姿を見せなくてもいいときには近くにいるくせに、こういうときに限って見当たらない。
 探し回った結果、最初に見たはずの聖堂廃墟にいた。奏官たちが音出しを始めているのを舞台近くで聞くともなしに聞いている、ぼんやりした風情だ。
「閣下」
 そっと呼びかけるとオルヴェインはゆっくり振り向いた。
「どうした、エルセリス」
「体調はどうですか?」
 隣に並びながら声を潜めて尋ねる。呪いの進行は目に見えないが、もしかしたら体調を悪くしているのではないかと思ったのだ。
「特に変わりない。お前こそどうなんだ、緊張してないか?」
 本当に大丈夫なのか探らせないままこちらを案じるのは、オルヴェインが身につけた優しさであり姑息なところだと思う。エルセリスにすら頼れないようなら、彼はいったい誰を頼るというのか。
(きっとひとりで耐えるんだろう)
 でもそれは自分も同じかもしれない、と思って答える。
「緊張はしていますけど、大丈夫です。以前のように自分がどこにいるかわからなくなる感じはありませんから」
「お前の剣舞、久しぶりに見るな」
 そういえばそうだったか。エルセリスが舞うとき、彼はたまたまそこにいなかったことが続いていた。
「最後に見たのはお前が聖務官候補になる前だったな」
「そうですね。六歳のときです。あなたに『へたくそ』と言われました」
「あのときはすまなかった」
 静かな謝罪を静かに受け取る。
「あのときは『へたくそ』と言われても仕方なかったですけれど、いまは違いますからね。ちゃんと見ていてください」
「ああ。一瞬たりとも目を離さないでいる」
 熱がこもった言葉に、告白の返事をしていないことを思い出させられる。
 今日のために典礼官や執政を司る人々は多忙に走り回り、オルヴェインも公署に姿を見せたかと思えばすぐに会議に出て行き、エルセリスは打ち合わせをしたりなどですれ違いばかりだった。わざわざ呼び止めて時間を作る必要はないかと思っていたけれど、いまわかった。
 もしかして彼は、返事を必要としていないのではないか。
 塔に眠る時の神の予言をエルセリスは受け取った。だがそれが本当に死の呪いを解くものとは限られない。彼は死ぬ覚悟を持って首都に戻ってきて、まったく新しい自分として周囲と接しているけれど、その理由は誰かに惜しまれたいと望んだからだと彼自身が言っていた。
 だから、助かるとは思っていない。いつか死ぬ、そのときの後悔を減らすために想いを告げただけではないだろうか。エルセリスがどんな返事をしようとそれ以上の未来を望まずに。
 言い逃げだ。答えを聞かないまま言い逃げするつもりだ。こっちがどんなに悩んだのか知らないで。
 怒りは手のひらに込められ、オルヴェインの背中を音が出るほど叩いた。ばしんと凄まじい音に一瞬音が止み、その場にいた人々の視線が集まる。
「しっかりしてください。これで終わりじゃないんですからね」
 目を見開く彼に晴れ晴れと笑ってみせる。
「この儀式が終わっても塔を維持しなければならないし、将来的に街ができるなら管理官も置かなければならない。聖務官も必要になるでしょう。あなたの仕事は、まだまだたくさんあるんです、典礼官長官。あなたが得難い上司だと私たちに思わせてください。私たちが憂いなく祈りを行うためにあなたが必要なのだと」
 この想いを告げればきっと彼は救われる。
 でも未練がなくなれば彼がここにいる理由が消えてしまう。
 だったら私は未練になってやろう、とエルセリスは思った。
「この事業がひと段落したら、あのときの返事をします」
 残酷かもしれない宣言にオルヴェインは真顔になった。
「お前……」
「言い逃げなんて許しませんから。ちゃんと私の言い分も聞いてもらいます。覚悟しておいてください」
 だからいつかいなくなるなんて言わないで。
 あれだけ悩ませたのだからきっちり聞いていただきましょう、そう考えていたエルセリスは息を飲んだ。
 女性奏官の小さな悲鳴と息を飲み下す音があちこちで弾ける。
 はたから見れば抱きついたように見えたかもしれない、
 どこか縋るような、それでいて敬愛を示す仕草のようにして、オルヴェインはエルセリスの肩に頭を垂れていた。
「……ありがとう」
 澄んだ瞳と声でそう告げて、彼は振り返った。
「――この場にいる皆、聞いてほしい」
 その声に全員が手を止めてオルヴェインを見つめた。外にいる騎士たちにも聞こえるように彼は朗々とした声を響かせる。
「我々はこれからひとつの大いなる仕事に取り掛かる。すべての者が自らの力をかけて挑まなければ成し得ないそれは、未来への道を作るためのもの。誰もが問う祈りの行方が、自分たちの未来にあるのだと信じるための作業だ」
 オルヴェインがひとりひとりを見つめるように辺りを見回す。
「儀式に臨む者はこれから足を踏み入れたことのない領域に行くことになるだろう。だが傍らに仲間がいることを忘れないでほしい。祈りをともに紡ぐ仲間がいるのだと。騎士たちは自らの無力を感じるときがくるかもしれない。だが盾たる自分がいなければ祈りの場を作ることができないということに誇りを持ってくれ」
 私も、と彼は胸に手を当てた。
「私も、儀式において典礼騎士は無力なものだと思った。聖務官のように祈りを奉じることも、奏官のように楽を奏でることもできない……だが彼女たちが信じてくれることで、騎士は守護者になれる。封印塔よりも前の、人を守るものに」
 オルヴェインの笑った目がエルセリスを見つめる。
「最高の祈りを紡げるように、私たちが守る」
 じっと聞いていた騎士たちの中、ヴィザードがかすかに笑みを浮かべながら券を掲げた。他の騎士たちも自らの剣を手にしてそれに習う。
「ともに行こう。これから始まる長い道に、互いを信じて」
 オルヴェインの言葉にエルセリスは頷いた。
(あなたが私を守るなら、私があなたを導こう)
 未来へ。
 あなたがもう手に入らないと諦めそうになっているそれを、私が絶対につなぎとめてみせる。
「祈りとともに!」
 エルセリスに続いて「祈りとともに!」と声が重なる。
 最高の剣舞を舞おう。聖務官として神の力を目覚めさせ。
(あなたを救ってみせようじゃないか)

 正午。塔を再活性化させる儀式が始まった。
 祈りを始めることを宣言する奏官と鉦の音の後、聖言を唱和する。必要なところだけ読むのとは異なり、祈祷書に記されているものを最初から最後まで読んでいく。その合間に聖務官の祈りが挟まる形だ。
 五十名分の声が一言一句揃っているのは圧巻だ。
 読む区切りが全員同じなので、息を吸う音すら揃っている。ひとつの音楽を聴いているように壮大だ。それだけにぴりぴりとした緊張感が漂い、典礼官たちは顔をこわばらせ、次第に汗を掻き始めていた。渦巻く熱気は風と混じり合い、時折嵐めいた突風を呼んだ。
 エルセリスは最初の出番を待って、舞台の中央に剣を置き、時の神の力が眠ると思われる日時計を前に跪いていた。
 衣装の色は白。金糸で聖なる言葉を縫い取った神聖なものだ。たっぷりした袖と内側に柔らかい布を重ねた裾の、この日のために製作された一着だった。髪は落ちないようにきっちり結い上げ、金の髪飾りで飾ってある。これにベールをつければ花嫁衣装のように見えるかもしれない。
 目を閉じていると、祈りの声の向こうに騎士たちが交わす声と気配が感じられる。オルヴェインが守護者になるといったように、彼らはこの場所を守るように全方位に配置されていた。
(私たちは無力だ。守られなければ祈ることができない)
 最初の聖務官――祈人と呼ばれていた頃の痣の持ち主たちは、魔物の跋扈する土地に行き、自らの命を賭して封印塔を作った。現代のエルセリスたちとは違って、国の援助は仲間がいない状況で祈り、守護の力を宿したのだ。その頃に比べればエルセリスたちの祈りの力はずっと弱いものだろう。
 けれどひとりではない。ともに行くことができるそれは、幸福だ。
(いまの私たちができる、最高の祈りを紡ごう)
 エルセリスは目を開けた。
 全二十七章ある祈祷書のうちの三章の終盤に差し掛かっており、演奏者たちが楽器を待機させている。
 その音が奏でられる瞬間を待つ。
 やがて余韻を響かせて声が消える。
 エルセリスが深く頭を垂れると、目覚めを促すようにして太鼓、続いて勇ましい弦楽器の音が重なった。
 最初の剣舞は目覚めを意味するもの。世界の始まりだ。
 動きはあまり派手ではなく、ひとつひとつの動作が重く静かなものばかりだ。止めの姿勢が重なり、ぴたりと動かないでいると全身が悲鳴をあげそうになる。それを解放するかのように動き始めれば、型が滑ってしまいそうになるため慎重を期する舞でもある。呼吸も動きに合わせていかなければならない。
 けれど不思議とそれが苦ではなかった。意識と身体、呼吸と動きがぴたりとはまるように作られている舞だからだろう。
 いまエルセリスを見守っている人たちは、あのときの失敗を思い出してはらはらしているのだろうか。それとも、危なげないと安心しているのだろうか。
(私は大丈夫。みんな、一緒に行こう)
 先陣を切ったエルセリスの舞は、剣を鎮めるように下ろし、裾を広げながら膝を折る姿で終わった。
 拍手はなかったけれど十分なものを舞えたと感じられて、胸を張って舞台を下がることができた。

    


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