僕の側、木漏れ日の中に微笑む人がいました。
 春の穏やかな陽が降り注ぎ、木の下で淡い影を作り出している所。そこは人の声の遠い場所で、丘の向こうには白亜の城とそれを囲む森が見えます。
 僕がいつもの場所にいると、彼女が現れました。小さな足で真っ直ぐ向かってきます。緩く巻いた金色の髪は丁寧に梳かされているようで艶々と光り、小さな身体には上等なドレスをまとっています。この少女が誰なのか、僕にはすぐに分かりました。彼女は木陰に立つと僕に向かって手を伸ばして、空よりも深く海よりも鮮やかな瞳を細めて言ったのです。

「こんにちは、ウィルシーダ」

 僕の名が決まった瞬間でした。



 僕の名が決まった瞬間、僕は『僕』になりました。
 僕は人間の言う所の『精霊』で、一つの意識を無数のものが共有する存在です。
 しかし名前を与えられた瞬間、それは『個』になります。
 その『個』、つまり『ウィルシーダ』は、とある場所に立つ一本の樹の精霊を指すようになりました。



 彼女が僕をウィルシーダと呼ぶようになって、彼女は時々僕を訪れるようになりました。毎日ではありません。彼女にはやらなければならない事がたくさんありますから。
 僕はそれを寂しいとは感じません。彼女が訪れ、名前を呼んでくれるだけで良いのです。
 彼女は時間が空いた時にやってきて、僕の根元に座って穏やかな時間を過ごします。本を読んだり、歌を口ずさんだり、お転婆な事に樹に登ろうとしたりもしましたが上等なドレスを着ている身では無理でした。仕方がないので僕にもたれ掛かって少しだけ眠ったりします。

「あなたの木漏れ日は、幸せの温度ね」

 その言葉に僕は幸せを感じるのです。

 僕は彼女が読んでいる本の上に葉を落として邪魔したりします。すると彼女は落ちた葉を指先で摘んでくるりと回した後、僕に向かって微笑むのです。それから僕は彼女の歌う歌に合わせて、木の葉を揺らして一緒に歌ったりもします。そうした時も彼女は微笑み、

「大好きよ、ウィルシーダ」

 と僕の名を呼んで、愛を告げてくれるのでした。



 僕が彼女を『彼女』と呼び続けるのは、彼女が僕に名を明かそうとしないからです。
 彼女は自分の名を口にはしませんでしたが、僕は彼女の名を知っていました。
 僕は精霊です。ウィルシーダと呼ばれるようになった瞬間から、僕は『全』の精霊ではなくなりましたが、耳を澄ませば聴く事が出来るのです。あちこちの世界の音が。生きている者たちの囁きが。
 だから僕は、彼女の名も、彼女の名が人々に口にされる事も、彼女がその名を捨て去りたいと思っている事も知っていました。
 僕は、彼女を『アル』と呼ぶ事にしました。それが、久しく呼ばれていない彼女の愛称だからでした。でも彼女に、僕の声が聞こえるわけがありませんでした。



 ある日、彼女は僕の所に来て本を広げました。伝承を集めた本のようでした。その中身は真実と嘘が五分五分といった所だと、僕は膨大な記憶の中から判断しました。彼女は短い時間で一つを読むと、こう言いました。

「ウィルシーダ。私、あなたと一緒になれたらいいのにね」

 希望のように彼女は言いましたが、彼女が真剣な事はすぐに分かりました。僕はそれを子供の戯れ言だとは思いませんでした。彼女はずっと遠くへ行きたいと願っていました。その身分もその名も捨てて、溶け合う一つの意識になりたいと夢見ていました。
 でもそれは、彼女が彼女である限り絶対に叶わない夢でした。

「あなたの木漏れ日は自由の匂いがするわ。ねえ、ウィルシーダ。いつか迎えに来てね」

 彼女が読んでいたのは、死んで精霊となる人の魂のお話でした。
 彼女の小さな顔は疲労で痩せて一層白く、手首や足首にも骨の形が透けて見えるようでした。美しい少女がゆっくりと死んでいくのを、僕は何でもない振りをして木漏れ日を降らせ続けながら見つめていました。



 彼女が来なくなりました。
 人々の声から、僕はその理由を知っていました。
 僕の中にあるのは喜びでした。
 自分勝手で残酷な願いが叶うのです。
 嗚呼、アル。僕も君と一緒になりたい。ようやく、迎えに行く時が来たよ。
 ある美しく晴れた日、僕がその場から立ち上がり、彼女の部屋へと向かいました。



 彼女は小さな身体に対してとても大きな寝台で、微かな呼吸を繰り返していました。
 大人たちは寝台を囲み、彼女の意識がないのを良い事に、これからの事を低い声で話していました。
 彼らが僅か十三歳の少女に重責を負わせてここまで追い詰めたのだと思うと、怒りが沸き起こりましたが、その反面、彼女を迎えに来られた喜びも感じていました。
 良くも悪くも、僕に名を、これらの感情を与えてくれたのは、彼女でした。
 僕が寝台に近付くと、彼女が意識を取り戻して薄く眼を開けました。

「……ああ……」

 彼女は弱々しい声を洩らして微笑みました。

「ウィルシーダ……来てくれたのね……私を、連れて行ってくれるのね……」

 僕は彼女に微笑み返して言いました。

『迎えに来たよ、アル。アルフェリア。君を解放しよう。幼き女王、クイン・アルフェリア』

 たった一人の王族。王を求める声に応え、その為の責務を背負い、短い間その地位にいた十三歳の少女。
 そうして僕は手の平を彼女の額に当てました。

「ああ……あの木漏れ日だわ……自由の匂い……優しい、温もりを感じる……」

 彼女の目から涙がこぼれ落ちました。
 それは外からの日射しにきらりと輝いて、最後の吐息と共に消えていきました。
 その瞬間、彼女から溢れて彼女の精霊が、世界に混じっていくのが感じられました。小さな風が吹きました。
 僕はそれに名を付けました。

『アルフェリア。春に吹く優しい風』

 彼女と出会ってから丁度一巡りした季節でした。





木 漏 れ 日 の 配 達 人

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