SS だっていつものことだから
<<  >>
 桂皮の、眠たげな香りがしている。午睡したくなるほど気力を奪ううだるように暑い夏の日。影を通って吹き渡る風が、熱くなった額に口づけていく。正規の手続きを踏んで王宮を訪れたミル・シーは、その奥深く、後宮に足を踏み入れた。かつて香のにおいと香辛料のにおいがきつかったそこは、今は水のような爽やかな豊潤の甘さに満ちている。現在、後宮の主はただひとり。ミル・シーの愛らしく純粋な義妹、リワム・リラだ。
 彼女の世話を一手に引き受ける女官ナーノ・シイは、気心の知れるようになった人物で、後宮を堂々と歩き回るミル・シーを咎めることなく、リワム・リラが眠っていることを告げながら別室に招き通した。その客間には、愛する妹の作品が飾られている。刺繍、小さな布の縫い合わせ、絵。一人仕事は誰よりも達者で、刺繍は義姉の自分を遥かにしのいだ。そして昔から少し変わった感性の子だった。ありふれているのに、彼女の人柄をうかがわせるところがあって、ミル・シーはいつもはっとしたものだ。レースのひと編みに、彼女の気遣いを思う。
 濃いお茶が器を満たす。
「ありがとう。あなたもいかが?」
 ナーノ・シイは微笑んだ。
「それでは、ありがたくちょうだいいたします」
 こうしてお茶を飲む時間は、最近では習慣化していた。王宮勤めの長い彼女と、先進化を望んでいる自分とでは、価値観の違いこそあったが、お互いに領分を受け入れる気持ちがあるため、居心地の悪いものにはならない。それに、二人には共通の人物が間にいたからだ。
「リワム・リラ様が」と彼女が口を開く。
「先日、カリス・ルーク様とお出掛けなさりました」
 ミル・シーの目がきらりと光る。
「ふたりきりで?」
「さようにございます。わたくしどもの目を盗んで。夕方過ぎに戻られましたが、ずいぶん楽しまれたご様子で」
「今度いなくなったら教えてくださる? 人をやって尾行しますから」
「かしこまりました」
 応えたナーノ・シイが、気付いて「失礼を」と告げて部屋を出る。部屋の外で何か会話する低い声が聞こえ、衣擦れの音がして、リワム・リラが現れた。
「お姉様」
「お目覚めね、リワム・リラ」
 はい、と微笑む彼女は、けれどまだ少し眠気をまとっている。
「お茶をご用意いたします。何か食べられますか?」
「お姉様、いかがですか?」
「お願いできる?」
 かしこまりました、とナーノ・シイが答え、女官たちに命じる。用意されたのはクリームの乗った焼き菓子だった。リワム・リラの目覚める時間に合わせて焼き上げているのだろう、まだ温かい。
 雲のように柔らかに泡立てたクリームは、香り付けがしてあるのか、とても風味がよく美味だった。公式の場でもなく、妹がいるだけなので、ミル・シーは指ですくってみる。
「リワム・リラ、このクリーム、とてもおいしくてよ」
「本当ですか?」
 何を思ったか。
 リワム・リラはミル・シーの手を取ると、その手に乗ったクリームを指ごとぱくりとしてしまった。
 固まるミル・シーに、リワム・リラは微笑もうとし。
「…………!!!!!」
 それが姉だとようやく気付いて声もなく悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。ミル・シーやナーノ・シイの方が慌ててしまう。
「リワム・リラ様!」
「だいじょうぶ!?」
「だ、だいじょうぶです、すみません……! 私ったらなんてことを」
「寝ぼけていたんでしょう? 気にしなくていいのよ」
「す、すみません……ついいつもの癖が」
 ミル・シーの眉がぴくんと動く。リワム・リラは失言に気付いて口をあわあわさせた。
「なななんでもありませんっ、気になさらないでください!」
「カリス・ルーク様といつもそうしているの?」極上の笑顔でミル・シーは尋ねる。真っ赤になって手を組み替える妹に、笑顔のミル・シーのメモ帳に『いつかカリス・ルークを殴る回数』に数が足される。けれどそんなことは微塵も悟らせずに、「仲が良いことはとてもいいことよ」と妹を労るのである。

110603初出 111224改訂
<<  >>
 
HOME