疲弊しながらも一方で凄まじさを増していく典礼官の祈りは夕暮れを迎えてもなお力強く続き、夜が更けた頃にアトリーナのネビンは三回目の祈りをやりきり、残すところはエルシスの最後の剣舞となった。
 夜の篝火は赤々と眩しい。疲れ切った身体に湿った空気は重く、手にした剣はゆっくりと重量を増していた。森に響く祈りの声は無意識に染み付いているそれを紡ぐため、舞台には不思議な力が満ち始めていた。
 見張りの騎士たちは数度の交代を経て儀式が終わるときを待っている。オルヴェインもその中にいるだろう。首都にいる国王やアルフリード、留守番のエドリックや典礼官たちもそろそろかと時計を見ているかもしれない。もしかしたら予言をくれた時の神も。
(私、変われてよかった)
 強くて優しくて美しい人間なろうとここまできた。本当にそんな人間になれてはいないだろうけれど、厳しくて温かい友人と尊敬できる同僚、茶化すようでいて辛抱強く見守っていてくれる上司や仲間の存在は、自分が変わろうとしたから巡ってきたつながりだ。
 それをオルヴェインにも感じてもらいたい。
(変わったあなたが、これからもたくさんの幸せな出来事に出会えますように)
 そうしてこれからここに生きる人たちがそんなありふれた日常を送ることができるように。
 エルセリスは剣を手に取った。
 最後の舞は無音と決めていた。
 自分の剣舞だけで祈りを、それでいて通常考えられない長時間を舞うことに難色を示したのは、同じ聖務官であるアトリーナとネビン、式次を作成する奏官たちだった。だがこれがやりたいんだと強く言えばみんな納得した。高みに行きたいという思いを折ることを知っている彼らもまた、祈りを行使する人間だったからだ。
 ふおん、と大きく翼を羽ばたかせるように、柔らかな風をまといつかせるためにエルセリスの剣は静かに空を撫でる。
 祈りの声は止み、楽を奏でる器械たちは沈黙して、かすかな息遣いと足音、宙を舞う剣と衣擦れの音に舞台を譲っている。エルセリスの内側でいつも聞こえている音楽は聞こえず、あるのは静かな自分だけだ。呼吸が太鼓であり、布をひらめかせる音と空を切る音が弦楽器の奏でる音階だった。
 しなやかな動きを反映した影が大きく揺らめくのは、神がいた時代に行われた秘儀のように艶かしい。
 大きく袖を広げて軌跡を描く。空に無数の輪を描いてひとつの大きな絵を描きあげるのだ。そして足運びでその絵を立体として浮かび上がらせる。
 ただ動くだけが舞ではない。剣を振り回すだけでもいけない。
 静と動を組み合わせ、どの一瞬を切り取っても美しい姿でいなければならない。
 全身に張り巡らせた神経で何気ない動きを芸術品にしながら、表現すべきものを剣舞で描く。芸術は緻密で繊細なパズルだ。何かひとつ違えば心に響くはずのものは駄作に落ちる。
 間違ってはいけないそれをひとりで組み立てるのは孤独で苦しい作業だった。跳躍した後の呼吸や剣を握る手に感じるしびれとはまた違った、痛いほどの苦しさ。
『あなたにはできるわ。エルセリス』
『僕たちって……好敵手、なんですね』
 孤独だけれど寂しくない。頼るものはないけれど不安ではない。不思議なほど凪いだ心の表面を確かめるように舞う。
『お飾りの聖務官長官だが、たまには役に立つだろう?』
『聖務官のお手伝いができれば幸いです』
『期待している』
『いってらっしゃいませ!』
 なんてことのない日常の風景や人の姿、言葉が聞こえてエルセリスを導く。
 これらは私を守るもの。私が守るべきもの。
 叱られたことも陰口を言われたことも、理不尽に責められたこともある。そうして傷付いた部分をならしてつぎはぎした心のいびつな部分が感じられる。
『お前を好きになるやつなんていない』
 いまもひび割れているそこから響いた声に、エルセリスは笑った。
(でもあなたが好きになってくれた)
 だから私はいまの自分とあなたが好きだなって思うんだ――。
 そのとき、風が吹いて篝火のほとんどが消えた。
 まばゆい舞台は消えてうら寂れた廃墟が立ち現れる。息を飲む典礼官たちの頭上を寒々しい風が渦を巻く。素早く広がった闇の中、激しい物音が外から響いてきた。
 うめき声。剣戟。何かが落ちて割れる音。
 反射的に聖具を掲げたのは聖務官としての勘だった。
 次の瞬間ぶわりと嫌な風が吹き付ける。踏みとどまろうとしなければならないほどの強い風だった。
 そうして後には息も絶え絶えとばかりに揺らめく灯火と、舞を止めざるを得なかったエルセリスが残された。
(なに、これ……)
 席を立ちかけた典礼官たちが一斉に崩れ落ちている。座っていたはずの者たちも昏倒し、その場に意識を失った人間の山ができていた。五十名もの奏官が倒れている光景は異様とした言いようがなく、そこにひとりだけ立っているエルセリスはぞっと背筋を粟立てた。
(騎士たちは)
 暗闇に包まれている外からはもう音がしない。同じことが起こっているのを直感的に確信した。
「痛っ……」
 右手が燃えるように熱くなって剣を取り落としそうになる。
 だが足音がした。かさり、かさりとこちらに近付いてくる気配がある。
 痣の放つ痛みに耐えながらエルセリスは剣を握りしめ、迫り来る『何か』を見定めようとした。
 そうして、闇の中から姿を現したのは、頭巾のついた暗褐色の外套をまとった小柄な人影だった。
 どこかで見たような、と考えて次の瞬間に答えが出た。
 その暗い色の頭巾と華奢な身体はいつか夢で見た。
「あなた、は、」

    


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