とてもとても寒い北の国に、ようやく春がやって来ようとしていました。風の中に、雪解け水の澄んだ匂いが混じっていました。
 私はおばあちゃんと歩きながら、明るくなりつつある森の中を眺めていました。冬は閉ざされていたこの森も、動物たちが目覚め、賑やかになろうとしています。
 その時、視界の端に白い物が見えました。それは白い馬の姿に見えて、慌てて眼を凝らして辺りを見回しましたが、当然ながら白馬の姿はどこにも見当たりませんでした。
 その事をおばあちゃんに伝えると、おばあちゃんはくすくす笑って、いつものように私の頭を撫でました。

「どうしたの?」

「いやねえ、ちょっと思い出した話があってねえ」

 いつものお伽話です。

「なあに、なあに? どんなお話?」

 にっこりと笑って、おばあちゃんは木々の向こうを見ながら話し始めました。

「お前に教えてあげよう。この森に棲む者の事を。これは、大変な暴君と、白馬のお話――」





   ***





 その頃は若き王ファイオンの時代。ファイオンは優雅な美青年であったが、我慢を知らず、気に入らない者がいれば即座に首を刎ねた。国民は王に怯えて暮らしていた。だから国はあまり豊かにはならず、その事で王は家臣を打ち首にするから、堂々巡りだった。

 ある春の日に、王は城を囲む森の中で、一頭の白馬に出会った。鬣や尾まで白く、瞳は反対に黒い牝馬であった。その白馬は誰かの持ち物なのか、首に首飾りの如く銀鎖と水色の石を提げていた。白馬は優美な姿で、時折天を見上げたりしては、ゆったりと森を歩いていた。
 人が見れば、森を支配する者だとすぐに気付いたであろう。だが、王はそんな事は考えもしなかった。美しい白馬に一目で魅入られたファイオン王は、人に命じて白馬を捕らえさせた。
 突然現れた人間に捕まった白馬は随分暴れたが、抵抗も虚しく王の元へ連れてこられた。王が騎乗しようとするとまた暴れたが、その度に鞭で打った。
 数日経ち、白馬は王の物になったように見えた。しかし、一見大人しくなったように見えた白馬は逃げ出す機会を窺っていたらしい。野生の馬だったのだから、度胸も力もあった。遠乗りしようと厩から出された時、王が騎乗する直前のほんの一瞬を狙って――全てを振り切って走り出した。
 引き離された王は掠り傷で済み、すぐさま白馬を追わせたが、勝手知ったる森の中へ逃げた白馬を誰も捕まえる事は出来なかった。王は馬の口を押さえていた厩番の男と、白馬を取り逃がした家臣の首を見せしめに刎ねた。



 さてまた別の日に、王は馬に乗って森を歩いていた。周りには媚びへつらう家臣たちがいた。もう若い王の周りにはそんな人間しか残っていなかった。王はそれを分かっていたが、放って置いた。彼には、全てがどうでもいい事のように感じられていたのである。
 家臣たちのおべっかを聞き流していた時、退屈な耳に、しゃらりと涼しげな音が聞こえた。辺りを見回した王の前に白馬が現れた。銀鎖と水色の石の、逃げ出したあの白馬だ。王は傍にいた家臣たちに命じたが、白馬はあっという間に見えなくなった。嘲笑うかのように姿を現した白馬に王は怒り、自ら馬を駆って白馬を追いかけた。
 穏やかな鳥の鳴き声にさえ苛立ちを覚えながら、森を駆けていた王は、白馬を見つけた。白馬はこちらに気付いて駆け出す。王は追いかける。どんどん森の深い所へ入っていく。家臣たちはとうに振り切られて姿が見えない。白馬は駆ける。まるで何処かへ誘い出すように――そして突如森が開けた。遠くの山が見渡せる、と思った時には、王は馬と共に崖を転がり落ちていた。



 王はひどい痛みに呻いた。全身が痛い。中でも右足を少しでも動かそうとすると激痛が走る。
 仰向けになったまま、天を見た。かなり高い所から落ちたようだと知れた。それでも命があるのだから、幸運と言えよう。
 周囲は薄暗い森だ。人の気配もない。共に落ちたはずの愛馬の姿も見えない。救いが来るのは絶望的に思えた。
 少しでも身体を動かすと走る痛みに呻いた時だった。しゃらりという音がした。痛みを堪えながら顔を動かせば、一人の娘がこちらを見下ろしていた。
 冬の星のような白銀の長髪に、夜よりも深い黒の瞳。淡い光を放つような白い袖のないドレスを着ていて、細い首元を飾るのは銀鎖の首飾り。美しい年頃の娘だった。

「おい、お前。私を助けろ」

 尊大な言葉に娘は答えない。軽蔑するような眼で見てくるだけだ。

「おい! 聞こえているのだろう!?」

 苛立って声を荒げた時、娘はようやく小さな唇を動かした。

「あなたを助けて何になります?」

「褒美をやろう。金銀宝石、美しい衣装でも良いし、城に仕えるようにしても良い。私はお前たちの敬愛する王だ。望む者を与えてやろう」

 娘は嫌悪に顔を歪めてから、首を振った。

「わたくしはあなたからは何もいりません。ですから、あなたを助ける必要も感じません」

 そう言って身を翻した。王は慌てて呼び止めようとするが、足から激痛が走って、弱々しい声になった。

「ま、待ってくれ! 頼むから助けてくれ。でなければこのまま野垂れ死んでしまう!」

「あなたが本当に敬愛される王ならば、あなたに仕える者がすぐに捜しにいらっしゃるでしょう」

 何の罪悪感も感じていない様子で、娘は冷たい一瞥をくれて本当に去ってしまった。残された王は、次第に薄暗くなっていく空を見上げながら悪態を付いた。

「おのれ。城に戻ったらあの娘、即刻身元を調べて首を刎ねてやる。もしくはそれよりももっと酷い方法で処刑するか……」

 しかしその声も、森に夜がやって来る頃には萎んでいった。森は闇に沈み、微かな星光があるのみとなった。
 何処からともなく、森に棲む鳥か何かのぎゃあぎゃあという不気味な声が聞こえてくる。

「……一体何をしておるのだ、あの臣下共は。私はここにいるぞーっ!」

 聞く者なく、声は闇に消える。
 きっと見つけられずにいるだけだ。この森は広いのだから。それに夜だから一度休んでいるのだ。しかし王がいないのだから休みなどないのは当然なのだが、まあ仕方がないだろう。陽が昇ればまた人が動き出して、自分を見つけるだろう。
 しかし一方で、捜してもいないのかも、と思わずにはいられない王だった。馬鹿な王がいなくなった。これで自分の天下だと、今まさに臣下たちが争っているのかも知れない。必要でない王なのだから、捜す必要はないとばかりに。
 王は眠る事でその考えを消そうとした。しかしいつも柔らかいベッドの上で寝ている国王に、固い地面の上で眠る事などなかなか出来ない事だった。寝返りも打つ事も出来ずに眼だけを閉じる王は、ようやく引き込まれ始めた夢の中で、しゃらりと美しい音を聞いたように思った。

 眼を開けた時、もう日が高い所にあった。身動ぎすると、手の触れる物があった。痛みを堪えながら身体を動かすと、誰が集めてきたのか、森で集められる木の実などが置かれていた。ひどく不思議な気がしたが、結局空腹には勝てずにそれを食した。
 誰もいない。いつも誰かに囲まれていた王は、一人で溜め息を吐く事が出来た。いつもならば溜め息を聞きつけた誰かが、機嫌を取ろうと集まってくるのだが、ここでは一人だった。
 誰か来るだろうか。いや、誰も来ないのではないのだろうか。心の中で声が二つあって、うるさいくらいに言い合っている。
 そうすると、何だかどうでも良いような気がしてきた。城に帰りたいのは確かだが、帰ってどうするのだろう。自分なんか帰らない方が国民は幸福だろう。あの王がいなければ、という人々の声は、散々耳に入れていた。その度に誰かの首を切った。
 ――私は……

 しゃらり。音が聞こえた先に、あの娘が立っていた。あの音は首飾りの鎖の音なのだろうと考えていると、傍にやって来て座り、右足に接ぎ木を当てて包帯を巻き始める。どういう心境の変化かと訝しく思いながら丁寧な手付きを見ていた王は、気が付けば語りかけていた。

「……私は、子供の頃、ひどく臆病者だった。そんな私に、父王は自ら決めた道を信じ続けるようにと厳しく躾られた。迷いは許されなかった。父王が亡くなって、若くして王になった私は、何をするにも自分が正しいのだと思うようになっていった。自分を迷わすような事を言う者の首を刎ね、自分の決めた道を阻む者、失敗と見られるような事をする者の首を刎ね……。――私は、」

 息を吐いた。娘がじっと見つめているのが分かる。
 もう一度吐いた息が震えた。その一言を口にする為には、自分と戦い、勝たねばならなかった。

「……恐かった、のだ……」

 そう、恐かったのだ。

「自分が正しいと思いながらも、正しくないと気付いていた。だから指摘する者を殺していたのだ。失敗と見られなくないが為に、失敗を誰かの所為にしながら、無い事にした。私は、間違った事をしてきた……」

 娘を見た。黒い瞳が、静かに見つめている。侵しがたい神聖なものが、自分の懺悔を聞いているように思った。

「恐らく、城の者は誰も助けに来ないだろう……。滅ぶべき王だ、私は。だが、もし助かったとしたら、まだ間に合うだろうか?  良い王になるのに……」

「…………」

 娘は何も言わなかった。包帯を巻き終えると、そのまま森の奥へ消えてしまった。
 それでも構わない。自分を認めたファイオン王は、微笑みを浮かべた。心が安らかだった。神など信じず、神殿などには行った事がなかったが、懺悔を聞いてもらった時の気分というのはこういうものかと考えていた。
 穏やかでいたファイオンの耳に、あのしゃらりと鎖の鳴る音が聞こえた。あの娘が戻ってきたのだろうかと思っていると、覗き込んだのは白馬だった。あの、銀鎖と水色の石を提げた白馬だった。
 白馬は王の傍に座り込んだ。そしてぐいぐいと身体を押し付けてくる。何となしに首を撫でてやると、一声鳴いた。首を振っていた。否定するようだったが、一体何にだろう。何を伝えたいのか解らず、困惑する王を黒い瞳で見つめた白馬は、立ち上がって駆け出した。

 眠りこけていたファイオンは、何かが近付いてくる音で眼を覚ました。

「こりゃまあ! あんた、大丈夫かね!?」

 男が慌てたように近付いてきた。服装や弓を持っている所を見ると、この辺りにいる猟師らしい。

「白馬が現れたもんで追ってきたら……」

 振り返った所で白馬が鳴いた。

 男はファイオンを白馬に乗せ、自分の村へ運んでいった。白馬が現れると人々はとても驚いたようだったが、王を降ろすと、引き止めもせずに白馬を見送った。ファイオンはしばらくその村で療養した。すると、城の捜索隊が王を見つけた。ファイオンは城へ戻り、政務を執った。

 一時行方不明になった事を境に、王は人の首を簡単に切るような事はなくなった。政治も安定し、国民は怯えから解放された。国は次第に豊かになっていった。

 王は崖下で出会った娘を捜したが、手掛かりはまったく見つからなかった。助けられた男の村周辺を聞いて回ったが、そんな娘の事など全く覚えがないという。
 城の者が持ち帰ったのは、あの森には、白馬の姿をした守り神がいて、時折昔滅んだ一族の姫君の姿を取る事があるという、小さな伝承だけだった。





  ***





 私は森を見回しました。

「じゃあ、私が見たのは……」

「その守り神かも知れないね」

 おばあちゃんはにっこりと笑って、私の手を引きました。

「神様はいつでも私たちと共に……。忘れない限り見守っていてくれるのだよ」

 だから覚えておいで、とおばあちゃんは言いました。





白 馬 の お 姫 様

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