着飾った姿で集まっている。みんな王妃のお茶会に呼ばれたのだ。
 彼女たちは王妃の仲のいいご婦人やご令嬢、女官として城に上がっていたり、ふたりの王子の世話係や教育係だったりする。出されたテーブルに盛られたケーキや焼き菓子などの甘い香りは食欲をそそったけれど、どこにいても聞こえる「ほほほ」「うふふ」と取り澄ました笑い声はなんだか居心地が悪い。
「ガーディラン伯爵令嬢だわ」
「まああの方がそうなの。可愛らしい方ねえ」
「まだ幼くていらっしゃるけれど、きちんと務まるのかしら。あの聖なる――」
(王妃様に挨拶したらお菓子をとってどこかに隠れよう)
 噂話から逃げる手段を考えていると、王妃その人が姿を現した。エルセリスはあっと思った。オルヴェインもそこにいたのだ。
(なるほど。今日いなかったのはこのせいか)
 他人に頭を触られるのが嫌いなので、切りもせず結びもしない黒髪が彼の顔を覆っているが、それでも目つきの悪さがわかる。陰気で険しい雰囲気に女性たちがたじろぐのがわかったが、いつものことだと知っているエルセリスは気にせず小さく手を振った。
(あ、誰だお前って顔で睨んでる)
 オルヴェインは媚を売ったりしなを作ったりぶりっ子する女の子が大嫌いだ。彼には手を振るエルセリスが媚を売る見知らぬ少女にしか見えていないのかもしれない。それだけいつもと違って自分は可愛く見えるはずだと、鏡の中の自分を思い出して笑う。
「まあ、なんて可愛らしいお客様かしら。ごきげんよう」
 膝を折る女性たちの中で場違いなほど小さいエルセリスはよく目立っていた。王妃に声をかけられたエルセリスは居住まいを正し、作法通りに膝を折って挨拶をする。
「はじめまして。エルセリス・ガーディランと申します。本日はお招きありがとうございます。王妃様にお目にかかれて光栄です」
 見てよ乳母や、完璧な挨拶だろうとエルセリスは内心で鼻高々だ。王妃も感心したように「まあ」と呟き、柔らかに微笑んだ。
「こちらこそ、来てくださってありがとう。あなたがエルセリスね。これからのお勤めはたいへんでしょうけれど、がんばってちょうだいね」
「お言葉、ありがとうございます。王国のために励みます」
 そうして王妃の挨拶は次へと移っていく。ちゃんと乗り切ったらしいとにんまりしていると、ぐいっと腕を引っ張られた。
「な! ……なあんだ、オルヴェインか。どうしたの?」
「……ちょっと来い」
 声変わりしかけたかすれ声で言われたままについていく。ふたりが席を外したことなど周りは気にも留めていないようで、誰も追いかけてこなかった。
 どこまで行くのと聞こうとした茂みの陰で彼は立ち止まった。その目はエルセリスを上から下までじろじろと眺め、眉間の皺を深くしてどんどん顔を険しくさせていく。
「どうしてそんな格好をしてる」
「王妃様のお茶会なんだからちゃんとしなきゃいけないでしょ。どう、案外似合って、」
「似合ってない」
 似合ってるでしょという声に被せてオルヴェンが吐き捨てた。
「似合ってなんかいるもんか。山猿のくせに」
 エルセリスは言葉を失った。膨らんだものが急速に萎むようにして、声がひゅうひゅうとかすれた音に変わっていく。
「そんな格好をして好かれようとしても無駄だ。お前を好きになるやつなんていないんだから」
「……!」
 がん、と殴られたような衝撃を受けた。
 綺麗なドレスを着たいつもと違う自分。乳母に素行不良と嘆かれながら、王妃様を微笑ませられることに成功した立派な挨拶。そうしたものに気付かないうちに心を弾ませていたエルセリスは、信じられないほどオルヴェインの言葉に傷付いていた。
 心がずたずたに引き裂かれていく。
「無理に飾るな。みっともない。山猿のままでいい。そうすれば遊んでや、」
 次の瞬間顔を押さえてオルヴェインがよろめいた。
 エルセリスの投げつけた靴が顔面に当たったからだった。
「………………ゆるさない」
 声を絞り出してエルセリスは言った。涙なんて流すもんかと歯を食いしばり、告げる。
「もう二度と遊ぶもんか! お前なんかだいっきらいだ――!!」
 両親が匙を投げるほど頑固に友人たちとの関わりを断たなかったエルセリスは、その日を境に、その頑固さでもってオルヴェインと決別した。

    


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