空が蒼かった。雲が白かった。風が吹いていた。彼が立っている場所は何処までも続く柔らかな草原で、見渡した世界には多少起伏があり、地平線が見えていた。
 何処か作り物めいている。そんな風に感じるのは、空や雲や風が妙にはっきり感じられるからかも知れない。きっと、一番最初の空と雲と風と大地はこんな色や形をしていたのだろう。

 心地よい風に触れて、ふと、痛みが全くないことに気付く。右腕を上げて男は息を呑んだ。血はおろか服すら破れていない。慌てて触れる胸元にも傷は無く、足は酷使してがたがたのはずなのに、しっかり大地を踏みしめている。痛みすら麻痺し始めていた神経が、膝の下を撫でる草の感触をくすぐったいと感じている。
 耳もちゃんと聞こえていた。悲痛な叫びと異形の咆哮と、怒号と、剣が噛み合う音しか聞いていなかった耳に、滑らかな弦楽器の音が届く。それは最初風と同じような調子で流れてきていたから、楽器の音色だと気付くのに時間が掛かった。彼はゆっくりと足を動かして、音の生まれる場所を探した。

 そしてそれは呆気なく見つかった。少し高い所を昇って視線を落とせば、腰掛けている人の背中がある。自分よりも一回りは小さい身体は見るからに女性で、頭に被った薄く透けた藍色のベールが、不思議な青い髪と共にふわりと風に浮いていた。弓を持つ右手が左右に動く。何処までも響きわたるような音が生み出されるのを、彼はじっと見つめた。

 不意にくすりと笑う声。聞き間違いかと男は眼を瞬かせたが、周囲は果てしない草原で、ここには自分と女しかいない。辺りを見回していた眼を女に向ければ、いつの間にか彼女は手を止めて立ち上がり、丘を登って彼と向かい合っていた。
 深い青の異国風の衣装は、袖も裾も引きずるほどに長い。ベールは顔の上半分を覆っており、顔の造作は解らなかった。首を傾げた拍子に、首元を飾る金色の装飾品がしゃらりと音を立てた。

「ご機嫌よう、白の騎士様。どちらへ行かれるのですか?」

 女の声は柔らかく、唇は笑っていたが、詳しい表情が分からないので、何となく気味悪く感じる。
 男は片眉を上げてみせると訊ね返した。

「どちら? その前に、ここはどこなんだ?」

「さぁ、どこなのでしょうね。私にも分からないのです」

 素っ頓狂な返答だ。どこかも解らない所で楽器を弾いていたのか。訝しげに男は顔を歪めた。何か言いかけて、ふと気付く。ここはどこだと訊く前に、自分はどうやってここに来たのだ?

「もしかして……ここは異界か……?」

 まさかと思いながらも口に出さずにはいられなかった。
 異界。世界と世界の狭間の、不十分な世界。そこでは、人の言う『世界』と比べて何かが欠けているから不十分と呼ばれるらしい。例えば、時間が存在しない場所。例えば、物質のない場所。実際に行って帰ってきた者がいないから想像だろうと思っていたが。
 そうすると、あっさりと結論が出た。

「――……そうか、俺は死んだのか……」

 傷一つ無い右手。一番新しい記憶は、一人のひとを護る為にこの右手で剣を振るい、敵に立ち向かっているものだった。敵によって陥れられた、罠が張り巡らされた街を脱出しようとして。しかし脱出は困難で、最も被害の少ない方法として、仲間に役目を託して自ら敵の中に飛び込む事を選んだ。行け、護れと叫び、苦しげな仲間の目線を受け止め、嫌だと言って何度も自分を呼ぶ悲鳴を聞く。異形を斬り捨て、全身に傷を負い、血を吐いた。鋭い爪を持った巨大な足が近付いて、そして。そして――

「あなたは死んだ?」

 深く記憶に沈んでいた彼ははっと顔を上げる。ベールに透けた眼が見透かすように男を見つめ、彼女はゆるゆると首を振る。

「それは、少し違うと思いますよ」

「何が違うと言うんだ? 俺は確かに身体を引き裂かれて、」

「存在とは他者から認められる事で成るもの。私はあなたの声を聴き、あなたの姿を見ています。あなたは確かにここに存在するのですよ」

 遮って自分の弁を述べた女を男は不思議そうに見つめ、くっと笑いを押し殺すと口を開いた。

「確かに、『ここ』では存在しているかも知れないが、俺の『世界』では、俺は存在しないはずだ。死んだんだから」

「あなたの世界とは? 世界というものは、生きる者自身が中心となるもの。あなたがいる限り、あなたと関わった人々がいる限り、そこは世界です」

 何だこの女は。全く不機嫌を隠さないでいた男だが、それを全く無視して女は続ける。うっすらと微笑みを浮かべて。

「存在しないという事はありません。ただ薄れていくだけ。あなたがいう『世界』では、誰も知らないからといって過去の人々が存在しなかったわけではないでしょう? 誰かが覚えている限り、あなたの存在はまだはっきりとしています。ほら、聞こえませんか? 『世界』から、まだあなたを呼んでいる声が」

 ふわり、と、風にでも揺れる花のように、水の流れのように彼女の腕が滑らかに動いて空を示す。不思議に澄んだ蒼天を。
 そして男は聞いた。彼の名を呼ぶ、遠い声を。



『――、――……!』



 悲痛な声が呼んでいる。きっと泣きすぎて顔をくしゃくしゃに歪めている。自分の為に泣いてくれるのは嬉しいが、その顔を見たら泣きやんで欲しくて、馬鹿とか不細工だとかそんな憎まれ口ばかり叩いていた。幼馴染みで救世主とまで呼ばれる人で、けれど自分にとっては、ただ一人のひと。

「さぁ、どちらへ行かれるのですか?」

 初めて交わしたのと同じ言葉を女は口にする。
 女の顔を見た男は、うって変わって穏やかな表情で答えた。

「……俺を呼ぶ、彼女のいる世界へ」

 低い風が鼓膜を震わせた。二人の前に、ぽっかりと黒い風が渦巻く穴が出現する。別世界へ繋がる穴だという事は、何となく感じられた。亡者の声とも取れる低い呻き声が聞こえ、冥界にでも続いていそうだったが、掻き消えそうな導きの呼び声が、彼の世界へと続く道を示していた。
 ゆっくりと草を踏んで穴に近付く。右手を差し入れると、風は乱れる事なく、何の感覚も感じさせず呑み込まれる。一度息を吐いて気持ちを落ち着けた後、彼は女を振り返った。

「あなたは、誰なんだ?」

「誰でしょう。私は自分の名前も、呼んでくれる人もないから、あなたが忘れてしまえば私は存在しないのかも知れません」

 何処か楽しげに答えた女に、彼は口を開き、けれど閉じ、何度か迷った挙げ句に口を開く。

「……俺たちの世界には神話がある。あるだけで、事実なのか全く解らないが……一つ、道に迷う者を導き、生命の繋がりを尊ぶ、人から神になった女の話がある。人であった頃の全てを犠牲に、世界の一部となって世界を旅する女神の話が」

 女は答えなかった。見る事の出来る顔の半分は笑っていた。その薄桃の唇が開き、祈りを口にする。

「さようなら、束の間の迷い人。『白き鳥と青き空の下、あなたの路が続いているように』」

 彼女は答えなかった。しかし、ある意味彼女の祈りが答えだった。
 だから男も微笑んで、何も言わずに答えを返す。

「『あなたにも【旅の神】(サファル)の祝福があるように』。さようなら、永遠の旅人」

 段差でも飛び越えるように軽やかに地を蹴った男は、微かな光を道標に消え去った。



 残されたのは青い空と白い雲、何処までも続く大地と、一人の女。何もない虚空を見つめ、座り直すと、再び楽器を構えて弓を滑らせる。その曲は、また新しい迷い人を誘う。
 彼女の音は世界に溶ける。世界の一部となって。





異 界 の 彷 徨 い 人

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