1. あるひとつの夢
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 空が紅いのは落日の色。赤い砂埃が舞い上がり、見る者に血煙と怒号の錯覚を起こす。だが確かにその大地が紅いのは本当の血が流されたからだ。世界は紅い。折り重なる無数の戦士たちの影は忍び来る夜のように黒く、剣は主を失って空白で、旗は虚空に残される。乾いた風に紅い砂は舞い上がり、鋭い一風が取り残されて泣いている。
 小高い丘の上で影が一つ、外套と髪をはためかせて立っている。
 白い肌を落日に染めた少年はじっと天空を見上げている。青い瞳で薄紫に染まりゆく空を砂煙越しに見ながら、彼は五感を静かに張り巡らし、自らの内なるものを見定めようとしていた。
 声が聞こえていた。求める声、望む声が。多くは女たちの声だ。やがて彼の中で母の声に変わっていく。
 女たちは望んだ。もう何も失くしたくない。追うことも追われることもしたくはないと。
 母は求めた。故郷を。誰も傷付かかずに生きられる世界を。
 そうして父はそれらに応えようとしたのだった。
 彼の中の父は、最期の瞬間の、全身から血を流しながら屍の上に立って吠える姿になって心の中に柱のように浮かんだ。父は息子に祝福とも呪縛とも取れる言葉を残して手の届かない場所へと行ってしまった。
『祝福無き女神に呪われし子よ、呪いは祝福であるぞ!』
 誕生に際して女神に呪われていると占に読まれた少年は、今己が岐路に立っていることを受け止めている。
 ひとつの道は心安らかでいられるもの。苦難はないが何も変えられない道。
 もうひとつの道は辛く長く険しい。到達できれば大きく全てが変わり行ける道。
 砂煙の赤が風の加減で一瞬薄くなり、暮れゆく空がはっきりと碧眼に映った。淡い紫の空に、黄金の輝きを持つ月が浮かんでいる。
 ――我が祝福を。
 空を見ていても、父を亡くした瞬間少年は己の名を呼ぶ者たちがいたことですでに道を決めていた。この道は辛く長く険しく神々の祝福はなかろう。この大陸の守護神にすら呪われている自分には。だがその時こそ自らを祝福に変える。
 ――ナリアエルカ統一を望む、多くの弱者に。
 けれど一歩進み始めようとするこの瞬間だけ、お前にはないと言われた祝福を、あのどんな弱者には清かな光を投げかける月にだけ求めた。

   * * *

 我が子の瞳が自分と同じ金の色をしていると言われた時、女は絶望して顔を覆ったのを思い出した。
 夜の月は金の色をしているが、自分のようではなく愛する娘のように純粋で清らかな光を放っている。今娘の瞳はベッドの中で閉じられているけれど、開いた娘の瞳は真昼に輝く金の月だ。
 夜はひどく静かだった。奇襲の心配もなく兵の数も減った。ナリアエルカがひとつの国としてまとまろうしているだからだ。大小様々な部族があり小国が乱立していたナリアエルカで、ある男が立ち上がり国をまとめようとしていたという話は彼女も聞いたことがある。戦場に立っていたのだから当然だ。
 だが戦士としてではなくそれ以下の人形だった。美しく禍々しく着飾り、兵士たちを鼓舞させるために装飾された言葉を発するというのが役目の飾り物。ぴたりと戦場に目を据えていれば、人は戦いの部隊で生死の円舞を踊った。幾度と繰り返される戦いの光景を女は目に映してきたが、死は見たくなかったから目を開いていても何も見ないようにする術を身に付けられるようになった。
 魔人の瞳――ナリアエルカを襲い災厄を呼んだ魔人の瞳は、女と娘と同じ金色をしていた。目を見ただけで真名を読みとり魂を奪ったという。
 戦場に立ち魔人の瞳の者として多くの人々を殺す。生きていく為に課せられた役目はそれだ。自分の持っている瞳がその魔神の瞳なのかどうか彼女には分からなかったし、故郷にいた時はそんな力はなかったから間違いだと訴えたけれど、周囲にはどうでもいいことらしかった。例えそんなものはお伽話で現実には存在せず生死が人の行いひとつであっても、必要なのはそこにある『金色の瞳』なのだから。
 敗者の部族にいれば我が部族を呪ったのだと怒りを叫ばれ、勝者の部族にいれば相手の部族の呪ったのだと喜びを持って言われた。同時にあるのは恐怖で、誰も目を合わせようとせず女はひとりだった。敗者から勝者の部族に身を移し、象徴として戦場を金の瞳で眺めた。いくつの部族、どの部族の味方となったのかは覚えていない。道具だったから覚える必要もないように思われた。
 今の部族には長くいる。娘の父親がその長なのかは分からない。けれどどうかこの子が長く安らかでいられますように。ようやく終わる流浪のひとがた。ナリアエルカが統一されれば部族間の争いは減り、やがてなくなっていくだろう。娘が生まれた時に思ったこの子もひとがたになるという予測は現実のものとなってしまったが、ようやく終わる、利用される悲しみを感じなくてすむようになる……。
 女の隣で微睡むのは、黒い肌に黒い髪、金色の瞳をした我が子。
 多くを呪った金の瞳を持つ白い肌の異国の女は我が子にだけ、祈った。
 ――この子にだけは祝福を。
 金の月のような柔らかな光をその目に揺らめかせて。

   * * *

 ――……水の神ナリアエルカは終末に世界のすべてを洗い流す役目を負っていましたので、その時が来るまで深く眠ることにしました。ナリアエルカは夢を見ました。何も持たない男が王になる夢、または王にならずに死んでいく夢。英雄が歴史に綴られる夢、あるいは歴史書すら焼かれる夢。人々を揺るがす女が自ら命を絶つ夢もしくは娘を生む夢。娘がまた子どもを生む夢、その子どもがまた子どもを……。ひとりの人の様々な可能性を見ました。女神の夢は呪いと祝福です。その女神が繰り返し見た夢はひとりの男のものでした。異国の血を引く男の夢です。彼は偉大な男の息子でした。その男の名は……――
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