その時、私は彼の名を知らなかった。
 子供だった。まだ旅を始めてもいない幼い子供だった。
 それは仕方がなかったのかも知れない。彼は誰をも知っていたけれど、誰にも会った事がないと言えた。その存在自体、私たちには曖昧だった。彼にとって時間は意味を成さない。肉体はないのだから。あるのは器だけ。しかし私はこの身体で感じた。彼の存在は確かにあった。
 彼を思い出す時、私の心は慰められる。一族の性を悲しまないで済む。旅の困難な道を乗り越える事が出来る。
 薄茶色の硝子球のような瞳は優しく、薄く薄く伸ばして光に透かせた葉の色の髪は風の匂いがしていた。
 その人の名は――





 私は泣いていた。
 もう陽も落ちて、空には銀の星が瞬いていた。夜の冷たい澄んだ空気は息苦しいくらいだった。私はぽろぽろと涙の雫を落としながら、二度と家へ帰るものかと誓い、村の外を歩いていた。
 子供の行動力というものは、時に大人の想像力を超える。感情が高ぶってろくな判断が出来ていない証拠なのだが、当人は一つ年を取るごとに何でも出来るようになると思っていた。

 段々と生える草の背丈が伸び、私はやがて砂地から広い草原へと至る。夜風が草の海を渡り、ざわざわと見えない生き物の声のような音を奏でる。ぐすぐすと鼻を鳴らして草を掻き分けていた私は、そこでようやく自分のしている事に気付いた。
 ざわざわと絶える事のない草の音。聞こえていたはずの虫の声は遠ざかり、月と星が冴え冴えと夜を照らす。薄暗い世界。
 この世界は光と温もりで満ち溢れていると思い込んでいた子供の私は、急に不安に襲われた。いつ現れるともしれない恐ろしい生き物、夢の中に現れるような闇が、不意に襲いかかってくるかもしれない。一度思ったら、恐怖は頭から離れなくなる。今度は別の理由で涙ぐみ、私は必死で草波を掻き分けた。
 今思えばそこで引き返せば一番良かったのだけれど、一度固く心に誓った事を無かった事にするのは、自尊心が許さなかった。

 草の海を泳ぎ切った所には、少し高くなった場所があり、背の高い木が一本あった。たった一人ぽつんと立っているそれを、私たちの一族は【旅人の止まり木】と呼んでいた。
 その木が立っているのは村から結構離れた所だったから、そこまで来ていた事に驚いた。目を丸くしながら見上げた木は、ごうごうと低い音を立てる風に木の葉を揺らす。がさがさざわざわと荒々しい音を立てる黒い葉。四方に伸びる太く歪な枝。見上げるほど巨大な影。いつも明るい木漏れ日を降らせてくれる木と同一の物だなんて全く思えなかった。

 不自然に生暖かい風が、濡れた頬を撫でていく。
 怯えて一歩退った私は、次の瞬間びくっと身体を跳ねさせた。
 目の前に、突然誰かが立っていた。先程までそんな姿は影も形もなかった。気配もなかったのに、目の前には人がいる。――いや、これは人じゃない。
 薄茶色の硝子球のような瞳と薄く薄く伸ばして光に透かせた葉の色の髪をした、十代中頃の少年に見えるその人は、全身に光を纏い、淡い光を降らせていた。彼が首を傾げると、蛍のような小さな光がふわりと零れる。その人は、私に向かって笑いかけた。
 怖かった。全身が震えて動けなくなるほどに。もう頬には涙の跡があったけれど、泣きそうだった。目の前には人に見えて人でないものがいる。光る手を伸ばしてくる。私は動けなくて、ぺたりと座り込んだ。

「……どうしたの?」

 見た目通りの優しい声音で少年は言ったが、答えられるはずがなかった。彼は彼の一挙一動にびくついている私の前で膝を付き、じっと瞳を覗き込んでもう一度同じ事を訊ねた。

「どうしたの? ひとり?」

 彼はそうして牙を剥く様子もなく、じっと私が答えるのを待っていた。それでようやく落ち着いて、私はこっくりと首を縦に振った。

「そう。家はどこ? 送っていくよ」

 途端、私は差し伸ばされた手を払って、凄い勢いで首を振った。そして『行かない』の意思表示で、怖がっていたはずの【旅人の止まり木】にしがみついた。
 彼は困ったように私を見ていた。困った様子を誤魔化すように笑うので、その様子が本当に心の底から困っているのだと分かった。そうすると自分が何だか悪い事をしているような気がして、仕方が無く帰りたくない理由を話す事にした。
 子供の要領を得ない説明と、思い出してまた涙ぐむ話を、彼は理解したのかどうかは分からないが、それでも彼は頷いた。

「お姉さんが旅に出てしまうのか」

 行かないでって言ったの。私を一人にする気なのよ。そんな事を言った気がする。
 彼は私の前で苦笑していた。

「でも、お姉さんが行かなければならないっていうのは、解るんだろう?」

 渋々ながら私は頷いた。

 私の一族では、十五歳になると旅に出なければならないという風習がある。『世界を知って大きくなれ』というのが、私たち一族の祖となった人の言葉だ。その言葉に従って一族の者は旅に出る。一族の名は【旅鳥】という。
 しかし、その旅が安全に満ちているわけではない。どこにでも危険はある。消息を知らせる手紙や、村に帰ってくる者は少ない。旅に出た姉さんが安全である保証など、何処にもないのだ。
 自分でもどうしたらいいのか、どうしたいのかが分からなくなった。嬉々として旅の支度をして、いつか行く街を想像し、両親がいなくなって自分も心細いのに傍にいてくれた姉さんを見ると。また視界が滲んで、堪えきれなくなって私は泣いた。
 行かせてあげなければならないのは解っているのだ。自由な空の下を行こうとする鳥を留めてはならない。だって私たちは【旅鳥】だから。吹かない風は風でないのと同じに、旅をしない鳥は旅鳥ではないという事を、私は幼いながら知っていた。旅をしなければならないのだ。大人になる為には、矛盾や、理不尽や、自分の意志が通らない事を知らなければならない。私たちは、そういう一族だった。

 ふわりふわりと光が落ちてくる。彼が抱き締めてくれているのだった。光と風を纏ったようだった。彼の感触や体温は確かにあって、木漏れ日に似ていた。優しかった。
 私の腕の中に置きながら、彼は、私たちに馴染み深い祝福の言葉を口にした。

「大丈夫だよ。だって――」





 私の彼の記憶はそこで終わる。気が付いた時、私は泣き顔の姉さんと対面した。【旅人の止まり木】の根元で私が一人眠っているのを村の人が見つけたらしい。傍には誰の姿もなかったという。
 数日後、姉さんは旅立っていった。数年後、私も同じ道を行く事になる。【旅人の止まり木】に別れと、いつか帰ってくる事を約束して。

 旅の途中で、私は彼の名を知った。私の旅の目的は、世界各地の物語を集める事になっていた。その内、【旅鳥】の一族であったという人に出会った。
 その人が語る物語は、末である私たちが知らない伝説だった。

 昔、国を無くして当て所もない旅を続けていた人々の前に、ある女性が現れた。彼女は人々を励まし、遂に辿り着いた場所で村を作った。彼女はすぐに村を去ったが、長い時間が流れたある時、小さな苗木を持って現れた。その苗木を丘に植え、自分はこの地を去るからと言って、自分の代わりにした。それが【旅人の止まり木】の始まり。そして【旅鳥】の祖と伝えられる、異国の地では旅人の神様と呼ばれている青い髪の旅人サファルの伝説。
 伝説はまだ続く。神様の植えた木にはやがて精霊が宿る。精霊はやがて人の形を取る。――薄茶色の硝子球のような瞳は優しく、薄く薄く伸ばして光に透かせた葉の色の髪は風の匂いがするその人は、時を超えて、この世界を去った神々の代わりに、いつも遠くから人々を見つめている。





「大丈夫だよ。だって、白き鳥と青き空の下、路が続いているように、旅の神様が見ていてくれるから」

 抱き締めた温もりのまま、祝福の言葉は優しかった。
 その人の名はセーファ。いつまでも旅鳥を見守り続ける、【世界】の名を持つ永遠の人。





永 遠 の 時 追 い 人

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