じわじわとしていた胸の痛みが増してついに立ち止まってしまったところへ、ばたばたとここに似つかわしくない足音が響いてくる。何事かと振り向いた先から走ってくるのは、いまいちばん顔を見たくない男。
「エルセリス、待て!」
「っ!」
 理性が邪魔をしてとっさに逃げることができなかった。追いついてきたオルヴェインに背を向けることだけがささやかな抵抗だった。
「エルセリス……あのな……」
「何かご用ですか。これから公署に出勤するので手短にお願いいたします」
 もちろん嘘だ。アルフリードの呼び出しを受けた時点で、今日は欠勤する旨をエドリックに知らせている。
 顔を見れば、確実に刑罰を受けるような罵詈雑言を浴びせかけそうだから、彼がどんな風にこちらを見ているのかは知らない。大きなため息が聞こえてもエルセリスは彼から顔を背け続けた。
「……すまなかった。さっきは言葉が足りなかった。お前にその服が似合わないと言ったわけじゃないんだ」
(はあ!?)
 必死に鎮めていた心は、努力も虚しく怒りを噴き上げた。
「だったらどういう意味なんです? 人を全否定しておいて! 後から謝ればいいと思って何も考えず思いついたことをそのまま口にしていませんか!?」
「うん、そのまま口にしたのが悪かった。あれは怒っても仕方がないと兄貴に言われて、やっと冷静になった」
 噛み付くエルセリスにどうどうと両手を上げながら彼が言う。まだぴきぴきとこめかみを引きつらせながら、エルセリスはひとまず牙を収めた。アルフリードが何を言ったのかが気になったのだ。
「肩や胸が見える服装に、慎みを持てと思ったのは本当だ。流行うんぬんはお前の言う通りだと兄貴から聞いたから納得したが、俺はお前にそれを着てほしくなかったんだ」
「私が誰かに好ましく思われるのがそんなにお嫌ですか」
「うん」
 エルセリスの頬は引きつった。
 しかし次の瞬間、それは別の意味で硬直する。
「俺はお前のことが好きだ。だから魅力的な姿を一目に晒してほしくない」
 風が吹いた。
 どこかから飛んできたつがいの鳥たちが、澄んだ声で鳴き交わしているのが聞こえてくる。
(……えっと)
 無意識に心が勝手に別のことを考え出すのを引き止めて、エルセリスはこれまでのことをもう一度思い返してみた。追いかけてきたオルヴェインは先ほどの発言に訂正と補足を加えて。
(最後に何かとんでもないことを言ったような)
「聞こえなかったらもう一度言うぞ。――俺はお前が好きだ。子どもの頃から、ずっとお前のことが好きだったんだ」
「……………………――っ!!?」
 気のせいじゃない。聞き間違いじゃない。
 目の縁を羞恥で赤くして、オルヴェインは二度、エルセリスに愛を告白したのだった。
「お前もよく知ってると思うが、昔の俺は本心をうまく表現できなくてな……。やたらに暴力的な言い方をして、否定的な言い回しを使うことも多かったんだが、あのときも本当はちゃんと言いたかったんだ」
「……あのとき……」
「母上のお茶会にお前が招待されていたときだ。青いドレスを着て髪を結っていた」
 絶句した。まさか覚えているとは思わなかった。
「あのときはびっくりしたんだ。なんて可愛いんだろうって。自分がそう思ったことが信じられなくて、恥ずかしくて、どうしたらいいのかわからなかった。それでお前を引っ張っていって……」
『似合ってない』
「似合ってなんかいるもんか。山猿のくせに』
「……ひどいことを行って、お前に『だいっきらい』と言われた」
 当人が詳細に記憶していたという事実を知り、エルセリスは大きく喘いだ。こんなことがあるだろうか。痛みを感じないよう厳重に封じ込めていた過去を、その傷を作った原因が開いて見せてくるなんて。
「どうして、いまになって……」
 恨みがましく言うと、彼は顔を赤くしたまま乱暴に自らの頭を掻きむしった。
「さすがに大嫌いと言われた過去の話題を持ち出すのは怖かったんだよ。再会したとき俺が『綺麗になったな』と言ったら、お前は何を言われたか理解できてない顔をしたんだ。お前があのときのことを覚えているのがそれでわかったし、下手を打つとまた絶縁される展開は目に見えてた。警戒するのは当然だろう」
 事実を突きつけられたせいでくらくらとめまいがしてきたが、彼が何を考えたのかはだんだんわかってきた。
 オルヴェインはエルセリスを傷付けたことを覚えていて、どうやら後悔しており、いま同じことをするところだったので慌てて追いかけてきて、自分の気持ちを正直に話すことにした、ということらしい。
「お前が好きなんだ、エルセリス」
 耳まで赤くして告げられ、エルセリスはうろたえた。
「さっ、な、何回言うんですかそれ!?」
「俺が本気だとわかってもらうまでに決まってる」
 オルヴェインの目が変わっていた。照れていたはずの赤い色は感情と混ざり合い、小説に出てくるような情熱を宿した瞳となって、どんな表情を作っていいのかわからないエルセリスを映す。
「あ、あの、落ち着いてください」
「俺は落ち着いている」
「そうかもしれませんけど! 言動がおかしいです! 熱でもあるんじゃないんですか? 思ってもないことを口走っているようですが!」
「理由を言えばいいのか?」
 鋭くなった目つきに反射的に後退る。
(これ以上聞くとまずい!)
「おい!?」
 ドレスの裾を一気にたくし上げ、靴の踵の高さを物ともせず、エルセリスは逃走を選んだ。
 外宮の外、階段を駆け下りた先の車止めで待っていた馬車に乗り込み、御者に叫ぶ。
「早く出して、早く!」
 何事かと思っただろうに命じたままに馬車は出発し、エルセリスはしばらく息を殺していたが、追っ手の気配がないことを知るとほーっと長いため息を吐いた。ずるずると医師に座り込み、震える手で頭を抱える。
 アルフリードの前で言い争いをするという大失態を犯したし、王宮の回廊を凄まじい姿で駆け抜けたりもしたが、それらすべての後悔をオルヴェインの告白が吹き飛ばす。
(どうしてこんな、だいきらいな相手から愛を告白されるなんてことになってるんだ!?)
 嘘だ。何かの間違いだ。からかっているにちがいない。動揺するこちらを嗤うつもりなのだ。
「真に受けてはいけない」と考えるのに。
 言われた直後は真っ白になってわけかがわからなくなってしまったけれど、重い返すエルセリスの頬にはぱあっと赤い色が広がっていく。直後に反応できなかったものがいまになって一気にやってきてくるようだ。
(首、熱い。耳も)
「……私のことが、好き……?」
 言葉の甘さに唇が痺れる。心臓が早鐘を打ち、呼吸が乱れて全身が熱を帯びた。
(あっ、明日どんな顔して会えば!?)
 出勤していればいつか必ず顔を合わせることになるだろう。人前で返答を迫られたらどう躱せばいいのか。そうはならなくても動揺する姿を見られれば、周りは何かあったと勘付くだろう。調査隊での一件を知っている騎士たちが噂を始めるかもしれない。
(返事……返事? 返事をしなきゃいけないのか! 無視してなかったことにできないよね!?)
 好意を告白されることは決して嫌なことではない。困りごとを呼び寄せるときもあるけれど、ほとんどの好意は男女や年齢を問わず、人として自分を好いていてくれることを教えてくれるからだ。
 恋愛感情をともなわないものについては「ありがとう」と返してきた。好きになってくれてありがとう、こんな私をいい人だと思ってくれてありがとう、と。時には恋愛対象として一緒に生きてほしいと望んでくれる人もいたけれど、その人たちと同じような気持ちを抱いていない自分を知っていたから、丁重に「あなたの恋人にはなれませんから、嫌いになってくれて構いません」と断ってきた。だいたいの人は「好きでいたいからそれ以上は望まない」と引き下がってくれた。ごく稀に実力行使に出られたときには、いままでの経験を生かして拳と蹴りでお帰り願った。
 だからオルヴェインにも「ありがとう、でも」と断ることができたはずなのだ。恥ずかしくて顔が赤くなることはあっても、動揺して逃げ出すことはなかった。なのにいまエルセリスは、醜聞になるようなみっともない姿で王宮から逃走し、顔を真っ赤にして馬車の中で震えている。
 ――じゃあ私は、オルヴェインのことをどう思っているんだろう?
 いつも通りに断れなかったことが意味するのは……?
 エルセリスは髪を振り乱す勢いで激しく首を振った。
(ちがうちがうちがう! あいつが特別ってわけじゃない! 逃げたのは動揺しすぎただけだから!)
 けれどあの目は。
 触れたら熱くて溶けそうで、なのに脆く見えて切なかった。彼はあんな顔もできたのか。
 途端に胸がぎゅうぎゅうと締め付けられ、叫びだしたいような走り出したいような衝動が沸き起こる。
(苦しい。なんだか泣きたい……)
「……お嬢様、どうなさいましたか? お具合でも悪いんですか?」
 知らないうちに馬車は伯爵家の屋敷に到着していたらしい。降りてこないエルセリスに御者が呼びかける。
「お嬢様?」
「お嬢様!」
 屋敷の中からも、エルセリスの様子がおかしいことに気付いた家人がやってくる。彼らが扉を開けるまでに、エルセリスは必死になっていつもと変わらない自分を作り上げなければならなかった。
 家人たちには「緊張しすぎて具合が悪くなった」という言い訳を押し通し、両親にはアルフリードからの召喚について「聖務官としての仕事を果たすよう激励された」と説明した。休む時刻になってベッドに入ったエルセリスは、暗闇を真正面に見つめながら心を決めた。
(しばらくの間、今日のことはなかったことにして様子を見よう)
 必要以上に近付かなければ避けることもしない、何も起こらなかったかのように振る舞おう。とりあえず自分の気持ちが落ち着くまでは。
 いますぐ答えは出せない、というのがエルセリスの結論だった。オルヴェインの告白のことを考えると、だいきらいな昔の彼と好ましいいまの彼とがぐちゃぐちゃに入り混じってよくわからなくなってしまうのだ。
(少し時間が欲しいって言えばいいんだ。顔を見ても、変にどきまぎしたり避けたりしなければいい)
 なんだ、落ち着いて考えてみれば簡単なことだ。そう思ってようやく眠りについた。

    


>>  HOME  <<