25. 囁く影
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 日は沈んで、月は出ず、星が粉のように散っている冷えた夜。遅くなったがオルハ・サイの部屋を訪ねると、彼女は驚いた顔でリワム・リラを迎えた。
「リワム・リラ! 聞いたわ、いろいろと……」
 言い淀む彼女に、リワム・リラは笑みを返した。
「ごめんなさい、こんな時間に」
 オルハ・サイは寝間着だった。それでもフィルライン風の白いひらひらした美しい服で、いつもは覆っている首元から、今は金鎖の首飾りが見えている。それで思い出した。
「しまった! 借りたものを持って来てないわ。また後で返しにくるから」
「あら、かまわないのに」
 キール・シェムと組み合った際、放り投げてしまった品々。あそこには人がいたから、拾ってくれているといいのだが。こんな時間に部屋を訪れて何をしに来たんだろう。
 落ち込んでいたら視線を感じた。オルハ・サイが不思議そうにこちらを眺めている。そうして口を開いた。
「どうしたの? 雰囲気が変わったわ。髪型やお化粧のせいかしら」
 思わず手を顔に当てる。髪は巻いているし、化粧もきちんとしていた。落ち込みながらも教授されたことを実践していたのだ。励ましてくれた女性たちや一緒に踊ってくれた人のことを思うと、頬が緩むのを抑えきれなかった。
「どう、かしら。似合う?」
「どうかしら、ねえ」
 眉をひそめた言葉に、リワム・リラは目を瞬かせた。
「やっぱり、いつもの大人しい格好がいいんじゃないかしら。それじゃあ色目を使っていると言われても仕方がないと思うの」
「……でも、綺麗だと言ってくれた人がいたから」
 なんだかもやもやする感覚を感じながら言う。
 オルハ・サイは、そうなの、と少しばかり目を細めてどこか不機嫌そうに言った。
「そういえば、キール・シェムとけんかをしたと聞いたけれど」
 話が変わったが、リワム・リラは詳しいことを説明しなかった。口論となって自分が先に手を出してしまい、呼び出されたがウィリアムに助け出されたと言うだけにとどめておく。
 一つ一つを身を乗り出して聞いていたオルハ・サイは、やがて聞き終えるとふうっとため息をついた。
「本当に良い方なのね、ウィリアム・リークッド様って」
 彼女はリワム・リラの肩に手を置き、もう一方で手を取って指を絡めてくる。
「ねえ……わたしもお会いしたいわ」
 上目遣いになったオルハ・サイは、目を決して外さないまま唇を持ち上げる。
「ウィリアム様に会えるのって、あなただけなのよ。文官も武官もここには全く近づかないし」
 身体まで寄せられてリワム・リラが戸惑っていると、目の前で手が合わされた。
「わたしにも会わせて。是非お話ししたいの! それが無理なら、こっそり見るだけでいいから。王の右腕と言われる大臣殿を見てみたいの」
「……憧れているの?」
「もちろん! だって統一した国を支えている方たちよ?」
 リワム・リラがカリス・ルークに憧れるのと同じだろうか。それなら会ってみたいと思うのは当然かもしれない。言葉をくれるだけで、きっと強く生きていけると思っていた。本当に、正面から微笑みかけてくれる人がいるのだ。
 少し考えた末に、微笑ましくなって言った。
「分かったわ。今度お会いする時に言っておくから」
 オルハ・サイは手を叩いて喜んだ。
 その機会はすぐに訪れた。散歩しているとばったり出くわしたのだ。
 茂みの奥で話し声がしていた。リワム・リラの耳はすぐにその声を聞き分け、明るくなる表情を抑えきれずに手は茂みを掻き分ける。
 すると前から来た身体をぶつかった。
「きゃ」
「おっと!」
 肩をつかまれ、倒れずにすむ。見上げた先の彼はリワム・リラと同時に目を丸くした次の瞬間、ぱっと自身の頭を大きな手のひらで押さえていた。
 しかし、その寸前、何か見てはいけないものを見た気がした。……髪の毛が。
(き、気のせい、よね?)
 リワム・リラはすぐさま思考を切り替え微笑む。
「ご機嫌よう、ウィリアム様」
「あ、ああ」
 ウィリアムは珍しく焦った様子で背後を見やる。誰もいない。静かな葉擦れの音がするばかりだ。
「リワム・リラ」
 ウィリアムはこちらに顔を向けて、にっこり笑っていた。
「ちょうどお前に会いにいこうと思っていたんだ」
 頬が染まってしまう。
「裏庭が、ちょうど花が見頃なんです。行きませんか?」
 ウィリアムは、喜んで、と先に歩き出した。
 ナリアエルカの南部に咲く極彩色の花は、茂みごと色別に分けられて、虹のような流れを作り出している。高い木があって、赤い花が咲いていた。シアルーの花だ。
「シアルーは王を助ける花と言われている。知っているか?」
「はい。そんな伝承がありましたね」
 毒を試験する花で、毒の入ったものに浮かべると色を変えるという花、ナリアエルカ神の祝福だ。
「姉が寝物語にしてくれた覚えがあります。母は異国の人でしたから、全く知らなくて……」
「私は父から聞いたな」
 軽く目を見張った。
「お父様から?」
「父の趣味だった。異国の話を集めたりして」
 ウィリアムはふっと微笑みをこぼす。
「詩作も趣味でなあ、上手いのか下手なのかよく分からん詩を聞かされた」
「まあ……もしかして覚えていらっしゃいます?」
 どうだったかなと彼は顎をさすり。
「最近、妙なことはないか」
 不意に何事もないような声で尋ねた。その突然さと問いの内容に、リワム・リラは首を傾げる。
「いいえ。何もありません」
 嫌がらせは最近減っていて、多分犯人は飽きたのだろうと思われたし、最近の変事といえば、びらを撒かれたこととキール・シェムに殴りかかったことくらいだ。それはウィリアムも知っているはず。
「家からは何か?」
「何もないです。……どうしたんですか?」
 姉の言葉が不意に思い出された。『自分の身は自分で守るように』。普通に聞き流した言葉、これであまり思い出さない言葉だったのに、今、急に。
 するとウィリアムは声を潜めた。
「王が狙われている」
 どきりとした。矢を射かけられた時と同じ恐怖が足下に忍び寄る。
「容疑者が立っているが、証拠がない」
 よほど青ざめていたのだろうか。リワム・リラの頬に彼の手が伸びて、触れた。
「すまない。不安にさせた」
 触れられたことに驚いたリワム・リラは、じっと青い目に見つめられて小さく首を振った。それでもウィリアムは木から花を摘み、それをリワム・リラの髪に挿す。
「あの、怒られませんか?」
「気にするな。それに、私よりもお前に飾ってもらった方が喜ぶぞ、花も」
「分かりませんよ。ほら、挿してみて下さい」
 花を摘んで差し出した。ウィリアムは顔をしかめると、渋々といった様子で耳に挿す。
 次の瞬間、ぷーっとリワム・リラは噴き出した。年齢を重ねた男性が髪に花を挿しているのは滑稽な絵面だった。可愛いと言えなくもないが、おかしい。
 仏頂面になったのがまたおかしくて笑う。
「笑うな」
「す、すみません」
 くすくすと笑いが収まらない。ため息のウィリアムは自分の花を外して、リワム・リラの髪を掻きあげ、そっとそこに挿した。
「お前が笑うと嬉しいのはどうしてなんだろうな」
「え?」
 小さすぎて呟きが聞こえなかった。ウィリアムは微笑むと、言った。
「愛しき人よ」
 びくっとリワム・リラの身体が跳ねた。
「愛しき人よ、月花を見よ、命光り輝き、想い花開く時……ううん?」
「……お父様の詩、ですよ、ね?」
 少々不安になりながら尋ねると、ウィリアムは考え込んだままそうだと答えた。
「よく分からん詩だ。覚えているものだな」
 さて続きはどうだったかなと考えている。ぶつぶつと思うままに呟く様を見て、リワム・リラは思った。
 この人が、愛しい。
 花をくれる人がいるなんて思いもしなかった。笑いかけてくれる人が他人にいるなんて。
「……月の香りに愛を寄せよう、貴方が私のただ愛しき人」
 まるで自分だけに捧げられた詩のようで、リワム・リラは幸せに微笑んだ。
 二人の笑い合う声が響く。
「今度友人に会って下さいませんか? 王妃候補なんですが……」
「それなら私も親友がいて、お前に一度きっちり会わせねばと……」
 影が見ていることも知らずに。

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