海に近いある街に、『金麦の夢亭(きんむぎのゆめてい)』と呼ばれる酒場がある。その由来は店の主人の弁によると、豊穣の女神は杖代わりの金の麦穂を白い手にいつも持っているからだとか。豊穣の女神にそのような謂われはないので、恐らく作り話であろうと、人は笑って聞いている。ちなみに、主人は顔半分が黒い髭で覆われた『熊のような』と形容されるのが良く似合う大柄な男だ。

 さて、今日も明るい金麦の夢亭には大勢の客が麦酒を手に、世間話に花を咲かせていた。しかし、カウンターの隅に、一人座って酒を飲む男がいる。相当酔っているらしい。黒髪の間から除く耳が赤い。億劫な動作でグラスを口に運び酒を一気に煽ると、その勢いのまま叫んだ。

「――若造が口答えしやがってよお!」

 荒々しい声と共にグラスを叩き付ける。その一言は騒がしさが鎮まる一瞬を縫って店内に響き渡り、客たちは口を閉ざす。そして何事かと男に眼を向け、ああ彼かと納得したような眼差しを送ると、やがて先程の喧噪を取り戻していく。
 しかし一部では驚いて眼を瞬かせている者もおり、ある若者は、傍にいた先輩にこっそり言った。

「たちの悪い酔っ払いがいますね」

「ん? ああ、お前、知らないのか」

 若者は頷く。先輩は笑いながら、酔っ払いの男を顎で指した。

「あの人、結構有名なんだぞ。『剣の道にその人有り』って言われている人でな」

「へえ、そうなんですか?」

 とてもそんな風には見えない、と思っているのが顔に出ていて、吹き出しながら後輩の肩を叩く。

「酔ってない時に会ってみな。てんで敵わないから」

 言ってから、にやりと笑って付け加えた。

「まあ、一人……いや、二人だけ例外なんだけどな」

 どういう意味か訊ね返そうとした後輩のグラスに酒を注ぎ、まあ飲めと肩を叩く。飲まなければどうなるか分からないので勧められるままに飲むのだが、それでもまだ飲めと酒を注いでくる。これ以降若者は先輩に言葉に逆らえずに酔い潰れる事になるのだが、酒場に良くある光景として片付けられるのであった。

 一方、カウンターに座る男は、零れた酒に濡れた手で頭を掻きむしり、大きく呻いた。

「だぁから俺は反対したんだ! 式直前に遠出の仕事なんぞに出掛ける甲斐性無し野郎との結婚なんかっ!」

 客は驚いて男を見る者と、事情を知っている為に忍び笑いを洩らす者とに分かれる。しかし酔っ払いに口を出せばうるさくなるのは目に見えている上に、下手すれば喧嘩になる可能性もあるので、誰も何も言わなかった。
 そんな中、唯一その類の人間の扱いに長けている人物――金麦の夢亭主人が、低い声で言った。

「その甲斐性無しと娘さんの結婚を許したのは、父親であるあんただろう?」

 洗ったグラスを磨き、片付けながら主人は続ける。

「『俺の剣に勝てる奴でなけりゃ娘はやれねぇ』と宣言したのも、『こいつは見込みがある』とあいつに眼を掛けたのも、どっちもあんただ」

「あーあーあーあー、言ったよ、言ったさ。でも俺が間違ってた! くそっ、俺の眼も腐っちまったもんだぜ」

 大体なぁ、とカウンターに顔を伏せ、新しく注いだグラスの中の琥珀色の酒を揺らしながら男は言う。

「結婚式前だってのに、何でそんな危ねえ仕事を受けるんだよ。俺の娘を婚前未亡人にする気かってんだ!」

「そんな事を言うが、あいつは強いぞ。頭も良いし、機転も利く。誰かが待ってるっていうなら、なんとしても帰ってこようとする意志の強い奴だ。あれはいい男だぞ」

 ふん、と男は鼻を鳴らす。
 ――知ってるさ。天涯孤独だったあいつを、俺が今まで面倒見てきたんだから。

 金麦の夢亭は、人と情報と仕事が集まる酒場だ。ここで主人が依頼を預かり、人に紹介するのだ。物探しから前人未踏の遺跡調査など、危険度は内容によって様々で、男はその類の仕事を生業とする冒険者だった。

 思い出す。新しい依頼を受けようと訪れた金麦の夢亭で、男は彼と出会った。
 がやがやと騒がしい店内で、カウンターの前に立つ彼は不思議と目を引く存在だった。
 性格は顔に出るものだ。冒険者と呼ばれる者は大概気性が荒く、強面が大勢いる。彼は冒険者と言うには上品な顔立ちと穏やかな物腰を持ち、しかもまだ十三、四歳にしか見えない少年だった。
 店の主人と会話しているのを割り込んで声を掛けてみたのは好奇心からだった。すっと視線を合わせた、歳の割に落ち着きすぎた青い瞳に、何かを感じた。

『何か?』

 静かな声音の中に警戒心を剥き出しにして彼は言う。子供だなと最初は思ったのだが、今にして思えば牽制だったのだろうと考える。好奇心を持って近付いてくる輩には、彼はいい加減うんざりしていた。

『お前、初めて見る顔だな。仕事もらうのか』

 彼は頷く。店の主人の方に眼を向けてみれば、主人は深く息を落として言った。

『……あんたには仕事は回せない。若すぎるんだ。こっちも信用でやってる。悪いな』

『その信用に報いるほどの結果を出せば良いんでしょう? やる前から出来ないと決めつけないで下さい』

 淡々と言い返すが、主人は言葉を換えて説得を繰り返す。長い時間遣り取りしているのだろう。疲れたような空気が主人の上にある。
 横から二人を暫く眺め、ふっと思い付いた時には間に入っていた。

『その仕事、俺に寄越しな』

 明らかに少年がムッとする。その辺りはまだまだガキだなと思って笑いながら、手の平を出して制した。

『最後まで聞けよ。この仕事、一人でやれとは言われてねえだろ。だから俺とお前でやるんだよ。無名のお前が一人でやるより、名前を知られてる俺と組んだ方が、ずっとやりやすいと思うぞ』

 それから、二人の付き合いが始まった。
 最初の仕事を成功に終わらせた後、行く当てのないという彼に剣を教える事にした。その年頃にしては既にかなりの使い手だったが、もっと伸びると判断したのだ。
 仕事と稽古を繰り返しながら付き合っていく内に、色々話も聞けた。両親は十三で死に別れた事。妹がいたが親戚の家に養子にいった事。剣は自己流である事。腕にはそれなりに覚えがあったから、剣で生きていければと考えて金麦の夢亭にいた事。

『親父は剣を教えてくれなかったから、親父の稽古を盗み見して覚えた。後は友達とチャンバラごっこするくらいで』

 訊ねてみた彼の父親の名前には聞き覚えがあった。剣の腕はどうやら血筋らしい。

 年を重ね、経験を積んでいく内に、自然と彼の名は人々の間で囁かれるようになっていた。
 彼は良き相棒であり、誇れる弟子であり、自分には娘しか出来なかったから息子のようでもあった。

 ――ああ、なのに、何故。

(本当の息子になるってなんだちくしょう!)

 拳でカウンターを叩くと、空になったボトルを主人に向かって突き出した。

「おい、もう一杯くれ」

「いい加減にしておけ。花嫁の父親が二日酔いじゃ、娘が悲しむだろうが」

「いいんだよ! あいつにとって一番は自分の恋人らしいからな。俺がいなくなって清々するだろうよ。苦労ばっかかけたダメな親父だよ、俺は!」

 だから酒を注げと言わんばかりに睨むと、主人はやれやれといった様子でボトルを持ってくる。
 なみなみと注がれる琥珀色は、とろりと溶けたような色をしている。

 ――ああ、そうさ。俺はダメな親父さ。

 琥珀は遠い人の瞳の色。もう昔と呼べる月日に亡くした大切な人の。
 身体の弱い女だった。それでも栗色の髪と邪魔にならないように纏めて、いつ帰ってくるか分からない夫の為に尽くしてくれた。いつも微笑んでいるような女だった。
 病魔に脅かされる青白い顔に気付きながら、お前たちの為だと言って、幼い娘と臥せった妻を残して仕事に出掛けた。

 思ったより手間取った仕事。時の流れは三月を数える。戻ってきた男を迎えたのは、ただ冷たく暗い部屋。
 妻が死んだ事を聞いたのは、娘を預かってくれていた隣人からだった。
 家に戻って生活するのは、仕事に出ている時よりもずっと短い。だから、変化なんて分からなかった。そう言っても、言い訳にしかならない。

 悲しいのか、悔しいのか、よく分からなくなって、一人家の中でぼんやり立っていた。意識が勝手に空白の時間を思い出で埋めようとしていた。妻の立っていた台所に立ち、妻のお気に入りの椅子に座り、妻が寝ていた寝台を見つめた。そこに妻の顔がいつまでも浮かんでいた。色のない唇が言う。

 ――お願い。無事に帰ってきてね。

 馬鹿かと思う。どっちもだ。
 何故自分より俺の心配をする。何故そんなに悪かったのに言わなかった。
 何故気付かなかったんだ、俺は。何故仕事だなんだと言って傍にいてやらなかった。心配そうに見送る妻に、必ず帰るからと約束する前に、ずっとずっと傍にいてやれば良かったんだ。

 それでも、仕事を辞めるわけにはいかなかった。生活していく為には、自分にはこの術しか知らなかった。
 仕事で留守にしがちで、母親を死なせ、それでも家にとどまらなかった父親を恨まず、気は強いが、娘は母親に似た良い娘に育った。
 その娘が選んだ。親が死んで天涯孤独となり、世界に一人放り出されたにも関わらずに強く生きる、ずっと見てきた彼はいい男だ。
 二人の仲を認めていないわけではないのだ。ただ自分の感じた後悔をして欲しくない。娘にも、彼にも。娘は不慮の事故で彼を失う事があるかも知れない。彼は知らない間に娘を失う事があるかも知れない。そんな時は、絶対に迎えて欲しくなかった。

 酒を流し込み、疲れたようにカウンターに顔を伏せる。襲ってくる睡魔に耐えきれず、うつらうつらとしていたら、喧噪を聞き流していた耳が音を捉える。滑らかな音。楽器に詳しくないから何の楽器かは分からない。身体を少し起こしてそちらに顔を向ける。
 拍手で迎えられる吟遊詩人。男だった。大抵彼らは薄布を何枚も重ね、鎖や何かを巻き付けた衣装を着ている。吟遊詩人にそういう風習があるのか、それとも吟遊詩人と呼ばれる者たちが一族で成っているのか、男には良く分からない。
 一曲演奏を終えた詩人は一礼すると、次に楽器と喉を震わせて歌い始めた。

 酒の回った頭に、その歌声はすっと入ってくる。何となく懐かしさを覚える歌だった。聞き覚えがある気がする。一体、何処で聞いたのだろう。
 遠い記憶を探っていた男の脳裏に、妻の顔が浮かんだ。

『ねえ、あなた。その人の幸せが、自分の思い描く物と同じであるとは限らないわ。不幸も同じよ。だから、みんな、それぞれ違う覚悟を持っているのね』

 ふわりふわりと夢と現の間に彷徨う意識に、妻が微笑む。

『私とあなたの強さは違うもの。ねえ、知っているでしょう?』

 眼を細めて、手を伸ばして、触れて。
 そうだ。この歌は、妻がよく歌っていたのだった。
 笑ってくれるのか。一人にしてすまないと、傍にいてやれなくて悪かったと、言おうにも言えなくて。娘に同じ不幸を味わわせないようにしようと、そればかりで。

『大丈夫よ。あの子はきっと幸福になるわ。その為に彼と一緒になるのよ。私の子だもの。私と同じように幸せになってくれるわ』

 そうだろうか。悲しむ事はないだろうか。幸せになれるだろうか。

『二人で幸せになるわ。あなたと私の日々が幸福だったように、きっと』

「――……ん? ……さん! ……うさんっ」

 誰かの呼ぶ声と共に、吟遊詩人が歌を歌う。遠い日の歌を。故郷と恋人に別れを告げ、若者は旅立った。新しい世界を求め、そこに幸福があると信じた。そうして幾度かの困難に見舞われ、死の淵に立てば、その度に浮かぶのは故郷と恋人の顔ばかり。やがて若者は気付く。故郷の恋人と共に過ごした穏やかな日々。あそこは、いつも彼を迎える場所だった。そんな物語の歌。

『あなたがいつも帰ってこれるように、私はここにいるのよ』

 自分の胸に手を当て、白い指先を男の胸に向けて、妻は花が綻ぶように微笑んだ。





「――お父さん!?」

 肩を揺らすが、一向に眼を覚ます気配がない。娘は腰に手を当てて呆れたように息を吐く。

「花嫁の父親がアル中じゃ、みんなの笑い物じゃないの!」

 さてこの酔っ払いをどうしてくれよう、と冷たい眼で見下ろしていた娘の肩を、穏やかな表情の青年が叩く。

「大丈夫。僕が負ぶうよ」

 筋肉質で大柄な男性、更に眠っているとなれば、重さは相当なものだろうが、青年は難なく持ち上げる。
 ふと、彼を認めた客が声を掛けた。

「あれぇ、お前、帰ってきてたのか」

「ええ、ついさっき」

「気ぃつけろよぉ? 親父さん、相当怒ってたぜぇ」

「そうそう。『俺の娘を婚前未亡人にする気か!』って」

 青年は負ぶった男を見やり、肝に銘じておきますと言って笑った。
 娘は主人に向き直り、深々と頭を下げた。

「おじさん、ホント、毎回毎回ごめんなさい」

「いや、別に構わんさ。酔ってない親父さんにはよく世話になってるからな」

「昔は強かったんだって言ってるけど、どうかしら。……あら、笑ってるわ」

 口角が持ち上がり、何事が呟いている。随分幸せそうな表情だ。

「よっぽど良い夢でも見てるんだろう。うちの酒で喜んでもらえるなら嬉しいさ」

「ろくでもない夢だったりしてね。それじゃあ、お邪魔しました。さようなら」

「ああ、今度は来る時はゆっくりしていきな。結婚おめでとう」

 主人の祝福に二人は嬉しそうに笑って、視線を合わせる。祝辞を述べる客たちに答えながら、寄り添い合って店を後にする。
 彼の背中には幸せそうに笑う父親。豊穣の女神の金麦がもたらす、淡い夢の中。





酒 に 溺 れ た 戦 士

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