日射しは温かく、柔らかい色の空に白い雲が浮かんでいる。良い天気だった。その下を人々が確かに歩いていく。平和な一日の姿だった。散歩するには絶好の日だと思いながら、しっかりとした足取りで老人は歩いていた。彼は噴水の淵には腰掛けず、広場を囲むように位置されている花壇に腰を降ろした。その隣では、ひたすらに紙の上にペンを走らせている人がいた。

「何を描いているのですか?」

 見知らぬ人の突然の問いに、その人は少し驚いたようだったが、すぐ笑顔になって答えた。

「街を描いているのです」

 老人はその手元を覗き込む。写生画だった。斜塔の立つクロイス城を中央に、手前にある噴水広場から、大通りが城の方へ伸びている。画面左には家々の屋根が連なり、右には教会。そこを行き交う人々が簡単に描かれている。
 もう仕上げだったらしく、その人は紙の上を軽く払うと、最後に右下の隅にペンを走らせた。

『ノードラム・エスト』

 老人がじっと手元を見つめているのに気付いて、画家は照れたように笑った。

「珍しい名前でしょう? 女なのにノードラムなんて」

「いやいや。素敵な名前ですよ。ノードラムとは確か、『記憶の繋ぎ目』という意味だ」

 女は眼を見開いた。

「驚いた。まさか、両親以外でこの名の意味を知っている方がいるとは思いませんでした」

 髭の下でふふふと老人は笑った。

「そう。なかなかいませんね。あなたのご両親は博識だったのですね」

「ただの物好きです」

 二人は顔を見合わせてくすくすと笑い合った。

 ノードラムは二十代に入ったばかりと見える若さだった。金色の髪を頭の高い所で一つに束ねて、それほど化粧気もなく、こざっぱりした印象を受ける。実際着ている物はスカートではなく男物のズボンで、それがまた背の高い彼女に良く似合っていた。
 対するのは老人は白い髭をたっぷりと生やした好々爺だった。髭を撫でる手には骨が浮いて見えたが、背筋はぴんと、肩はがっしりとして、弱々しさが感じられない。瞳が茶目っ気にきらりと輝いている。

 老人はノードラムの脇に置かれている写生帖を手に取った。そのページ全てに街が描かれている。しかしどのページの街も同じ構図だった。時折、宿屋の窓下に誰かがいたり、噴水に腰掛ける人が増えていたりなどと、些細な部分が違う。

「同じ風景ばかりを描いているのですか?」

「同じ、とは言い切れません。日によって違う所は小さいながらもたくさんあります。毎日同じ空はないでしょう? そういう事です」

 ふむ、と写生帖のページを捲って老人は言った。

「しかし、完全に同じではないとはいえ、こう似たような景色を描く事に何の意味があるのですか?」

 ノードラムはにっこりと笑った。その質問を待っていたようだった。

「この世は変革の時代です。他国では戦争が始まっています。この国だって、いつまで平和か分かりません。だから見て、残していきたいんです。日々この街がどう変わっていくのか」

 そう言われてみれば、どのページにの裏にも日付が刻まれている。一番古い物は二年前の日付になっていた。

「この景色が美しいままか荒れていくのか、私は見届け、伝えたいと思います」

「あなたの名の通り、記憶の繋ぎ目となろうというのですね」

 見習い絵描きが偉そうな事を言いますけれど、とノードラムは微笑んだ。

「いつかこの国だけではなく、世界にも眼を向けるつもりです。この世界がどう変わっていくのか……」

 希望に満ちた光を灯す瞳を、老人は眼を細めて見つめた。変わり者との噂だったが、男女の差別も苦にせずしっかりとした考えを持っている。この人物なら大丈夫だ。

「――城に来ないか、ノードラム・エスト殿」

「え?」

 突然の口調の変わりように驚いたノードラムは老人を見る。老人の瞳は鋭くなっている。

「そなたが望むのなら、様々な教育が受ける事の出来る機関へ送ろう。そなたには才能がある。物事を見る眼も」

 ぽかんとするノードラムに、老人は続ける。

「そなたのような広い眼を持つ人間がいれば、この国は、この世界は間違わずにいけると思うのだ。後世の為にこの世界がどう変わっていくのか、そなた、記録していってはくれまいか」

 老人の言った言葉をゆっくりと理解したノードラムは震えた。それほど老人の申し出はとても魅力的だった。
 戦乱の時代がもうすぐやって来るだろうとノードラムは思っていた。大陸中央に位置する大国スィンセシスが周囲の国々を攻め始めている。スィンセシスに接するこのクロイスも既に緊張状態が続いている。そんな時、女である自分に何が出来るのかと考えた時、後世に正しく史実を残せたらと思った。この世界が変わっていく様、人々が変わっていく様を、後世に伝えられたら……。
 ノードラムは強い決心と共に頷いた。

 これが、ただ一人【イヴェール・ユス・リディア】の肖像画を描き、フィルライン戦争に関連する作品を残した絵師ノードラムの始まりであるとは、まだ彼女自身も気付いていない。

 不意にノードラムは身体を小さくして、恐る恐る尋ねた。

「あの……あなたは、誰なんですか?」

 老人は瞳の光を引っ込め、肩を揺らして笑った。

「わしは、一応城では国王と呼ばれておるよ」





見 習 い 絵 描 き と 老 人

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