第3章
笑わないで
    


 クロティア地方は封印塔国マリスティリアの北部、ほとんどが樹林帯で占められた地域だ。封印塔がないため人の住む村は存在しないが、この地方に限らず塔の影響外は《術師》と呼ばれる者たちの領域だった。
 この日、エルセリスは調査隊の第一陣として、典礼騎士たちに守られながら目標地点であるクロティア地方の遺棄された塔に向かっていた。
 ほとんど人の手が入っていない森は薄暗く、粘るような湿気が強い。腐葉土の濃いにおいは胸が悪くなりそうなほどだった。生き物のかすかな気配はこちらを侵入者と断じるような悪意を帯びて感じられ、歩みを進める調査隊は誰もがぴりぴりしていた。野営地までもう少し、そこまで術師や魔物に襲われることがないよう祈るしかない。
 術師とは、封印塔国民とは交わらずに暮らす一族のことだ。封印塔の力の及ばない場所で血族や同族による集落で暮らすことができるのは、彼らが魔物を操るわざに長けた、呪いや魔術を用いるものだからだった。
 術師の起源は、人間と争った半神の生き残りだとも言われていて、呪いを放ち魔物をけしかけるのは、いまだに人間を憎んでいるからだという。塔の影響が強い都市部では見られないが、地方では術師に遭遇して病になったり、自我を壊されて廃人のようにされたり、死につながる呪いを受ける者が現れる。
 呪いを解く明確な方法は見つかっていないが、封印塔の影響下にいれば呪いの進行が遅くなり、時間が経てば解呪される場合があるという。このことからも封印塔の設置と維持、そして活性化は国の守護のために必要不可欠だと言われていた。
 しかし急務であるはずの封印塔の設置は、活性化したとしても聖務官の数に限りがあっては維持が難しく、結果的に手付かずのまま魔物の跋扈する土地にしてしまうほかなかった。今回のように塔活性化事業が開始されるのは数十年ぶりのこと、当時の仕事に携わった者はほとんど残っていない。今代の聖務官であるエルセリスたちには少々荷が重いとも言えた。
(けれど聖務官として封印塔の設置に携われるのはすごく名誉なことだ。きっといい経験になる)
 できれば儀式に剣舞を奉じたい。自分が聖務官としてどこまでいけるのか知るためにも。
 けれどアトリーナの歌もネビンの舞も厳しい訓練を経た聖務官になるだけあって一流のものだ。うっかりしていると大役を奪われてしまうかもしれない。仲がいい同僚ではあるけれど、聖務官としては譲りたくないと思う気持ちがあった。
 ふたりとも知らないのだと思う――不遜なことを言うエルセリスは、本心からふたりに負けたくないと思っていること。人のいい顔をしておきながら、煮えたぎるような気持ちでいちばんの聖務官でいたいと思っていること。
 そう思ったきっかけは――。
 過去に沈むエルセリスの思考を引き上げるように、ぎゃあ、ぎゃあ、と鴉か何かの鳴き声がして騎士たちが剣に手をかけた。声だけでは普通の鳥なのか魔物なのか判断がつかないが、しばらく経ってもその声の主が姿を現わすことはなく、彼らは幾分かほっとした様子で手を下ろした。
 魔物は、相手が生き物であれば無差別に襲うという攻撃性を持った、動物の姿をした黒い生き物だ。彼らには死という概念がない。心臓の代わりに魔気をまとっていて、それが枯渇するまで動き続ける。だから一度魔物に襲われたら、逃げ切るか、相手が諦めるまで姿を隠すか、その魔気が失われるまで耐えるしかないのだ。
 エルセリスも腰に帯びた剣を意識した。人を斬るためのものではないが、エルセリスが長く手にすることによって聖具と化した儀礼用の剣は、魔気を祓う力を宿している。それが今回調査隊に加えられた理由だった。
 やがて前方の光が見えた。先発隊がいる野営地に到着したのだ。
 その開けた場所はかつて村のあった場所なのだろう、瓦礫が積み上がった寒々とした広場になっていた。いまは調査隊の馬や荷台が集まっているが、誰も近付かないまま放置されて久しいらしく、生活の気配はまったく感じられない。
「お疲れさまでした、ガーディラン聖務官! あちらに天幕を用意していますのでお使いください」
 若い典礼騎士がそう声をかけてくれ、馬を預かってくれた。
 無事に地面に足をつけられたことにほっとしながらお礼を言う。
「ありがとうございます、お言葉に甘えて使わせていただきます。その前に予定を確認しておきたいんですけど、隊、」
「あっ閣下ならあちらにいらっしゃいますよ! ご案内します」
「え、ああっ!? 大丈夫です! ひとりで行けますから!」
 調査隊の隊長である騎士長ヴィザードの行方を聞くつもりが、動揺のあまり自分からオルヴェインのところへ行くと言ってしまった。騎士はそうですかと言って居場所を丁寧に教えてくれたので、これはもう行かないとまずい。
 今回の調査隊にはオルヴェインも加わっている。ため息を堪えつつ教えてもらったところに行くと、天幕の前で彼が報告を受けているところだった。可能な限り調査隊に参加すると宣言したらしい彼は、調査隊を束ねるヴィザードの補佐のような形で隊の状況を把握しようと努めているらしい。きりりとした真面目な顔で報告に相槌を打っている。
(遠くから見てれば、本当に普通の、結構仕事ができるえらい人にしか見えないんだよなあ)
 そんな風に思っていると、ばちっ、と目が合ってしまった。
(うわっ)
「ガーディラン聖務官!」
 視線を逸らすが遅い。呼ばれてしまった。
「っ、はい!」
 多少やけくそに返事をして近付いていくと、オルヴェインは何を言うでもなくじっとエルセリスを見つめてきた。
(な、なんだよ……)
 顔をしかめていーっと歯をむき出したらどうなるか、と一瞬考えたが、仏頂面を続けて喧嘩を売っていると思われるとかなわないので、冷静に問いかけた。
「何かご用でしょうか、閣下」
「気分はどうだ?」
 何故そこで気分なのか。
「は……、あの、普通です」
 意図を掴み損ねて妙な返答になっているのを、彼が眉を寄せたことで自覚する。
「あっ、いえ、あの!」
「ああ、隊長を崩していなければいいんだ。事前調査を行っていた人間が魔気の濃さに気分を悪くしたと報告が上がっていたから、大丈夫かと思ってな」
(あああっ、事前に報告書で読んだやつー!)
 オルヴェインが関わるとどうも調子が狂うらしい。封印塔の影響外にいるのだから気を引き締めておかなければ事故でも起こしそうなので、気合を入れた。
「でしたら問題ありません。身体だけは丈夫なのでお気遣いいただかずとも結構です」
 周囲は、しん! と静まり返った。
(……しまった、気合を入れすぎて笑いながら毒を吐いたみたいになった!)
 耳をそばだてている騎士たちは、エルセリスがにこやかに「あなたの心配など必要ない」と突っぱねたように聞こえたにちがいない。
 張り付かせた笑みをそのままに反応を見ると、オルヴェインは目を大きく開いて固まっていたのをぎこちなく動かして顔を背け、無言でいる。――まるで傷付いたような仕草だ。
 いや、『まるで』じゃなく、傷付けた。
「……っ」
 だがエルセリスの口からは謝罪の言葉が出てこなかった。喉の奥、胸の深いところで絶対に言うものか駄々をこねる自分がいて、その言葉が外に出ないよう引っ張っているのだ。
 しかし人としてそれは、と思う理性が声を絞り出そうとしたとき「閣下」と静かな声が割って入った。
「顔色が悪くていらっしゃいます。少しお休みになられてはいかがですか?」
(ヴィザード騎士長!)
 騎士を束ねる長のひとりであり、この場の責任者であるヴィザードが知らないうちに近付いてきてそう声をかける。彼を見たオルヴェインは「ああ」と言って硬くなった顔を拭うように撫でた。
「不甲斐ないな、疲れが出たようだ。ヴィザード、悪いが後のことは頼めるか」
「御意」
 そうして天幕に向かっていくオルヴェインは、エルセリスを振り向きもしなかった。
 彼が見えなくなってから、エルセリスは内心でがくーっと肩を落とした。何をやっているんだ、自分は。
(いくら昔傷つけられたからって、仕返しに傷付けていいわけじゃないのに……)
 自己嫌悪で座り込みたかったがここは自室ではない。態度に出すことはできないので額を押さえたりため息をついたりして誤魔化していると、視線を感じた。

    


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