35. 月の夢
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 枕元で魔術師の青年が泰然と微笑んでいた。尋ねてもいないのに彼は喋り出す。リワム・リラが何を見てきたか知っている風だった。
「僕たちはね、理を遵守する機関なんだ。理っていうのは、歴史の流れのことを言う。例えば、誰それが王になるとか、誰それが英雄になるとか、それがいつまで続くかとか。正しい王、乱世の英雄が突然死なないように、理が選んだ人間を、僕たちは守るために動く」
「……突然の死も、それは歴史ではないんですか……?」
 彼は頷いた。
「そう、それは歴史。でも、今ナリアエルカではその正しい歴史が行われない。世界は今、揺らぎの中にある」
 この人たちは行ってはならない場所にいるのだ。あの歴史を見る人の場所の近く。
 しかし気付いていないのか。
「あの人は、誰なんですか」
 エスカは苦笑した。
「うーん、それを訊くか」
 けれど彼ははぐらかしたりはしなかった。とっておきの秘密を喋るように、内緒だよと指を立て少し微笑んで。
「彼女はナリアエルカ。この大陸の神、ナリアエルカだよ」
 リワム・リラはため息をついた。ということは、自分は過去と未来を垣間見たのだろう。もう、少しだけおぼろげになってしまっているけれど、それでも振り返ったあの子どもの瞳の色は忘れられない。
 祝福の金の色。その自分のものではない思考は、きっと彼の夢が混ざったものだった。
「夢……」
 ん? とエスカは優しく聞き返す。
「私は夢の人物なんです」
 彼は少し目を見張った。
「そこまで知ったの? ……大丈夫?」
 リワム・リラは少しおかしかった。はい、と小さく笑って返す。
「この世界は、夢なんですね。神様が、ナリアエルカが見ている夢」
 彼女の見る景色。過去。呪われた象徴の金色の瞳の女。死ぬ間際の王の系譜を持つ男。王の系譜を引き継ぐ白い肌と青い瞳の少年、覇王と呼ばれる男。象徴を継ぐ金の瞳の娘。
「私はその夢の登場人物。でも本当はあらゆる人が登場人物で、神様の夢の中でそれぞれの夢を、神様の夢を覗き見ていることに気付かないで、現実という夢を続けている」
 未来。混血の父親と、母親と、金の瞳の子ども。あるいは父親であったはずの男の慟哭。それは可能性。
「物語はいくつも、眠れる者の中にある……」
 一度目を閉じ、開いて魔術師を見た。澄み切った気持ちで尋ねた。
「その可能性(ものがたり)たちを知っているあなたたちは運命の神様なんですか」
 魔術師エスカは、とらえどころのない微笑みを浮かべた。
「僕はそうはなりたくないんだけどね」
 君の思うように……と囁いた。彼は気付いている。
 リワム・リラの思うように、全ての人々と同じく彼ら魔術師もまた、『登場人物』なのだ。
 分かっていると言うように悠然と笑む彼は、杖を持ち上げて扉を示した。
「時間をあげる」
 契約の代償までの時間なのだと知る。見つめていると、異国の魔術師は微笑んだ。
「行ってきなさい」
 指し示されるまま、寝台から起き上がって進んだ。
 まるで泳いでいるようだった。城は静まり返っており、破壊された廊下は元通り、何事もなかったかのように磨かれ輝いている。風が進む方向から吹いていた。ただ少しずつ、リワム・リラの知る城とは違う。柱の装飾や、飾られているものなどがほんの手先が狂った程度に異なっていると、感覚で感じた。
 王の私室の扉は開いていた。そこが王の部屋だと知らないはずなのに知っている。滑り込むようにして室内へ足を踏み入れた。
 薄布がそよぎ、こちらだと呼んでいる。足音も立てずにテラスへ出た。そこには机と椅子が用意されている。
 腰掛けるのは、黒い髪、青い瞳、白い肌の、異国の色を持つ覇王。
 彼はリワム・リラを見て驚いたように目を見開き、呟いた。
「これは夢か……」
 この世界はリワム・リラの知る世界ではない。しかしどうやらまた違うリワム・リラが存在していた別の世界らしい。ここは夢の狭間で、自分もまた曖昧なのだ。だから言った。
「ええ、夢です。カリス・ルーク様」
 リワム・リラは微笑み、彼の前の席に座る。
「私は、……女運が悪いようだ」
 肩をすくめて諦めたように。くす、とリワム・リラは笑い声を漏らした。
「本当に。この世で一番お悪いと思います」
 カリス・ルークはワイングラスを置いた。
「お前を死なせた」
 声は低く固く強ばっていた。ワイングラスから離れる指も、後悔に固くなっているのを見て取る。
「文句を言いに出てきたのだろう?」
 微笑むことができていない目の前の人に、精一杯首を振る。
 ただ最後の時を、夢を見ているだけ。
 沈黙が風にも吹かれずに落ちる。カリス・ルークは言いたいことがあるのに言い出せないといった風で、きっとこれが夢か現実か疑っているのだろう。黙って机の上の葡萄酒に目を落としている。そのまま見つめ続けていたいのに、顔を上げていられなかった。
 たくさん言いたいことがある。しかしそれはただ溢れる思いで、うまく形になっていない。形にしてしまえば、言ってしまう。あなたに愛されたい、と。
「……月を」
 ぽつりと言われた言葉に、顔を上げた。
「月を与えられると言った、お前は」
 意味が分かって、思わず笑みがこぼれる。カリス・ルークはそれを夢と現実の判断に使おうとしていた。
「与えられるか? 私に」
 頷いた。微笑んだ。まさかここでそれを行う時が来るなんて、少し楽しかった。
 ワイングラスにワインを注ぐ。
「ごらん下さい。月が映っていますでしょう?」
 赤い水面に浮かんで揺らぐ満月。
 この覇王はすぐに理解したらしい。静かな笑みを刻んだ。
「飲み干せば、月を手に入れることができます」
「……子ども騙しだな」
「はい。これは一時的な魔法です。月が沈めば終わってしまう」
 カリス・ルークはじっとワイングラスの中の月を見つめている。そこに求めるものを見出せるかのように、ひたむきに。
「まるでこのナリアエルカのよう。いずれ終わってしまう、夢」
 誰かが見ている夢。この世界が夢でないと誰が証明できるだろう。このナリアエルカ大陸が海中に沈んでいない保証はどこにもない。ナリアエルカが、まだ滅びずに続いている大陸の夢を見ている可能性もあった。その夢は、今この時も、誰にも気付かれずに形を変えているかもしれない。滅びの方向か、存続の方向か。可能性は、未来はいつも揺らいで本当は誰にも分からない。
 魔術師はいてはいけないところにいる。同じように、リワム・リラはもしかしたらあるかもしれない夢の続きを知っていた。だから本当は、消えていくべきなのだろう。夢の続きは『登場人物』が知ってはいけないのだ。
 そうだ、とカリス・ルークが小さくともはっきりした声で肯定した。
「この国は夢だ。誰かの見ている夢。神の、人々の、そして私の」
「私の夢でもあります」
 カリス・ルークはワインを飲み干した。それが、夢の終わりの合図だった。
「さあ、これで月はあなたのものです」
 それから、しばらくして首を振った。震える唇を合間合間に噛み、必死に微笑んだ。
「……いいえ。本当は、私はあなたに、何も差し上げられない。ただ、こんな、子ども騙しの夢を、見せることくらい」
 涙が溢れ出ようとするのを呑み込みながら、言った。見つめた先の、真摯な瞳にいたたまれなくなって、唇を震わせてリワム・リラは立ち上がる。
 だがその手をカリス・ルークが引き止めた。立ち上がり、側に来る。
「いや、まだだ」
 驚くリワム・リラを引き寄せ、彼は目を覗き込みながら囁いた。ワインの濃い薫りが鼻孔をかすめる。少し乱暴に顎を上げられ、けれど身体を包む手は優しく。しかしリワム・リラは抵抗した。
「私は……っ」
 腕を突っ張り、小さく声を上げた。
「私はここにいるはずの人間じゃありません!」
「ではここにいるお前はなんだ」
 低い声が胸にどくんと響いた。カリス・ルークは美しい目でリワム・リラを見ている。
 この人は、受け入れようとしている。
「誰がこの夢を見ていると思っている?」
 リワム・リラは弱々しく最後の抵抗を口にした。
「私は、魔女エーリアの娘です……」
「そう、だからお前はここにいる」
 密やかな声。
「ナリク・ルークはエーリアと戦ったかもしれない。しかし、それは私たちのことではない。――リワム・リラ」
 青い瞳。夜のように深いのに、真昼のように明るく輝いて。
 リワム・リラを柔らかく捕らえていく。
 逃れられないし、逃してほしくなかった。
「まだ、この月を手に入れていない」
 ゆっくりと降りてきた唇を受け止めた。その口づけが熱かったのは、酒精のせいか、それとも彼の熱なのか。温かい息が混ざるように、身体の中に彼の温かさが灯った。満たされる。踊るように二人の身体が揺れる。
「これは……本当に夢か?」
 唇が離れた時にようやく交わされる言葉。
「……ええ、夢です、きっと」
 リワム・リラはゆっくりと離れた。
(この時間が、本当であれば良かったのに……)
 そう思いながら。
 その時、世界が揺れ動いた。どこか違っていた世界が、新しい水の流れが流れ込むように歪み、リワム・リラの知る世界に変化していく。目で見なくとも肌で感じる。感覚で変わっていくのを知る。
 カリス・ルークが見ている。その青い瞳の中に、確かに自分がいることを知ってリワム・リラは微笑んだ。
 ――夢でも構わない。
 それは二人の思いだった。
 リワム・リラは、自分自身の選択こそが夢を続けるための力だと気付いた。しかし一人きりではそれは終わってしまっていた。目の前の人がいなければ、夢はただ夢として消えていくばかりだったはずだ。
 望まれている。側にいてほしいと思ってくれていた。ずっと望んでいたその人、愛されたいと願いを寄せた人に。
 カリス・ルークは再びリワム・リラを引き寄せて深く口づけた。リワム・リラは甘い幸福の熱に酔うように、もどかしく手を伸ばす。深い深い口づけで交わされる思いを掴もうとしながら、抱きしめられることを求めた。
 新しい物語へと世界が形を成す中、仕切り布が、二人をそっと隠すように現実の風に揺れた。
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