22. 掻き乱す爪
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 夢の名残で微笑んでいた。着せてもらった衣装は皆贈り物にしようと言ってくれたが、礼を言って辞退した。そこまでしてもらうわけにはいかない。
 その内女たちは店に出る時間になって、着替えるリワム・リラに軽く挨拶と激励をくれて行った。ありがとう、と一人一人に言った。
 自分の元の衣装に着替えて一息ついた時だった。声が聞こえた。
「ウィリアムが好きなの?」
 ゆっくりと振り返れば、リナ・ユンは目元に皺を作って優しく微笑んでいる。だからこそリワム・リラは首を振った。
「強情な子だねえ。自分の気持ちを素直に受け止めなさい。自分の手を握ってくれる人を思い描く時、家族以外で誰が浮かぶ?」
 リナ・ユンは甘い声で囁くが、目を落として首を振るしかなかった。
「ごめんなさい……答えられません」
 認めることは、罪深い。後悔はないが口に出してはならないのだとリワム・リラは知っている。
 リナ・ユンは、まるで自分のことのように寂しげに笑って、それ以上は何も言わず聞かなかった。

 誰がやったのか、と考えるのは疲れるので止めていた。ただウィリアムを巻き込んでしまったというひどい罪悪感があった。謝罪したいのに会うことなど以ての外で、外に出ると女官たちの視線が気になって散歩は気分転換にもならなかった。
 ウィリアムがどんな噂をされ、どんな目で見られているか。信頼を失い、王を裏切ったと言われているのでは。そんなことを一つ考えると胸が痛んで仕方なかった。それは止められない自分の思いの行き場を探す痛みでもあった。会いたい、という思いで叫び出したくなるほどに思いは強く、精神は疲弊していった。
 椅子に座って一時目を閉じていた。最後に踊ったあの幸福の浮遊感を夢見たら、不意にあのひどい暴言が蘇る。目を開けた時には視界が明滅して頭が重く、思考も心も鈍い。見ているようで何も見ていないのだった。ただ痛みだけを感じている。
 そうしていると、視界に引っかかりを感じた。部屋の棚に見覚えのないものがあるのだ。
 古い人形だった。女の子を模している、手作りの、黒い髪に黒い瞳の布人形。
「…………」
 誰の物か。手に取ってみる。ざらりとした手触りは、布が古くなって毛羽立っているからだろう。
 しかし次の瞬間、その人形はふっと消えた。
(え?)
 溶けるように消え、不意に視界が揺らぐ。砂漠に見える蜃気楼のように揺れていた。空気が溶けていくような感覚。慌てて辺りを見回すと、おかしい。自分の部屋なのに置いてあるものは同じでありながら少しずつ違う。みるみる見知らぬ部屋に変貌していくのを肌で感じ取った。
 背筋が粟立つ。血の気が引く。リワム・リラは眩暈を起こす。足元が覚束ない。背中が冷える。自分でなくなる。影に。闇に。
「――様?」
 見知らぬ名前を女官が呼んだ。
『――』とは誰だ。私は。
 私は、
 私は……。
 薄らいでいく。名前が、存在が、すべてが。
 夢に溺れる。息が出来ない。消えていく。
 それでも息をしようとする意志が、見えない場所に手を泳がせた。
 手は、確かに、掴まれた。
『リワム・リラ』
 ぱっと世界が凝縮されたような感覚があった。「リワム・リラ様?」と自分の名前を呼ばれた時にリワム・リラは現実に戻っていた。
 しっかりと立って、足元に光が当たっている。高い気温がじんわりと肌に触れる。頭を振った。
(夢……白昼夢)
 手元に人形はない。
 きっと逃げたがっているから、立ち眩みを起こした時に白昼夢を見たのだろう。
 けれどあの人形の感触は。
 再び頭を振った。存在が希薄になる気持ちが悪いあの感覚を忘れようとして、思考から閉め出した。
「……どうしたの?」
 笑顔を作って女官に笑う。
「はい、オルハ・サイ様からお借りしたお衣装をお洗濯したのでお持ちしました」
「ありがとう」
 笑うと、女官は衣装を置いて仕事に戻っていく。
(ああ、そうだ。オルハ・サイに返しに行かなきゃ)
 女官に言付けて返しに行かせようとも思った。自分が行けばオルハ・サイにも余波があるかもしれないからだ。しかしきちんと返しに行くのも誠意だとも思う。
 迷った末に、衣装と装飾品を胸に抱いて部屋を出た。
 自然と廊下を行く足は速くなる。回廊は午後の熱に静まり返ってたが、しかし向こうから歩いてくる誰かに気付く。すらりとした長身と、鮮やかな衣装。
「あら、リワム・リラ」
 道を逸れるのが一歩遅れた。キール・シェムは目敏くリワム・リラを見つけ、優雅にこちらへ近付いてくる。
 早く立ち去りたい一心で、低く挨拶を口にした。
「……ご機嫌よう」
「ご機嫌よう。あなた、なんだか色々あるみたいねえ?」
 キール・シェムの笑いに、リワム・リラは身構える。
「王の右腕と言われる大臣の後ろ盾があるかと思えば、やっぱりそういう仲だって噂……」
 耐えろ。耐えろ。唇を噛む。自分のことだったら何を言われてもいい。心に傷を作っても耐えていける。
『嘘の笑いをするな』。例えその言葉に背いても。
 こらえすぎて何も感じなくなってほしくない。そう言ってくれた人のためならば、何だって越えられる。
「金目の混血と、白肌の異人。やっぱり異国人は裏切り者ねえ。忠誠心ってものがないのかしら? ナリアエルカにいるのが間違っているとは思わなくて? 簡単に人を裏切れる、薄汚れた、家畜以下の、」
「――っ!!」
 リワム・リラは手を振り上げた。
 けれどあの人を汚すような言葉は許せない。絶対に。
 ばしっ! という頬を打つ音が響く。
「あの人を、あの人を悪く言うなんて許さない!」
 キール・シェムは腫れた頬に触れもせず、ただ濃い瞳で笑った。
「混血と異人如きが。真実であるのに何をそんなに怒る必要がある?」
(許せない――!)
 瞬間、飛び掛かっていた。きゃー! というキール・シェムの高い悲鳴。
 もつれ合い、転がる。襟を掴むのをキール・シェムが抵抗する。ひっかき傷を負い、髪を掴まれる。
 リワム・リラは叫んでいた。謝って。謝って!
 上下反転するのを何度か繰り返していた二人の身体が、急に離された。
「お止め下さい! 何をしているんです!?」
 後ろを押さえられながら、「離して!」と叫んだ。
「許さない。許さない! 謝って! ウィリアム様に謝って!」
 引きずられ、部屋の一室に閉じ込められた。扉が閉まる寸前、助けに現れた女官に何事かを訴えかけていたキール・シェムがこちらを見てうっすら笑った。
「っ!」
 閉じられた扉を殴りつける。悔しくて涙が出た。
 異国の血を引くということが、何がそんなに悪いのだろう。ウィリアムはナリアエルカの為に尽力してくれている。王位にあるカリス・ルークでさえ異国の血を引いていながら戦乱のナリアエルカを終結させ、平和なナリアエルカを治めている。愛してくれている。彼の言葉を借りるのなら、二人は祝福だ。ナリアエルカに降る祝福。そしてウィリアムはリワム・リラの。
 許せるはずがなかった。何があっても許してはならない。自分だけは絶対に。
 なのに何も出来ない。
 ずるずると膝が崩れ、泣くまいとこじ開けていた瞳から涙が零れる。
 どうしてこんなに力がないのだろう。あんな風に手を出して。結局誰かを傷付けることしかできない自分がみじめすぎた。最後にはそういう手段に出た自分が、嫌いで仕方がない。
 誰かに祝福を与えられる人になりたいのに、どうして何も出来ないのだろう。
(きっと、あんな言葉をたくさん聞いてきたんだわ)
 どうか、傷付かないで。嫌いにならないで。そのままでいてほしい。
 ナリアエルカを愛してくれている人を、守りたい。

 倒れ込んでうつむいていたリワム・リラの元に、真昼の光が射す。
 扉が開く。
「リワム・リラ殿、来られよ」
 入ってきたのは侍従だった。入ってこられないはずの男性の侍従は、涙の跡の残るリワム・リラを何も見ていないような目で見下ろし、告げた。
「カリス・ルーク様のお召しである」
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