33. 真実
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 すべての一瞬が、一度ずつ静止して過ぎ去っていくようだった。
 目に入ったのは、弓を引き絞るキール・シェムの姿。艶やかな姿態が凛と立ち、黒い縁取りの目を愉しげに細め赤い唇を歪めている。しなやかな腕の筋が弦を引くことで隆起していた。彼女の弓につがえた細い矢は、まっすぐに、ウィリアムに。
 狙いが間違えないことを知ってもう一度彼を見た瞬間に、矢が放たれる音がした。
 何を考えるまでもなかった。
 身体が動いて、突き飛ばすために腕を伸ばし、しかし彼を突き飛ばせずにそのまま庇う形になる。
 背中に衝撃が走って呼吸が止まった。
「【風 縛】!」
 短い呪文がキール・シェムを捕らえ、リワム・リラの崩れ落ちる身体はウィリアムに支えられた。
「リワム・リラ!」
 その時ちょうど駆け込んできた兵士たちの足音をリワム・リラは聞き、良かった、と安堵の息を吐いた。しかしうまく吐けなかった。兵士長らしき人物がウィリアムに駆け寄り、引き連れられてきた兵士たちは魔術で縛られた男とキール・シェムを押さえ込む。
「街で金目の娘が邪魔をしたと言っていたが、やっぱりお前が最後まで邪魔をするのか……!」
 苛立ちと憎しみの声を朦朧として聞いたリワム・リラの脳裏に浮かんだのは、ウィリアムと出会ったあの時。金鎖の紋章を引きちぎった。
 うまく動かない瞳を動かすと、押さえ込まれたキール・シェムの胸元から覗く同じ光が目を射る。
「リワム・リラの命を狙ったのはお前か」
「さようでございますわ。あたくしたちのことを知った者を、生かしておくわけにはまいりませんもの」
「だから……」
 リワム・リラは息ばかりの声で言った。
「だからウィリアム様を……」
 キール・シェムが笑った。
「はっ! 違うわ。あたくしはカリス・ルークを狙ったのよ」
 思考の回転が遅くなり、止まりかけ、ただウィリアムの手が強ばったのに気付いた。
「お前たちが裏庭で会っているのを見て分かったのよ。お前には分からなかったのかしら? 肖像画のままではないの! 白い肌、青い瞳、髭と金髪は変装でしょう?」
 霞む目を凝らして、必死に自分を抱く人を見た。
(どうして……)
 どうして気付かなかったのだろう。細く綺麗な顎も、異国人のような高い鼻も、海のように青い瞳も、彫りの深い顔も。髭をなくし、髪を黒くし前髪を上げて撫で付ければ、それはリワム・リラの救い主だ。いつも救い上げてくれる人だ。
 手を伸ばす。痛む胸に耐えて、告げる言葉を探している人に。
「カリス・ルーク、様……」
 そんな嘘はもういいのだと伝えるために。
『魔女エーリアの娘』
 しかし、声が聞こえた。
『お前の母はナリク・ルークを殺した』
『カリス・ルークの父の仇であるお前』
『魔女エーリアの娘』
『人殺し』
 ――受け入れてくれるわけが、ない。
 リワム・リラを闇が呑み込み、閉ざして消える。
 伸ばした手が落ちた。

「リワム・リラ!」
 高らかにキール・シェムは哄声する。
「毒矢ですわよ。異国の毒。決して助からない!」
「黙れ!」
 ウィリアム――カリス・ルークの一言で、兵士たちが反乱者たちに猿ぐつわを噛ませて連行していく。
「エスカ! 彼女を助けろ!」
 若い魔術師は首を振った。
「だめだ。こうなっては。彼女は理に組み込まれていない」
 それで理解する。
「……正史に組み込まれていないから、見殺しにするのか」
 エスカは答えない。それが答えだった。
「馬鹿を言うな! 何が理だ。そんな理で支えられる世界なら滅びてしまえ!」
「覇王の君がそれを言うの? 僕たちの存在意義を覆しちゃうよ」
 腕の中の少女は青ざめ、か細い息を吐いている。今にも消えてしまいそうだ。
 そうだ、恐らく彼女が死んだ時点でリワム・リラという存在は消えるだろう。魔術師の守護がないナリアエルカでは、世界の歴史である【正史】を辿れていない。異変に気付いた異国の魔術師たちが遥かな時を越えて外れていく時の螺旋を正そうとしているが、リワム・リラは、エスカの言う『登場人物ではない』のだ。彼女が消えた時点で歴史をまた修正するために、魔術師が過去へと動くだろう。
 しかし失われること、それはカリス・ルークが歴史を辿れないことの恐怖よりも、恐るべきこととして大きく膨らんだ。それこそ、カリス・ルークの存在意義が覆されるほどに。
「リワム・リラ……!」
 きつく彼女を抱きしめた。
 カリス・ルークが夢を与えてくれたと言った、少しずつ花開くであろう彼女を、自分は夢見ていたことに気付く。美しくなってほしいと思った。気高くあってほしいと願った。きっとこの娘は変わらずに、自分を見てくれると夢を見た。
「リワム・リラ……」
『王』を信じた娘。その名前は、もうすでにカリス・ルークにとっての祝福であったのかもしれない。
 月を見上げる。
「助けてくれ……」
 まだ明るい蒼穹に浮かぶ白い三日月は、カリス・ルークがあの時願った祝福の月ではない。しかしそれでも願わずにはいられなかった。
「例えこの世界がたゆたう海の中で永遠に回帰するあなたの夢であっても、それを何度も辿る他の誰かの物語でも、私は、私たちはここにいる」
 呼びかける。聞こえるか、見ている者よ。
「助けてくれ。私は彼女を失いたくない――ナリアエルカ」
 その瞬間、足りなかった月が光によって満ちた。
  真昼だというのに世界に夜が降りてくる。紅の夕暮れを残す藍色の夜空で、満ちた月は鮮烈な光を降り注がせた。
 エスカが目を見開きあんぐりと口を開け、何かを探すように慌てて別の場所に目を向ける。そこに新しい魔術師が現れ、焦った声で叫んだ。
「理が変わる。正史がものすごい勢いで書き換えられている! ナリアエル
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