16. 散策のお誘い
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 むっとした熱気と煙草の煙で視界が暗い。雑然とした声と笑い声が響いていた。男たちは女を侍らして酒を飲み好きに食う。同じく雑多なにおいは慣れないものだったが、これは使命だと理解していたため、衣装を変え化粧もこの地方風に濃くして、彼女は男たちの間を渡り歩いていた。
「まったく、長殿には困ったものだ」
 大声が聞こえてそちらに意識を向ける。
「しかしこれに成功すれば……」
 しめた、と思った。
 一族の大きな集まり、それも夜も更け空気が酒の匂いしかしない時間になると、ようやく出て来る話というものがある。彼女は自分の一族の集まりに参加してそれを知っており、またかなり心の奥深いところの秘密を知るにはうってつけの時だと知っていた。
 酒を持ってそちらに近付く。
「わたくしのお酒を、どうぞ……」
「ああ」
 ぴったりと身体を沿わせて酒を注ぐ。
「異国の血を持つ王など、誰が崇めるものか」
「奴は魔術師と契約していると言うしな」
 ふんと一人が鼻を鳴らして嘲笑した。
「そんなのはでまかせだ。魔術師は命を取るのだろう? あいつはまだぴんぴん生きているじゃないか」
「そんなのは俺たちがやればいい」
 低くぼそっと呟かれた言葉に、各々無言で笑い杯を仰いだ。
「どういうお話なんですの?」
 甘ったるい声で側の男にささやきかける。腕を取って胸に押し当て、耳元に熱い、息ばかりの声を吹きかけた。
「知らんのか。ふん、教えてやろうか」
 男は彼女の腰を抱える。彼女は膝に乗る。
「長殿はな、王位を取り戻そうとお考えなのだ」
「そういえばマージ族が来ていましたけれど、もしかして?」
「察しのいい女は好きだ。そう、準備をな」
 溢れんばかりに注いだ酒を、男は掲げた。
「王位を我が一族に! 統一の栄光を!」
 男はひどく酔い始めていた。恐らく明日には記憶がない。そういう薬を混ぜたのだから。
 彼女は他の男たちの杯にも酒を注ぎ、唇を持ち上げ時折甘い声を上げながら書く手紙の内容を静かに巡らせた。

   * * *

 どうやって呼び出すのか、リワム・リラは考えていた。端から見れば、何を暗い顔をして落ち込むようなことがあったのかと心配するかもしれない。
 理由を探す時はナーノ・シイに言付ければいいとウィリアムは言った。しかし気持ちは膨らむばかりだった。『会いたい』という、何の理由も付随しない思いだけ。
(多分、私は考えたくないのだわ……)
 理由を、一緒に探してほしいなどと嘘も甚だしい。ただ会いたいというだけなのに。
 こんなに難しい。
 落とした視線の先が陰り、ふっと気配を感じて顔を上げた。
「ナーノ・シイ……?」
 彼女の顔は影になっていて、何故だかとても怖かった。彼女が口を開いた途端、その気配は薄れたが。
「リワム・リラ様、ウィリアム・リークッド様から御言伝です」
「ウィリアム様から……!」
「『部屋では誤解されるかもしれないから街へ降りないか』とのことです」
 リワム・リラは目を見開いた。その言葉は、後宮と王妃候補の制約を破る内容だ。だからナーノ・シイはあんな顔をしたのだろう。「お返事はどうなさいますか」と彼女はじっと母親のように厳しい目でリワム・リラの返事を待っている。
「あ……あなたは、どう思う……?」
「わたくしとしては」と前置きをきちんとしてナーノ・シイは少し語調を荒げた。
「王妃候補としての自覚を持ち、王宮にいるというご自分の立場をお考えになられて、例え大臣殿の我が儘であらせられても、行くべきとはあまり思いません」
 一言一言が刺さる。胸を押さえて、目に見えて落ち込むリワム・リラに、「ですが!」とナーノ・シイは。
「たまにはよろしゅうございますよ」
 仕方ないという口調で持ち上げた肩を落とした。
「本当にあの方は困った方。ご自分が誰かと遊びたくて、あなた様を誘われたのでしょう。リワム・リラ様のお立場などこれっぽっちも考えていらっしゃらないのでしょうね!」
「あ、あの、私は平気よ? きっと楽しいもの。嬉しいわ、遊び相手に選んで頂けるなんて」
 微妙なところでウィリアムを庇ってしまう。ナーノ・シイはそれが問題なのだと眉を吊り上げた。
「リワム・リラ様が断れないのをご存じなのです。気付いていなくても本能で知っているんですわ!」
「そ、それじゃあ、ウィリアム様に『是非』ってお返事してくださる? 私も外に出てみたいの!」
 愚痴が始まりそうだったので慌てて言うと、「かしこまりました」とナーノ・シイは模範のように頭を下げた。
 ナーノ・シイが下がると、またとんでもないことをしたかもと後悔が襲ってきそうになる。街へ降りたいという欲求は規則破り、自分からではなく向こうからの誘いだったという後ろめたさは、最後にはあの人に会えるというちょっと嬉しさで全部許されるわけがないのだ。
 その時、ものすごい勢いでその思考はやって来た。気付いた。
(な、何を着ていけばいいの……!?)
 外に出られる、実用的で華美でない衣装は城に持ってこなかったはずだ。盛り上がった父や女中たちが、リワム・リラがいつも着ていたような衣服は処分してしまった。
 真っ青になって女官を呼び、「衣装を探しているの!」と衣装箱をみんなでひっくり返したが、街に降りて行けるような服はなかった。どうしても裕福な人間に見えてしまうのだ。
「リワム・リラ様」
 汗を拭って女官は言った。
「誰かにお借りするというのは如何でしょう? オルハ・サイ様なら衣装をたくさんお持ちだと思います」
 理由も告げずに突然衣装箱をひっくり返し始めた主人に、女官たちは丁寧に提案する。
「オルハ・サイなら……」
 あの時以来、どちらの行き来もなくなっていた。向こうは偶然なのかどうかは分からないが、手紙のやり取りもない。それなのに衣装が必要だから借りに訪れるというのは、なんだか調子が良い話ではないだろうか。
「…………」
 でもこのままならきっと後悔する気もした。逃げるように出て来てしまって、もしかしたらオルハ・サイを傷つけてしまっているかもしれない。自分から訪れなければ、苦い気持ちが残ったままになってしまいそうだった。
「行ってくるわ」
 そう言っていた。
 会ったら何と言おう。あの時は本当に怖かったのだ。しかし逃げ帰ってしまったのは失礼だった。やっぱり最初は挨拶から? ご機嫌よう、それから。
 考えている間に部屋に着いた。女官に取り次ぎを頼んで待つ。迎え入れられると、リワム・リラは笑顔で挨拶した。
「ご、ご機嫌よう、オルハ・サイ」
 失敗した。上擦ってしまった。笑顔はぎこちないかもしれない。
「まあ、ご機嫌よう、リワム・リラ! 最近会っていなくて寂しかったの。今日はどうしたの?」
「あの、……今日は、お願いがあって」
 首を傾げて訊いてくれるオルハ・サイは普通の娘で、ほっとしてリワム・リラは外出着を貸してくれないかと頼むことが出来た。
「素敵な格好をしたいの。でも、手持ちの服は少なくて……」
「誰に会うの?」
 きらりとオルハ・サイの目が光る。
「え、あの……」
「おしゃれがしたいだなんて、一体誰に会うのかしら。まさか……」
 その後に続く言葉が、あの時のオルハ・サイから予想できて慌てて首を振った。
「違う違う! ウィリアム様にお会いするから、きちんとした格好をと思って」
「ふうん?」
 納得したのかよく分からない返事だった。しかしオルハ・サイは女官を呼んで「うすい黄色の、ナリアエルカの衣装があったでしょう。あれを持ってきて」と命じる。持ってこられたそれは、全体は街娘のように簡素だが、被るベールは物凄く凝って彼女の審美眼が素晴らしいものだとよく分かる品だった。
「これ、あなたにあげるわ」
「そんな、いいの?」
「仕立てたけれど地味であまり気に入らなくて。あなたなら似合うと思うわ。それから宝石ね」
 今度も別の女官を呼んで、ずらりと品を床に上に並べていった。
「うすい黄色だから、銀より金ね。宝石は緑のものがいいかしら」
 渡された装飾品は宝石は小振りだが全体的に大きく、だが繊細な鎖のものだった。奥へしまわれていたのか、ほこり、ではないようだが、宝石の周りに白い粉がついていた。
(……?)
 かしっ、と手の中で擦れる音がして、石がぽろりと外れる。
(わっ、わ!)
 慌ててはめ直す。そっと手を離して試しに逆さにしてみると、外れずにきちんと収まったようだった。安心する。
「どうかした?」
「え!? う、ううん、ありがとう。これ、借りていくわね」
「いいえ、持っていってかまわないから。また何かあったら手伝ってあげる」
 オルハ・サイは可愛らしく首を傾げる。
「どこかへ行くの?」
「ええ、街へ……」
 答えてはっとした。
「お願い、今のことは……」
「だいじょうぶ。みんなには黙っておいてあげるわ」
 いってらっしゃいと優しい笑顔にもう一度礼を言って、衣装を借り受けて部屋に戻った。
 オルハ・サイはリワム・リラを見えなくなるまで見送った後、並べられた装飾品を鷲掴みにした。女官を呼び付けて命じる。
「街へ行って、適当なのにこれを渡して言いなさい」
 処分が出来てちょうど良いわと、彼女は笑った。
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