7. とんでもない縁
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 呼ばれた気がして振り返るが、そこにあったのは市場独特の人混みといきれで、声の主は見当たらなかった。気のせいかしらとしばらく目を凝らしてみる。それでも立ち止まる人すらいなかった。
「リワム・リラ!」
 弾けるような明るい呼び声。姉が店の前で手招きしている。リワム・リラは弾むように駆け寄って、姉の手の平で輝く宝石を見た。輝く金の中に澄んだ青石がはめ込まれている。まあ、と思わずため息をついた。
「とても綺麗!」
「ええ! でも多分価値はそんなにないわ、ちょっと軽いもの」
 笑うような少し悪意のある言葉も可愛らしい。店主は慌てたように次々と品物をミル・シーの前に並べた。それをミル・シーは笑いながらかわして店を離れていく。
 笑いながら、心の隅でリワム・リラは価値という言葉を考えた。私、多少は付加価値がついたかしらと自嘲して、手紙を預かっていた青石のような瞳の大臣殿を思い浮かべる。わざと主題を書かずに終わった手紙によってこれほど楽になるかと思えるくらい、これでおしまいと気分が晴れやかになったものの、大臣殿に対して罪悪感がもたげたままだった。
 いけない。終わったことを迷うのは悪い癖だ。もう済んでしまったこと。悪いことをしてしまったことは反省しなければならなくても、失ってしまったものを取り戻すことはできない。
 候補から洩れたと父は残念がるだろうけれど、多少付加価値がついたと喜んでくれるだろう。例え万が一があったとしても、価値がない周りだけが飾り立てられた嘘の宝石になってしまうだけだ。平和に、ありのままにしているのが一番良い。
 それでも、手紙に今回のことを辞退するとは書かなかった。書けなかった。
 届くかもしれないと思うと、どうしても。
 街の市を見に行こうと普段は言わないことを姉に言ったのも、さっぱりした気持ちと浮き足だった気持ちがあったからだろう。妹からのめずらしい誘いにミル・シーは喜んで乗ってくれ、二人は供を付けずにこっそり雑然とする市へ降り立った。
 料理を提供している一画のごちゃごちゃした匂いにあちこち惹かれ、食材を売っているところは通り過ぎ、絨毯や瀬戸物を売っている一画には時々足を止めた。品物は流行からか異国風のものが目立ち、繊細で柔らかなレースに目を奪われている同じ年頃の娘たちがいた。冷やかし半分に覗いた異国衣装専門店で、ミル・シーに店員が貼り付いてくるので逃げるのに苦労して、リワム・リラは自分がお付きの女中だと思われたことに落ち込むことなく、笑って市場を歩いた。楽しい気分だった。
 鉱石を彫った繊細な置物に目を奪われて、隣に笑いかける。
「お姉様、これ、素敵ですね?」
 そこにいたのは驚き顔の初老の男性。一瞬頭が真っ白になった。姉が変化したわけではないとようやく頭を下げる。
「す、すみません!」
 男性は苦笑を浮かべて人混みに紛れていった。
 リワム・リラは周囲を見回した。どこにもミル・シーの姿はない。さきほどまで一緒に覗き込んでいたのに。考えごとと品物につい夢中になってしまった自分を恥ずかしく思った。
 惑わせるように動く人々。溢れる音とにおいと色。眩暈を起こしそうになった。お姉様にもしものことがあったら。
「お嬢さん、綺麗なお連れさんなら、ふらっとそっちの道に入っていったよ」
 露店の髭の老人が向こうを指した。
「本当ですか! ありがとうございます!」
「気をつけなさい。あまり良くない連中がいたりするからね」
 老人の忠告を聞いても足を止めることなくリワム・リラは示された道へと走っていった。
 道の奥深くへと進み、角を曲がるたびに色の鮮やかさが消えて、建物の灰色の壁が高くそびえて薄暗くなった。いくつかの道を直感だけで走り抜けていく。お姉様、お姉様と焦りが小さな呟きになる。
「……お前たち、こんなこと……ている場合……!」
 苛立った叱責の声。
 次の道を真っ直ぐに行く。
「うるせえ…………じゃねえか、仕事…………ぜ……きちんとなぁ」
 角を曲がる。
「離しなさい!」
 澄んだ声は女性のもの。リワム・リラは足元に積み上げられていた薪を通り過ぎざま両手にひっ掴み、折れ曲がった道のそこに姉の姿と四人の無礼者を認めた瞬間、ミル・シーの腕を掴んでいる男に向かって薪を投げつけた。
 がつん、と固い物同士がぶつかる鈍い音がして、男が眩暈を起こしくらくらと座り込む。
「その人を離しなさい!」
 リワム・リラが叫んだのを男たちが見た瞬間、ミル・シーは転がってきた薪を足で浮かせたかと思うと浮いたそれを手に収め、男に殴りかかった。
 がごんとまたすごい音がした。
「お姉様!」
「うぐっ! こ、この女!」
 ミル・シーを救い出そうと手を伸ばしたが、逆に男たちはその手を掴んで引き寄せた。内側に追い込まれたが、リワム・リラはミル・シーを庇って下がる。二人とも多少武術の心得があるとはいえ、女と男。そして明らかにこの男たちは暴力に慣れていた。
「お前たち、いい加減にしないか!」
「うるせえっ!」
 一歩離れていた外套に全身を包んだ男に怒鳴りつけ、ぎらぎらと怒りに燃え上がる目で鼻息荒く、一番最初に攻撃された男は近付いてくる。
 お姉様に触れるなんて許さない。きつく睨みつけると、舌なめずりしていた男は目を見張った。
「おい、こいつ金目だ」
 身体が強ばった。
「混血だ。へええ?」
 ますます嫌な笑い方をして手を伸ばしてきたのを薪で叩き落とす。だがもう一方の手がさきほどとはうって変わって蛇のように素早く伸びてきて首元を掴んだ。顔が近付き嫌なにおいの息を吹きかけられ、顔を背ける。
「リワム・リラ!」
 悲鳴を上げたミル・シーは残り二人に後ろ手を取られてしまった。身体を隠していた黒の外套を取られ、姉の姿に男たちが口笛を吹く。
「美人じゃねえか!」
 それを見た男がリワム・リラの外套の頭部分をずり落とした。剥き出しにされた顔の、顎を男が掴む。
「お前も見られるじゃねえか。あの女共々可愛がってやるよ」
 ざっと冷たいものとかっと熱いものが押し寄せて、リワム・リラから感情を奪った。
 女を玩具にしか見ていない、もしかしたら弱い者すべてを人間と見なさないような、傲慢で強欲な男の言葉。
 こんな奴らが、平和を壊していく。
「呪われても知らねえぞ!」
「リワム・リラ!」
 仲間の男たちがミル・シーを押さえながら笑う。
 リワム・リラは抵抗の力を弱めていった。きつく寄せていた眉間の皺をなくし、握り拳をほどいていく。
「大人しくする気になったか。いい子だ……」
 男が手の力を緩めた瞬間。
「っ!」
 かっと目を見開き瞬間的に右足に力を集中させ男の股間を蹴り上げた。
「ぐっ」
「何をしている!」
 男が呻いて崩れ落ちたのと、新しい男の声が聞こえたのは同時だった。声の持ち主は壁のように立ち塞がり風のように素早く剣を走らせたが、さきほどから参加していなかった一人はその反対側の逃げ道に近い場所に下がっていた。素早く身を翻えそうとした。
 走り出した男を、リワム・リラは捕まえようと咄嗟に手を伸ばす。空を描いたと思った手は反転しようとする男の首元、浮いた金鎖の首飾りにかかり、びいんと張ったと思ったらぶつっと切れた。足を止められたのは一瞬だけで男は道の向こうへ消えてしまう。
「追え!」と声が命じて、数人が前へ倒れ込んだリワム・リラの脇を駆け抜けていった。
「大丈夫か!」
 聞き覚えのある声がはっきりと聞こえた。
 そうしてリワム・リラに向かい合ったのは青い瞳。
「ウィリアム・リークッド様……」
「無事のようだな」
 微笑まれた次の瞬間、リワム・リラは急いで姉の姿を探した。そうしてウィリアムの部下らしき男性たちに囲まれているのを見て、まさか怪我を、と吐く息が震えた。
「お姉様! お怪我はありませんか!?」
「ああ、リワム・リラ。大丈夫よ、ごめんなさいね」
 怪我はないようだった。それをきちんと確認すると、リワム・リラは深く息を吐いてへたり込んだ。その拍子にずっと手に握っていたものが落ちる。だがしゃらりと音を立てたのにリワム・リラは気付かず、ミル・シーがそれを拾い上げた。
「あら、これは……」
「なかなか勇敢な娘だ」
 剣を収めながらウィリアムが、まるで武勲を称えるように笑いかけた。
「躊躇わずに攻撃するところが思い切りがあって良い」
 リワム・リラは真っ赤になった。引っ立てられている暴漢の一人が股間を押さえていたら、何があったか想像はつくだろう。
「ウィリアム・リークッド様、ありがとうございました」
 赤面の代わりに言葉が出ないリワム・リラの代わってミル・シーが礼を述べた。
「ところで、これを」
 高いところでやり取りされた何か。しゃら、と音がした。
「わたくしはあの暴漢たちの話を聞きました。逃げ去った者が、何やら人を集めているようです。それにこの紋章、これはもしや、」
「証拠として! 預かっておく」
 先を続けることを許さないようにウィリアムは大声で言った。
「心配せずとも今日ここにいたのはその調査のためだ」
「…………」
 リワム・リラがようやく立ち上がれた時、姉は何か言いたげに、ウィリアムが何かを告げるようにして黙り込んで視線を交わしていた。
 しばらくすると「家まで送ろう」と申し出を受けた。ミル・シーは「ありがとうございます」と言ったまま、考えているらしくじっと目を落としていたので、リワム・リラはウィリアムの大きな背中と深く思考している姉の後ろ姿を見ながら自宅まで送られることになった。
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